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"生の短さについて 他二篇"セネカ 著

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前記事では、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの自省自戒の態度に魅せられた。彼に強く影響を与えたストア派哲学にも触れてみたい。とはいえ、あまり良い印象を持っていない。物理学や論理学を倫理学の中に押し込み、頭でっかちな道徳観念を押し付ける、いわば宗教の臭いがするからだ。しかし、酔っ払いの偏見かもしれない。実際、アウレリウスの唱えた不動心は、セネカあたりから発しているようである。

セネカという人物を知ったのは、タキトゥスの「年代記」を読んでからのこと。彼の死に様が克明に記されている。その箇所を、ちょいと読み返しておこう...
皇帝ネロに対するピソ一派の陰謀が露呈すると、その一味として疑われ自決を命じられる。百人隊長によって伝えられた命令に対して、泰然自若として遺言の書板を要求するも、拒絶される。すると、セネカは友人に言葉を残す。「最も気高い所有物を遺贈したい。それは、私がこの世に生まれた姿だ。」哲学の教えを忘れたのか?長年に渡って考え抜いてきた決意は?そして心の平静はどこへいった?と嘆きながら。生への執着よりも名誉ある死を選んだのは、ソクラテスの精神を継承している。ところが、セネカは相当年を食っていて、節食のため痩せ細り、血の出が悪いために、さらに足首と膝の血管も切られる。ついに友人の医者に毒を与えてもらうが、既に毒も効かないほど手足は冷えきり、五体の感覚も失われている。最後に、熱湯風呂に入り、熱気の中で息絶える。...
その壮絶な死は、画家ルーベンスの作品「セネカの死」にも描かれる。肉体の逞しさなど、タキトゥスの記述とは少し印象が違うにせよ、金属製のたらいに両足を入れて立たされた偉大な哲学者が、口を半開きにし、求めるように右手を差し出しながら、最期の言葉を語ろうとしている。背後で甲冑を身につけた兵士が見守る中、流れ出る血を拭っているのか抑えているのか、たらいの水は赤みを帯びていく。その足元には、言葉を待ち構えて筆を持った者がいて... まさに死にゆく姿が、そこにある。
本書は、タキトゥスやルーベンスの描いたセネカの死に様を、生の意義として蘇らせた作品と言えよう。セネカ哲学とは、生の意義から死を克服する道... とでもしておこうか。尚、ここには「生の短さについて」、「心の平静について」、「幸福な生について」の三篇が収録される。
「畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。」

人はなぜ、何事も都合よく解釈できるのか?なぜ真の姿を見ようとしないのか?いや、見ようとしないのではない。一向に見えてこないのだ。人間の営みってやつが... 義務は、社会に翻弄され、組織に翻弄され、おまけに自己の欲望に翻弄され、忙殺されていく。今やっている仕事は、義務と呼べるほどの代物なのか?と問えば、生活費を稼ぐためとしか答えられない。何かに燃え尽き、真っ白になると、真っ赤なネオンサインに照らして生の活力を蘇らせる。そして、その繰り返し...
人を難ずる前に我が身を省みよ!とは、実に耳の痛い御指摘である。誹謗中傷の類いは、大方この呪縛に嵌る。人間らしく生きるとはどういうことなのか?と問えば、刺激的に生きたいという願いだけが意識のどこかにある。人間社会そのものが、人間の数だけ無理やりにでも仕事を創出し、義務を創出し、価値の循環を煽らなければ成り立たない世界だとすれば、それは自然に適っているのだろうか?などと問うてみても、そうするしか術を知らない。真の義務や自由とやらは、永遠に見えそうにない。凡庸な、いや、凡庸未満の酔っ払いは大声で人生は短いと嘆き、自然な天才は静かに人生を謳歌する。生は短く、術は長い!とはよく言ったものだ。ならば、のんびりと精一杯生きるしかないではないか...

1. 生の短さについて
植物には何千年と生きるものがあるというのに、偉大な魂の持ち主とされる人間はたかだか生きて百年。あっさりと流れに乗って終焉を迎えるのが、死すべき者の持ち味というものか。しかし、その果敢なさを嘆くのは、生があまりに短いのではなく、多くを浪費するからだという見方も、もっともな話である。セネカは言う。人間の生もまた、立派に全うすれば十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられていると。
「死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。」
ある者は闇雲に利欲を貪り、ある者は酒霊に憑かれ、ある者は怠惰に耽けり、ある者はあくせく精出す無駄な労役に囚われれ、ある者は公職(好色)への野心で疲労困憊... 莫大な財産といえでも衝動に駆られ、たちまち雲散霧消!仕事にかこつけて、引退したら「第二の人生」などと言って、あたかもそこに希望を見出そうとする。遅蒔きなことよ。寿命が延びれば、生の意義までも先送り。自由の権利をやかましく主張しても、真の自由人になろうとはしない。実は、自由とは面倒なものなのか?アリストテレスが言った生まれつき奴隷ってやつは、あながち嘘ではなさそうである。
さて、セネカの思想の根幹には、ソクラテスの「魂の不死」があるのだろう。注目したいのは、生の意義を求める方法論として死の意義が位置づけられていることである。
「何かに忙殺される人間の属性として、真に生きることの自覚ほど希薄なものはない。もっとも、この生きることの知慧ほど難しいものもないのである。... 生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。」
さらに、閑暇に生の意義を求めることを「不精の多忙」、あるいは「怠惰な忙事」と呼んでいる。あまりの不精のせいで無気力になり、腹が空いたかどうかさえ自分には分からなくなると。
「すべての人間の中で唯一、英知のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、真に生きている人なのである。」
生きる術とは、死ぬ術のことであったか。死を恐れ遠ざけるだけでは、生と向き合うことも難しいのかもしれん。死を克服できれば、時間を克服し、生の意義を見出すことができるのかもしれん。そして、有意義に生きよ!との忠告に異論を唱えるつもりはない。
しかしながら、無駄を経験せずして、それを知らずして、有意義を知りえようか?有徳者の言うことを鵜呑みにすれば、宗教の類いと何が違うのか?無条件に信じて生きるだけなら、自己の所有までも放棄することになる。生きる道を探求するには、自律的、自発的でなければなるまい。そこには、寄り道や回り道といった道がありそうだ。生の意義を自問し続ければ、最も恐れる死に対しても自然に覚悟できるようになるというのか?少なくとも、死を恐れるがために、わざわざ死を崇高な地位に押し上げることによって、却って死に望もうなんてことはなくなるだろう。死ぬ瞬間まで生の意義を求め続ければ、現在の名声や地位に縋ることもなく、自我の亡霊に憑かれることもなくなるだろう。そして、死すべき者に安息できる場があるとすれば、それは墓場にしかなさそうだ...
「人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。」

2. 心の平静について
友人セレーヌスは「病気でもなく、健康でもない」苛立たしい厄介な精神状態を訴え、セネカに救いを求める。倹約を志したところで、贅沢に目を奪われる。労働を義務づけたところで、怠惰に向かう。善悪も分からず、二つの狭間で遅疑するのが、情念というものであろうか。悩まずともいいことに神経を擦り減らし、自己嫌悪に陥る。それでも、自覚症状があれば、まだ救いようがある。しかし、集団的悪魔になると、どうだろうか?セネカは、民主主義が心の平静を失う恐ろしさについて語ってくれる。
「三十人の僭主がずたすたに引き裂いたときのアテーナイ人の都ほど不幸な都が他に見出せようか。」
ペロポネーソス戦争の直後(紀元前404年)の一年間ほど、スパルタを後ろ盾とした寡頭派の「三十人会」が、アテーナイの実権を掌握し、民主派を粛清して恐怖政治を行った。最も神聖な裁判所アレイオス・パゴスも、理性的な長老議会も、民会も、みな狂気!千三百人もの市民を、それも最良の市民を殺害し、それでも幕を引かず、狂暴さを増していく。そんな渦中にあってソクラテスは、三十人の暴君たちとの間に入って、慨嘆する長老たちを慰め、国家に絶望する人々を励まし、貪欲な金持ちを叱りつけもした。だが、この賢者までも牢獄に閉じ込められ、処刑された。民主主義が暴走すると、法廷の判決までもが世論の機嫌を伺い、法治国家は放置国家となり下がる。
... などと綴ってみると、あまり時代は変わっていないか。人は皆、金銭や地位に嫉妬心と虚栄心が絡むと、偏見に蝕まれ、どことなく怒りを募らせ、隙あらば人を貶めようと狙う。健康な者までも狂気した社会に身を投じれば、心を病んでいく。エリートや有識者や有徳者といった連中が狂うと、これほどタチの悪いものはない。やはり、パスカルが言ったように、人間は狂うものらしい。
「失うよりは手に入れないほうが耐えやすく、容易なのであり、だからこそ、運命が贔屓の目を向けなかった者のほうが、運命に見捨てられた者よりも嬉々としているのだと分かるであろう。偉大な精神を持った人ディオゲネースは、それが分かっていたから、自分から奪われるものが何一つないようにした。」
セネカはめげず、自制心を鍛えよ!と励ます。贅沢を控え、虚栄心を抑え、怒りを鎮め、貧しさへの偏見を棄て、調和の精神をもって質素に価値を見出せと。自然の善行に耳を傾けることができれば、心は自然に平静へ向かうと。世間体や地位、あるいは金銭というものが、いかに自然的でないか、そんなことは凡人未満にだって薄々気づいている。それでも、やめられまへん!やはり、盲目でいる方が幸せなのだ。
「とはいえ、精神を解き放って歓喜と自由へ導き、素面のしかつめらしさをしばしば脱ぎ捨てることは、時には必要なのである。いかにも、ギリシアの詩人を信じれば、"時には狂ってみるのも楽しい"のであり、プラトーンを信じれば、"正気の人間が詩作の門を叩いてもむだ"なのであり、アリストテレースを信じれば、"狂気の混じらない天才はかつて存在しなかった"のである。」

3. 幸福な生について
幸福でありたいと願うのは誰しも同じであろう。だが、幸福をもたらしてくれるものを見極めるとなると、暗中模索にある。一旦、道を誤れば、生を遠ざける危険な道となり、慌てて急げばその呪縛から抜けられない。まずは、自分に足らないものを問うことから始まる。受け入れる度量が準備されていなければ、どんなに優れたものでも見過ごし、挙句の果てに蔑んでしまう。
「この旅にあっては、最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。」
人と同じであることだけを旨として生きることほど、大きな害悪に巻き込むものはあるまい。自ら判断を下すことなく、他人の考えを当てにするだけなら、過ちは人から人へと伝播する。同じ事柄でも、ある時は是認し、ある時は批判する、といった現象が生じるのは、ただ多数というだけで下されるすべての判断の帰結であるという。そして、外部から毀損されず、征服されない人間を目指し、自ら生の創造者になれ!と励ましてくれる。そのために、知識の裏付けがなくてはならず、知識には恒心の裏付けがなければならないとしている。優柔不断やたじろぎは、精神の軋轢と恒心のなさの証であると...
「現実は、己の悪の弁護人となり、理性に敵対するのが、大衆というものなのだ。自分で選んでおきながら、移り気な人気が向きを変えるや、あの男が法務官に選ばれたとは、などと選んだ当人が驚いている民会での光景も、それゆえである。」
ここで、注目したいのは、エピクロス派の徳と快楽の関係を論じながら、ストア派の信条が語られることである。ストア派が、快楽を容認するのは賢者によるものだけだという。つまり、徳と結びついた快楽を選ぶこと。
「賢者の快楽は穏やかで、控えめで、ほぼ無力に近く、抑制され、ほとんど目立たないものなのである。それも当然で、賢者の快楽は招かれてやって来るわけではなく、また、快楽が勝手にやって来ることがあるにしても、敬意をもって遇されることも、それを知覚する賢者の何かの愉楽をともなって受け入れられることもないものだからである。いかにも、賢者は、真面目なものに遊びや冗談を織り交ぜるようにして、生にそうした快楽を綯い交ぜ、点綴するのである。」
対して、エピクロス派の快楽は、非凡な義務を負わせていると指摘している。一般向けではなく、高等向けということらしい。これを「快楽の毒見役」と称している。毒見役は奴隷の仕事であり、徳を快楽に隷属させるエピクロス派への皮肉というわけか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、理想を崇めること。実践的観念がともなわなければ、空論で終わるどころか、むしろ毒となる。そして、ストア派の信条というべきものが、これであろうか...
「大胆にこう公言してよいのである、最高善とは精神の調和である、と。協和と統一のあるところ、必ずや徳があるからであり、不和分裂は悪徳の習いとするところだからである。」

"怒りについて 他二篇"セネカ 著

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セネカをもう一冊...
本書には、「摂理について」、「賢者の恒心について」、「怒りについて」の三篇が収録される。その流れは、まず、自然の摂理によって生じる災難を試練と捉えた運命論を語り、次に、人間社会で受ける不正や侮辱に対抗する恒心を語り、最後に、最も心を乱す怒りの情念に対処する方法論を語る。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの語の音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん...

ストア派哲学者として知られるセネカは、カリグラ、クラウディウス、ネロという言わば病的で狂乱的な皇帝に仕え、ついには謀反の嫌疑で自裁を命じられる。政界には暗殺や陰謀が渦巻き、いかに毒された時代であったか。それはタキトゥスの批判的叙述を読めば想像に易い。社会の退廃は、思想家の間で道徳観念を優勢にさせる。ストア学派もまた、ローマ帝国にありながら、ポスト・アリストテレスの流れを汲むヘレニズム調の一派として育まれていく。そして、古代ローマ社会にとって、ストア学派はキリスト教の受容の素地となったとも言えそうか。社会の退廃を目の当たりにすれば、人間は誰しも愚痴っぽくなり、説教じみてくるものかもしん。賢者といえども...
ただ、あまりに完全無欠の賢者モデルが提示されると、こそばゆい。エピクロス派を非凡な義務を負わせていると批判して、凡人を導くものでなければ... などと語られるが、やはり凡人未満はストア派になれそうにない。尚、あるパブにセネカさんという女性がいると聞くと、そちら方面のセネカ派にはイチコロよ!

さて、心を最も乱す情念といえば、怒りであろうか。そのシンプルな形は復讐心として現れる。他人から不幸を被れば、倍返ししたいというのが人情。おそらく、法律の実践において最も機能するものが、復讐の及ぶ範囲の規定であろう。古くから、復讐行為に制限を与える法律が実践されてきた。ローマの十二表法では、怪我を負わせた者に対して同じ程度の復讐が許され、ハンムラビ法典には、目には目を歯には歯を... といった記述が見られる。武士の時代に仇討ちが合法化されたように、騎士の時代にも決闘の法慣例がある。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。
セネカは、怒りを不正に対する仕返しの欲望であるとしている。しかも、衝動ではなく、きちんと判断した結果であると。だからこそ、陰湿な陰謀といった行為に及ぶ。しかしながら、不正を規定することは難しい。誰もが都合よく解釈し、巧みに主張する者が勝つ社会となれば、正義が不正に加担することになる。怒りの情念は狂気の類いであり、些細な理由とて一旦激怒すれば、正義も真理も見分けがつかない。動物にも、衝動、狂暴、獰猛、攻撃性はあるが、それは怒りではない。動物には不正の概念がないからだ。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。セネカは、怒りが存在しないのは奢侈がないのと大差ないという。ただし、ある種の快楽に対しては人間よりも無抑制ではあるけれど。
動物には、徳が認められなければ悪徳も認められない。となると、徳だけを持ち、悪徳を持たない人間なんて存在しうるのか?有徳者たちは悪徳にも優れているということか?だから、恥ずかしげもなくモラリストを演じていられるのか?慢性的に恐怖や不安を抱えていれば、その反動で怒りっぽくなり、最も動物性の強い情念を剥き出しにする。だが、怒りも捨てたもんじゃない。自己への怒りとなれば、自省自戒の念へと向かわせるだろう。やはり、怒りは排除すべきものとするより、自然の情念として受け入れ、抑制する手段を考えた方が良さそうである。
そこで、セネカは、生を浪費する人間どもに、時間と死の概念を伝授する。怒った相手には、議論を持ちかけるのではなく、考える猶予を与えること。怒った自己には、生の果敢なさ思うこと。
「何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである。」
いかに生を浪費させているかを知り、時間を克服し、存在を克服することこそが、心の平静を取り戻す極意というわけか。
しかしながら、怒りと同様に手強い情念がある。愛こそが、人々を盲目にする恐るべき相手だ。大衆の盲愛が個人崇拝に及べば、残虐な行為ですら命じられるがまま。しかも、自己が制御不能に陥っているにもかかわらず、自由意志で行動していると信じ込む。したがって、怒りに愛が結びついた愛憎劇ほど、最も過酷となろう。憎しみを快楽にしてしまうだけにタチが悪い!
「怒りが自然に即しているかどうかは、人間を観察してみれば明白だろう。心のあり方が健全であるかぎり、人間より穏やかなものがどこにあろう。だが、怒りより過酷なものがどこにあろう。人間以上に他者を愛するものがどこにあろう。怒り以上に憎むものがどこにあろう。人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破滅のために生まれた。人間は集合を欲する。怒りは離散を欲する。人間は貢献を欲する。怒りは加害を欲する。人間は見知らぬ人すら援助する。怒りは愛しい者すら苛む。人間は他人のため、進んでみずからを危険にさらす。怒りは危険の中へ、もろともに引き込むまで堕ちていく。だから、この獣じみた危険この上ない悪徳を自然の最善にして完全無欠の業に帰す者ほど、自然を理解していない者がどこにいよう。」

1. 摂理について
摂理が存在しながらも、なぜ善き人に災厄が降りかかるのか?自然の摂理とは、無作為にカオスから生じた結果でしかなく、そこには秩序は存在しないのか?宇宙のクラスタ化とは、いわば地方自治における秩序のようなものが自然に形成された姿ではないのか?なぜ、銀河団、太陽系、あるいは地球という単位で秩序らしきものが生じるのか?しかし、地球上にも不規則な現象が生じる。突然の嵐、炸裂する稲妻、怒り狂う火山、滑り落ちる地面、押し寄せる高波... 自然は人間にとって都合のよいものばかりではない。普段は神との和解によって、平穏が保たれているものの...
善き人という定義も難しい。人間社会にとって善き人でも、自然にとってはどうなんだろうか?正義も、道徳も、理性も、知性も... 精神の持ち主の気まぐれや退屈しのぎに過ぎないのかもしれん。精神の鍛錬と解釈すれば、悪もまた善に転換される。質素な生活が不憫とも言えないし、惨めに見えても本人は楽しんでいるかもしれない。一方で、裕福に暮らしてもなお自殺しおる。
「何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。」
自分に何ができるかは試さずに分かるはずもない。若い時の苦労は買ってでもせよ!と言うが、年を取っても悟れなければ、旅を続けるしかないではないか。寿命が延びれば、親より子供の方が先にあの世へ逝くケースも珍しくない。年齢は抽象化され、定年なんて概念も吹っ飛ぶ。
「私は信じる。不幸に遭わなかった者ほど不幸な者はいない。自分を試すことが許されなかったからだ。」
ストア派は、宇宙が究極的な善によって設計されているという一元的な理性主義の立場をとる。この宇宙原理を神と解することも容易いので、キリスト教とも相性が良さそうである。とはいえ、人の世には不合理が充満する。賢者ソクラテスですら名誉を汚され処刑された。弟子たちが脱走を促したにもかかわらず、国家の名の下で裁かれる方を望んだのだ。彼の意志が、能動的か受動的か、見解が分かれるところであろう。セネカは、能動的試練と捉えている。世間から不正や侮辱を受けても、いかに対処し不動心を会得するか、これを問うている。理性ってやつは、権威や名声なんぞに左右されないものらしい。
「成功は民衆や凡才にすら訪れる。だが、死すべき者を襲う危機と恐怖を打ち倒し、敗北の軛の下へ送り込むのは、偉大な者の本分である。実際、いつでも幸せで、心の苦しみを知らずに人生を送るのは、自然の今一つの部分を知らないでいることである。」

2. 賢者の恒心について
「賢者は安泰である。いかなる不正にも侮辱にも動じない。」
ソクラテスの精神「善く生きる」が、継承された作品ではあるが、どうも説教じみて聞こえる。というのも、賢者は一切の悪徳を持たないので、悪を受けることも、不正を受けることもないというのだ。しかし、ソクラテスは不正を受けて処刑されたではないか。当時のローマの愚暗な風潮から、悪徳を徹底的に糾弾せずにはいられなかったのか?侮辱という人間社会の軋轢や、集団的悪魔を風刺したような皮肉も見られる。おまけに愚痴ぽい。
「われわれは、途方もない浅薄さに至った結果、苦痛はおろか、苦痛の想念に悩まされている始末である。実に幼稚だ。」
不正が悪なくしては存在せず、悪は卑劣さなくしては存在しないとすると、おまけに、卑劣さが高潔さによって占められているところに到達できないとすると、不正が賢者にまで届く道理がないという。
「賢者は怒りを知らない。怒りを駆り立てるのは、不正の様相である。だが、怒りを知らないことは、不正も知らないのでなければ、ありえない。」
しかしながら、誰の威信も傷つけず、身体も傷つけず...という人間が存在するだろうか?社会競争に自身が曝されれば、人が生きるということ自体、誰かを犠牲にしていることにならないのか?賢者は、自分に不正が及ばないことを知っており、それゆえに自信と歓喜に満ちているという。
では、いつも憤慨している有識者や有徳者たちは、賢者とは程遠いというのか?これは納得!侮辱に動かされる者は、自らの内に何ら思慮も自信もないことを暴露しているという。賢者は、そうした心痛や不愉快の感情など、克服するどころか、感じすらないという。鈍感ってことか?不正も侮辱も感じないとすれば、復讐心も生じようがないので、人を罰する立場にはうってつけであろうけど。政治家どうしで罵倒し合い、社会に不快感をまき散らすのは、賢者でない証というのか?これも納得!
では、最高の徳の持ち主とされる政治指導者たちが賢者でないとすれば、どこに賢者がいるというのか?政治とは無縁な僧侶の中にいるというのか?お布施でベンツを乗り回すような、あるいは、神の代理人と自称する者か?どうりで、自信満々に理性を振りかざし、説教したがる輩が大勢いるわけだ。善が人間の本性なら、悪もまた人間の本性。超人でもなければ、完全に不正を断ち切ることなどできまい。悪徳の蔓延る社会が住みづらいのは確かだが、賢者ばかりの社会も窮屈そうである...

3. 怒りについて
社会の幸福を損ねる筆頭がローマ皇帝とすれば、権力抗争で皇帝自身が侮辱の餌食となる。総督、裁判官、民衆までも追従しては、狂気の沙汰よ。怒りは懲罰に貪欲で、自然本性は懲罰を愛好しないという。怒りを、復讐心に限定すれば、そうかもしれない。だが、有徳者や理性者ほど、罰則を強化せよ!と主張するではないか。管理や監視を強化したがるではないか。
怒りは、嫉妬からも差別意識からも生じる。見下した者が自分より賢い行為をなせば、腹立たしくもなる。エリート意識の類いだ。どんなに優れた法案であっても、政治家自身が主役になれなければ、抵抗勢力に成り下がる。自分が介在できなければ、他人の幸せまでも邪魔をする。怒りが自己愛からも生じるとすれば、賢者には自己愛がないというのか?
やはり、怒りとて必要ではなかろうか。自分への嘆きが怒りとなって、自己の欲望を抑制するところがある。怒りは、判断から生じるのか?衝動から生じるのか?ストア派の見解では、心が賛同しているとしている。不正を被って、復讐を熱望するということは、立派に判断が下されていると。ただ、深い思慮の下での判断かは別だが。他人の悪徳に依存するというくらい馬鹿馬鹿しい生き方もなかろう。絶えざる憤怒と憂いのうちに過ぎていく人生なんて。
しかしながら、非難すべきことを目にせず、憤慨せずに済む、なんてことがありえようか。仮に衝動だとしても、それがなければ退屈しそうである。つまらぬミスをした自分に、憤慨することがよくある。反省ではなく、怒るのだ。だから、また同じミスをやる。怒りは、嘘つきや悪賢さに比べれば純真に見える。だが、セネカはそれは純粋ではなく無分別だとしている。愚者、浪費家、放蕩家の類いか。
「怒りは贅沢より悪い。なぜなら、贅沢が堪能するのは自分の快楽であるのに対して、怒りが楽しむのは他人の苦しみだからだ。怒りは悪意と嫉妬を打ち負かす。それらは相手が不幸になるのを欲するのに対して、怒りは不幸にするのを欲するからだ。」
セネカは、怒りに対する処方箋を二つ提案してくれる。
一つは、時間の概念。怒りっぽくなったら、相手にも自分にも猶予を与えること。つまり、遅延だ。時間の役割は、なにも面倒なことを先送りによって安心するためのものではあるまい。時間の収支は常に赤字で、期限に追われ、機嫌を損なう素となる。人間社会では、なんでも早く片付ける事が善とされる。仕事、スポーツ、コンピュータ処理、速読法... これに速愛法を付け加えておこう。それもそのはず、生きる時間が限られているのだから。ただ焦っているだけという見方もできるか。愛する二人は、時間が止まってほしいと願う。それもそのはず、別れる運命を暗示しているのだから。
「怒りの最初の発作を言葉で鎮めようとしてはならない。耳が聞こえず、正気でないのだから。怒りに時の猶予を与えよう。緩和してきたとき、治療はよく効く。目が腫れ上がってる時は手当てを控え、力が冷えて固まっている時、動かすことで刺激する。他の疾患でも、激しい時は同様である。病気の初期段階は安静が癒してくれる。」
二つは、死への想い。永遠の生を承ったかのように怒りを宣言し、束の間の人生を霧消させる。自己の気高い喜びの時間を放棄し、他人の苦痛と呵責に費やす。そして、振り返れば、死が迫っている。
「今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できす、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えうるかどうか、気をつけるがいい。善き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受けとるのだ。」

4. アリストテレス論
アリストテレスは、怒りの情念を必要とした。それなくしては戦闘は不可能だし、精神と意気に火をつけることもできないと。ただし、それは指揮官ではなく、兵士に必要だとしながら。対して、セネカはこれを誤りだとしている。怒りの特性は頑固さであるが、勇敢さは怒りから生じるものではないと。理性に基づく怒りは、もはや怒りではないということか。
ちょいと、アリストテレスを弁護するなら...
怒りによって描写できる芸術というものがあろう。怒りが制御可能なほど小さい分には、大した問題になるまい。怒りに歯止めをきかせることこそが問われるべきではないか。人間が具える自然の情念を抹殺するとは、神経を切断するようなものではないか。一つの情念を抹殺すれば、別の情念を暴走させ、精神を歪ませることになりはしないか。もっと言うならば、抑制能力を身につける上でも、怒りは必要なのではないか。実際、自然の摂理に対しては、現実を受け止めて試練とせよ、と語っていたではないか。怒りは、人間にとって本当に自然本性的なものではないのか?怒りに対して抑制力を身につければ、あらゆる情念の暴走をも、自己への怒りとして抑制することができるのではないか。これが調和、すなわち、中庸の原理というものではあるまいか...
そもそも、人間精神は常に正気でいることの方が難しい。自己を完全に制御することは不可能であろう。目に見える身体ですら、血液の流れを止めたり、心臓の鼓動を自由に止めたりはできない。ましてや目に見えない、実体があるのかも分からない魂を完璧に制御するなど...

5. 僭主弑殺者の逸話
「怒りについて」で紹介される僭主弑殺者の逸話は、どこかで読んだような気がするのだが、ゼノンのパラドックスの類いであろうか?記憶が定かでない。それは、怒りが僭主をして僭主殺しに手を貸すというお話...
アテナイ王ヒッピアースの暗殺に失敗した者が捕らえられた。共謀者を白状するよう拷問にかけると、王の周りに立つ友人たちと、王の安全を大事にしている人々の名前を挙げていく。ヒッピアースは、名前が挙がる度に一人一人殺すよう命ずる。そして、まだ誰か残っているか?と尋ねると、後はお前一人だ!お前を大事にしている者は一人も残さない!と答える。己の防護を、己の剣で抹殺したのだった...
この逸話は、エレアの哲学者ゼノンに関わるものとされるそうな。
対して、アレクサンドロス大王は豪気だ!侍医ピリッポスの毒に気をつけるよう忠告されても、恐れもせず杯を受け取り、友人を信頼する自分を信じて怒りごと飲み干したのだった...

"ムッシュー・テスト" Paul Valéry 著

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ポール・ヴァレリーといえば、小説家というより評論作家という印象がある。いつも知性溢れる評論振りに魅了され、おかげでポーの「ユリイカ」やパスカルの「パンセ」にも出会うことができた。彼が評論した作品にはすべて触れてみたい!と願っているのだが、なかなか...
さて、「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリーの残したただ一冊の小説集だそうな。ごく短い数篇の小説と断章群とから成り、その一つ「ムッシュー・テストと劇場で」は、小林秀雄訳以来(昭和7年)ずっと「テスト氏との一夜」という訳題がつけられてきたという。ムッシュー(Monsieur)という語はよく敬称に用いられるが、翻訳者清水徹氏によると、この小説では少し違うニュアンスを与えていて、わずかな軽蔑と皮肉、あるいは喜劇的な意味が込められているのだとか。また、テスト(teste)は、tête の古い綴りで、「頭、おつむ」といった意味がある。したがって、「ご立派なオッサン」といった感じであろうか。なるほど、評論作家としての優雅な皮肉振りが顕れている。下手な訳題が小説のイメージを壊すことがある。微妙なニュアンスは読者の感性に委ねた方がいい...

「わたしは文学を疑っていた、詩というずいぶん精密な営みに対してまでそうだった。書くという行為は、つねに、ある種の知性の犠牲を要求する。たとえばだれもが知るように、文学書を読むための諸条件は言語への過度の精密さとは相容れない。知性はえてして日常言語に不可能な完璧と純粋を求めたがる。しかし、精神を緊張させなければ快楽をえられない読者などめったにいるものではない。わたしたちは何やら面白がらせなければ読者の注意を惹きつけられないし、こうした種類の注意は受け身なものだ。」
ヴァレリーは、いきなり物書きとしての虚しさを語り始める。そして、テストという人物像は、彼自身の意志に酔っていた時代に、奇怪な自意識過剰の渦中から生み出されたと語る。学問の威信や魅力の大部分は、若干の約束事から借りてきたもので、青春とは、その約束事がよく分からぬ時期であり、また、よく分かってはならぬ時期であるという。人生には、盲目的に従ったり、逆らったりする時期も必要なのだろう。青春期には自由を奪われ息苦しく感じるもので、いまだ盲目的に逆らう酔っ払いは青春真っ盛りよ。
真理を言葉に求めれば、信念や偶像に対する軽蔑から生じる人間の悪魔性を恨み、やがて自己嫌悪に陥る。人格の可塑性は、情緒の激しい若年期に、社会への反抗という形で深く根付いていく。物書きの資質は、こうした精神活動から育まれるのであろう。ムッシュー・テストとは、ヴァレリーの分身であったか...
「存在する一切をただ自分だけに変形し、自分のまえに何が差し出されようと、それを手術してしまう、そんな精神の持ち主と見える存在に対して。わたしは想いをうかべるのだった。」
これは、哲学する自分自身を外から眺めているような人物の物語。哲学を疑う立場からの哲学論議とでもしておこうか。哲学する自分を観察しながら哲学をやり続けると、やがて思想、信条といったものに興味を失っていくのだろうか。客観性を身に付けるとは、そういうことであろうか...
人間は他人との比較、批判によって、自己の鏡像を見出そうとする。自分には自分の姿が見えないのだから。では、鏡像のない人間、あるいは、鏡像を必要としない人間とは、どういう存在であろうか?重量をまとった霊感のごときものか?まさか、それが悪魔ってやつではあるまいな!なぁーに、心配はいらない。人間の精神空間には、神の棲家も用意されている。なんじの悪魔を隠せ!と言うなら、なんじの神を隠せ!とでも言ってやれ!ただし、家を用意したところで、誰が住み着くかは知らん...

ところで、哲学には「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、理念的な... といったメタ的思考が。対して、形あるもの、時間や空間を含めた物理量で計測できるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神上でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而の上にあると、どうして言えよう?哲学が自問の原理に支えられる以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自分自身にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となり、扱いは危険となる。ときには、人間の掟に背き、自我が構築してきた原則を破り、あるいは、自己の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。下手すると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。メタ的思考も、もうメタメタよ!
精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となる。思考の死が肉体の死を招くのかは知らん。精神の持ち主は、常に肉体が自我に弄ばれる宿命を背負う。ここに思考実験の恐ろしさがある。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対してですら残虐行為に及ぶことがある。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。幸福になりたいだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。信じるだけで導いてくれるのだから。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は、常になんらかの泥酔状態にあり、自我への陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。したがって、哲学するに、アルコール成分は絶対に欠かせない。強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでいいではないか。まろやかな香りが孤独を演出すると、そこには、琥珀色に染まったグラスに話しかける自我がいる。ちなみに、ヴァレリーにはフィーヌ・ブルゴーニュがよく合う...

1. 人生の終止符
精神の勝利の瞬間をいくつか数え上げようとすると、くだらない記憶ばかりが蘇る。いくつか読んできた本の内容ですら思い出せない。だから、こんなブログを書いているのかもしれん。思考の履歴を刻むために。良いことばかりが記憶に留まるわけではない。嫌なことを意識して忘れようとしたわけでもない。ただ残ることのできたものが、残っている。そのおかげで、歳をとることにも驚かずに済む。やがて、記憶の蓄積が知性へ昇華させ、死の恐怖を和らげてくれるのだろうか?その恐怖を自然に受け入れられる心境となった時、精神が勝利する瞬間となるのだろうか?それをじっと待ちながら、日々の作業に明け暮れ、自己の年代記を刻み続ける。
しかしながら、どんなに言葉を駆使しても、精神を言い当てるような的確な言葉は見つからない。必死に夢想したところで、自己の理想像を思い浮かべることもできない。思考を重ねれば、自己愛も、自己嫌悪も、その双方で旺盛となる。いつの日か、どちらの自分も受け入れられる時が来るというのか?それが、自分に終止符を打つということなのか?あるいは、単なる諦めの境地であろうか?
「透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理(ことわり)を知っているひとたちだ。無名に生きながら、彼らはいかなる著名な人物をも二倍に、三倍に、数倍にも偉大にした人物だとわたしに思えた、... 幸運をつかもうと、独自の成果を挙げようと、それを世に示すことなど軽蔑している彼ら。思うに、自分は、そこらへんにあるものとはちがう、などと考えるのは拒んだことだろう...」
思考や行為を完全に自己管理できれば、完全な自由人となれるだろうか?いや、管理できない部分があるから人生は面白い。それを放棄するとは、なんともったいない!気まぐれほど偉大な精神活動はない。そのおかげで、知らない自分を発見することができる。そして、死期もまた突如としてやってくるのだろう。死期までも想定できたら、人生はますますつまらぬものとなりそうだ。生を律する倫理学があるなら、死を基軸に据える哲学があってもいい。精神の危機に対抗するために、死の意義を考え、そこに生の意義を求める。無を基軸とした人生観とでもしておこうか。
しかし、これは賭けだ。人間の能力では到底答えられそうにないのだから。それでもなお賭けに挑むのが、ヴァレリー流倫理学というものであろうか...
「ことはつまり、ゼロからゼロへの移行だ。そして、それが人生なのだ。無意識にして無感覚から、無意識にして無感覚へ。見ることの不可解な移行、なぜならその移行とは、見ないことから見ることへと移ったそのあとで、見ることから見ないことへと移ることなのだから。」

2. 死すべき人間
ヘシオドスの言った「死すべき人間」ってやつは、あらゆる場面で自己愛を見出す能力を持っている。時には自分を偉いと思い、時には自分を愛し、時には厭わしく思い、時には支離滅裂となり... そうしたことが、いかに自己を抹殺していることか。それにも気づかず、権威や名声や地位の殉教者と成り果てる。希望という幻想に魅入られると、絶望という名の希望に憑かれ、ついには人生に疲れる。自我ってやつは精神空間を、下等動物に位置づけるゼロ点と神を位置づける無限大点との間を、恐ろしく敏速に往来してやがる。自己の正体を知らないということが、無と無限の間を瞬時に移動させるのか?まるで株式の変動相場のように。慈しみと憎しみの間を瞬時に往来すれば、いつも両極に吸い寄せられて偏見となる。知性が... 理性が... いったい何を補完してくれるというのか?思想なるもの、信条なるものが馬鹿馬鹿しく見えてくる。これが死すべき人間の本性というなら、そうかもしれん...
「崇高なるものが連中を単純化している。断言してもいい、連中の考えるところは、そろって、しだいに同じことがらのほうへと向かってゆくんだ。やがては危機だか共通の限界だかをまえに、ずらりと等しなみに並ぶことになるのさ。もっともこの場合、法則はそんなに単純じゃないぞ... このわたしにはおかまいなしなんだから、...で ... わたしは現にここにいる。」

3. 意識の産物
「愛すること、憎むことは存在の下位にある。愛すること、憎むこと... それはわたしには偶然のように見える。」
俗人の愛といえば、家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろう。こうした愛は感受性に囚われる。しかも、憎しみの根源となるのだ。罵り合えば、双方に悪魔を目覚めさせ、空想の中に愛の理想像を描き続ける。憎しみの理想像までも。だから、すぐに現実逃避に走るのか。こんな都合のいい能力は、神ですら及ぶまい。なんでも実現できる神が、空想に縋るはずもない。いや、全能者なら空想をこしらえる能力もあるか。現実世界に、人間なんて不完全なものをこしらえるぐらいだ。まさか!神までもが、現実と空想の区別がつかない?ってことはないだろうなぁ...
すべてが意識の産物だとすれば、現実だろうが、空想だろうが、どっちでもええでねぇかい!ただ、空想だからやり直しができる、なんて特別扱いするから、自我を悲惨へ導く。宇宙にしても記述でしか示せず、紙の上にしか存在しないではないか。無限なんて大した問題じゃなければ、無なんて恐れるに足らん。神(かみ)と紙(かみ)が、同じ音律なのは、偶然ではないのかもしれん。そして、安心して自己を疑い、自己存在を否定することもできるという寸法よ。尚、亭主はかみさんに頭が上がらないものらしい。
道理に幻滅し、成功の確実性に嫌気がさしたら、冒険をしてみることだ。自分の中の所有者をくまなく探してみることだ。完全なんて糞食らえ!人生もまた、意識の産物でしかないのかもしれないのだから...
「わたしは馬鹿者ではない、なぜならば、自分のことを馬鹿者だと思うたびに、わたしは自分を否定しているからだ。自分を殺しているからだ。」

"エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話" Paul Valéry 著

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ヴァレリーが、プラトン風の対話篇を書いているとは知らなんだ。本書に収録される三作品は、彼の最も美しいとされる対話篇だそうな。文学作品への想いが自然な物理現象として現れると、もはや余計な知識はいらない。文章の流れとは、川の流れのごときものであったか...
しかしながら、あらゆる物理現象は、観測することによって認識される。人間の認識能力では、観測系の介在なしに物理系を構築することができないのだ。人間が認識した途端に、あらゆる現象を捻じ曲げて見ていることになる。自然のままの自分の姿すら見えない。精神の投影を崇高な光に頼ったところで、光ってやつは障害物の前で反射し、屈折し、たちまち分散してしまう。人間ってやつは、生きている間に様々な知恵をつけ、その積み重ねが狡猾さを身に付ける。光はいつも回折し、余計な知識が真理への道を回り道させる。今宵も、琥珀色に染まったグラスの反射光がまぶしく、目の前がよく見えん...

「人間であるか精神になるか、そのどちらかを選ばねばならない。人間が行動できるのは、ただただ知らずにいることができ、人間の特異な奇癖である認識の一部分で満足できるからに他ならない、つまりこの認識というものは必要以上にすこし大きすぎるのだ!」

プラトン風の対話篇であるからには、ソクラテスが登場する。しかも、冥界に。お宅が隠遁したのは、騒ぎ立てる俗人どもが煩わしいからですかねぇ、ソクラテスさん?
「死者の国では思考は分割できない。いまではわたしたちはあまりに単純化されていて、何かある思考が動きはじめると、その動きが終点に達するまで、じっと堪え忍んでいるしかないのだ。生者には肉体があり、そのおかげで認識を中断して出ていったり、また戻ってきたりできる。生者は一軒の家と一匹の蜜蜂とからできているわけだ。」
魂が肉体という宿に住み着いている間は、純真な思考を呼び起こすこともできないというのか?ならば、目の前で思考している者がいれば、静かに見守り、余計な口出しをして邪魔をしないでおこう。ましてや人の話している途中で、言葉の揚げ足をとったり、大声で割り込んだりするのはやめるがいい。自由に話すから、自由に質問できる。まずは自分に問い、そして自分に答えることだ。沈黙を守ることで相手に犠牲を捧げることが、真理への道となろう。
ソクラテスは、一旦、理性をも蔑み、アンチソクラテスを演じて見せる。自己否定の試みか。既に社会が腐敗していれば、やがて肉体も腐り果てる。先んじて肉体を棄て、雲や風の動きに魂を同化させる方が、よっぽど有意義だとでも言わんばかりに...
「あの下界では、不滅だった、... 死すべき者たちに関連してのことさ!... しかし、ここでは... いや、ここというところはない、わたしたちがいま言ったことは、すべて、この冥界の沈黙の自然な戯れに他ならない、わたしたちを操り人形のようにあつかった、向こうの世界の、とある修辞家の気まぐれと同じように!」
なるほど、ソクラテスの試みもまた修辞家の気まぐれで、そこに不滅があるというわけか。そして、この気まぐれな修辞家こそが、ヴァレリーさん御自身でしたか...

「人間は自然全体ではなく、ただその一部を必要としている。もっとひろい考え方をして全体を所有したいと望むのが哲学者だ。だが人間は生きることしか望んでいなくて、鉄も青銅も必要とするのではなく、あるしかじかの硬さ、あるしかじかの可延性を必要としているにすぎない。... 人間は自分の目的しか見つめない。」

1. エウパリノス
ソクラテスとパイドロスを登場させ、冥界で対話させる。パイドロスは、高名な弁術家リュシアスの心酔者で、プラトン著「饗宴」にも登場する。話題は、偉大な建築家エウパリノスの言葉をめぐってのもの。
「愛する対象が人びとを動かすように、わたしの神殿は人びとを動かさねばならぬ。」
自然哲学への想いを強めるあまりに、人工物の限界を悟り、ついには建築物の可能性までも圧殺してしまうのか。なぁーに、心配はいらない。建築物の静的空間の中で、精神活動を反映する音楽へと議論が及ぶと、まさに静と動の調和芸術として蘇る。沈黙の建築が、魂の中で歌いかける建築へと昇華させるのだ。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとした。澄みわたった空の中に旋律の大建造物を想い描くと、一方の側に音楽と建築、他方の側にいろいろな芸術を位置づけるよう導かれるという。額縁に囚われた絵画は事物なり人物なりを装うだけ、彫刻も同じで視界を飾る一部分に過ぎないと。
確かに、絵画は静の手段である。だが、巨匠が手掛ければ、動画よりもはるかに動的な物語を演出するではないか。額縁が世界を閉じるというなら、壁画はどうか?建築物の装飾はどうか?そこに、なんらかの幾何学的形象が生じ、哲学的意義を与えるならばどうであろう。空間的な静と時間的な動とのコラボレーションこそが、ある種の小宇宙を形成する。永遠の存在を代弁する不動性と、奏でながら瞬時に過ぎ去る流動性との調和が、無限の宇宙を物語っているではないか...

2. 魂と舞踏
ソクラテスとパイドロスに、エリュクシマコスが加わって、舞踏の意義についての論議が始まる。エリュクシマコスは、同じくプラトン著「饗宴」に登場する医者で、ソクラテスの思想を注いで欲しいと願っている。だが、凡人は、知性よりも明日にも役立ちそうな知識に目を奪われ、美味の餌食となる。いくら思想のご馳走にありついても、消化不良に陥っては元も子もない。すると、医者の立場から身体の健康を気遣わずにはいられない。
川がただ水を上から下に流すだけの存在だというなら、人間はどうであろう。喰ったものを排泄しているだけではないか。しかも、川の流れよりもはるかに早く果てる。民衆の気移りは激しく、世論は右往左往し、どんな頑固爺であっても、自然の意志力には遠くおよばない。そんなものに、理性を獲得する能力があるというのか?本当に、魂は人間固有のものなのか?どんなに立派な人間であっても、喰うためなら何でもやる。生きるためなら何でもやる。理性が働くのは心に少し余裕がある場合であって、自己存在に保証がなければ何でもしでかす。だから、見下しながら施すか、見返りを求めながら施す。肉体が優雅に踊っていられるのも、魂に余裕があるからだ。知性も同じよ。モノの本質を見極めようとするのも、心のゆとりからくる。そこで逆説的ではあるが、自己の正体を知るために、純粋な魂を呼び起こすために、一旦、舞踏の享楽に身を委ねてみてはいかが...
「真実と虚偽とは同一の目的をめざす、... 同じひとつのものが、別々の仕方で振舞うだけで、わたしたちは嘘つきにもするし、真実を語る者にもする。」
ムーサイの舞いに見蕩れ、一旦、官能の世界へと魂を誘なう。優雅な踊り子たちと音楽の共演の中に身を委ね、さらに酒によって魂を浄化する。すると、素朴な無知者でも、自然美を見分ける能力を纏うことができるとでもいうのか?甘美な接吻の渦の中で、高貴な美脚をむさぼり、知性豊満なボディラインに顔をうずめてみよとでも。よーく分かった!さっそく従おう。真理の素はハーレムであり、真理の道とはエクスタシーへの道であったか...

3. 樹についての対話
古代ローマの詩人ルクレティウスと、ウェルギリウスの「牧歌」に登場する牧人ティティルスが登場する。晩年に相応しい樹齢を思わせるような作品。自然の偉大さに、人間の命の果敢なさを投影するかのような...
人間はたかだか生きて百年だが、植物には何千年と生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。人間の知能で、自然のすべてが語れるとは思えないし、植物に意志があったとしても不思議はあるまい。植物にしても生あるものは、なんらかの周波数を発している。そこに、言葉がないと言い切れるだろうか。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数範囲においてのみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれない。曇のない心を持つ者なら、ひょとしたら聞こえるのかもしれない。
しかしながら、人間は純真さを失っていく。生きるための知恵ってやつが、狡猾さを身につけさせるのか。自然が神の恵みならば、知恵は悪魔の恵みなのか。人間どもには、いつだってメフィストフェレスに魂を売る用意がある。人間社会に横行する誇張、流布、デマの類いに耳を傾けるぐらいなら、川の流れる音、波の音、草木が風に揺られる音に耳を傾ける方がいい。芸術の天才たちは、自然とよしみを通じあう能力を持っているのだろうか。その資格を持っているのだろうか...

"精神分析学入門(I/II)" Sigmund Freud 著

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精神科医ジークムント・フロイトは、第一次大戦下でシェルショックが社会問題となった時代を生きた。現在では、戦闘ストレス反応(combat stress reaction)と呼ばれる。塹壕で手足を失い、化学兵器で目や耳や顔面を失い、アメリカ赤十字社によって作られたパリのアトリエには、傷を隠すための義肢やマスクが作られ数多くの人が訪れた。
フロイトは、従来の催眠術から決別し精神分析療法を確立する。本書は、1915 - 16年と、1916 - 17年の冬学期の二期に分けて行われた講義記録である。ただ、「精神分析学」と題しておきながら、精神病という言葉が数えるほどしか見当たらない。精神分析というと、素人感覚では心理学と結びつけてしまうのだが、どうやら鬱病や躁病の類いとは違うようである。
「ノイローゼ論は精神分析そのものなのです。」
神経症(ノイローゼ)と心身症の違いも微妙に見えるが、ここで扱われる題材が心の病であることは間違いなさそうである。まぁ、分類や定義は専門家に任せるとして、重要なのは治療法としての心の接し方であろう。
注目したいのは、自由連想や夢判断の観点から無意識を徹底的に扱っている点と、エゴイズムよりもナルシシズムを重視しながら、心的エネルギーの本質を性的欲動に求めている点である。この本能的エネルギーを「リビド(Libido)」と呼んでいる。対して、死への欲動を「タナトス(Thanatos)」と呼ぶらしい。生への活力は性欲より発するというわけか。暗示にかかりやすい酔っ払いは、さっそく夜の社交場へ繰り出すのであった...

さて、自我は意識されたものであろうか?いくら自由意志があると信じても、人体活動のほとんどは無意識の領域にある。呼吸を意識的に止めることはできても、心臓は止められない。精神活動では、気分をある程度誘導することはできても、決定的な集中力や思考力は気まぐれに委ねられる。突然アイデアが浮かぶかと思えば、突然ヤル気が失せたりと、思い通りにならない自我にうんざり。夢の中まで攻め倒さないと、思考ってやつはなかなか言うことをきいてくれない。自由意志の本性は、意識の側よりも無意識の側に比重が大きいような気がする。
「自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない。」
普段、間違えようのない作業でも、しくじることがある。冷静に振り返ると、魔が差したり、平常心でなかったり。そんな時、ちょいと言葉に耳を傾け、相槌をするだけでも、心を落ち着かせることができる。自由に言葉を発する機会を与えれば、治療の糸口が見えることもあろう。夢には潜在意識が詰まっている。犯罪科学には、催眠術を利用して記憶を蘇らせる方法もある。自由連想によって精神を解放すれば、潜在意識を顕在化することもできるかもしれない。
しかしながら、無意識な領域を意識するとは、既に自己矛盾を孕んでおり、かなり危険を伴うであろう。自己の防衛本能が、苦い体験を心の奥底に押し込めることもある。あまりにも衝撃的な事故を体験すれば、その前後の記憶が失われるとも聞く。無意識が防衛本能の領域にあれば、それを意識した途端に無防備を覚悟せねばなるまい。精神の内に健全な悟性が最後の判決を下す法廷として認められるならば、大した問題にはならないのかも。
しかし、ノイローゼ患者となると、どうであろうか?知らない方が幸せってこともある。正しい判断が下されない状態では、人は皆ノイローゼということになろうか。とはいえ、どんなに優れた知識を身につけても、やはり判断を誤るではないか。せめてノイローゼ状態を自覚できる者の方が、自我を知る機会が得られ、救われるのではないか。精神の限界に挑む芸術家は、常に精神病の境界をさまよっていることになる。人間には、プライドという奇妙な意識がある。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、愚かな自分をけして認めようとはしない。知らない方が幸せだと潜在的に知っているのかもしれん。これは俺の真の姿じゃねぇ!と。プライドに縋って生きれば、プライドが崩れた途端にズタズタになる。人を気にし、世間を気にするようなプライドは、見栄っ張りから意地っ張りへと変貌させる。所詮人間ってやつは、何を拠り所に生きるか?どこに居場所を求めるか?それを探しながら生きているだけの存在。それがはっきりと見えなければ、自らどこかの神経系を遮断せずにはいられない。これがノイローゼの正体だとすれば、ノイローゼを患っていない人間などどこにいるというのか...

1. 夢学
夢占いの類いは古代から伝えられる。英雄誕生伝説で予知夢が伝えられたり、一富士二鷹三茄子が縁起の良い夢とされたり。人間は夢現象を、何かの象徴や予兆にしたがる。それは、未来への不安から生じるのだろう。予知夢が未来願望から生じるとすれば、デジャブのような心理現象は過去への回帰願望であろうか?望郷の念は、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるのかもしれん。
フロイトは、夢そのものがノイローゼ的な症状だという。
「抑圧された無意識が自我からある程度の独立を獲得した結果として、たとえ自我に依存する対象配備が睡眠に都合のよいようにすべて停止されたとしても、無意識が、睡眠願望には服さずその配置をつづけるものと仮定しなければ、夢の成立を説明することができません。」
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは、なんらかの心的現象をともなう。眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りの妨げか?はたまた、熟睡を求めるのは、死への憧れか?
いずれにせよ、夢という現象には何らかの意味が隠されているのだろうが、理解不能なほど多義的だ。夢ってやつは見ている間は妙にリアリティがあって、絶対にありえないシチュエーションなのに、意図も簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになっていたり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場させたり、まったく支離滅裂!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。矛盾だらけのシチュエーションに何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別物ということにしないと説明がつかない。となると、今見ている現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか?まぁ、夢だと信じたところで、同じくらい現実である可能性もあるわけだ。精神そのものが不確実性に満ちているのだから、夢も、現実も、そうなる運命なのかもしれん。もはや、夢の内容を解釈しようなんて絶望的に思える。フロイトも、夢の内容を解釈しようとするのではなく、夢を見る心理状態に着目すべきだと語っている。
「ある心的過程の意識性または無意識性とはその心的過程の一つの属性にすぎず、必ずしも一義的にとらえうる明確な属性ではないと断言することです。」
睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で第三者が嫌な事を囁けば、うなされかねない。夢現象を神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できそうか。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話だ。それどころか、誰もが洗脳状態にあり、人間社会そのものが洗脳しあわなければ成り立たない世界なのかもしれん...

2. ノイローゼ論
ノイローゼは、オーストリアの生理学者ヨーゼフ・ブロイアーが発見したものだそうな。ヒステリー患者をうまく治癒させたことが発見のきっかけになったとか。彼は、フロイトの共同研究者でもあったが、後に性愛の問題に絡んで決別したらしい。
尚、フランスの精神科医ピエール・ジャネも、同じようなことを証明し、文献ではジャネが先んじているという。偉業は、下地を固めてきた無名の研究者たちの努力の上に成り立ち、その過程で、たまたま名声を得る者がいる。どんな発見も一遍に成し遂げられるものはなく、必ずしも功績が元の発見者に帰するものではない。しかし、そういう研究事情を知りながら、現在でもなお経済的な成功者ばかりが脚光を浴びる。人間には、目の前の現象しか見ようとしない傾向がある。これも、ある種のノイローゼ状態であろうか...
さて、誰だって不安や恐怖を感じるだろうし、その感じ方にも個人差がある。不安や恐怖から逃れるために、妙に怒りっぽくなったり、攻撃的になったりする。強迫観念が神経症レベルにまで高められると、自分とはまったく関係のない考えに囚われ、なんの縁もない衝動に駆られ、しかも、そんな事を実行したところでなんの満足も得られないというのに、どうしてもやらずにはいられない。そこに、集団意識が加われば、社交恐怖、広場恐怖、SNS恐怖となって襲ってくる。そもそも社会や共同体には、個人の欲動を犠牲にする側面がある。だからといって、騒がしい世間に対抗して心を閉ざせば、自ら不決断や無気力を呼び込んでしまう。やがて重大犯罪を犯す誘惑に憑かれたり、神の言葉を実行するといった幻覚が見えたりする。ぞっとした衝動から身を守るためには、自由を放棄するしかない。ノイローゼとは、自由と束縛を極端に自己完結させようとする自我の魂胆であろうか?
強迫ノイローゼの患者は、もともとはエネルギッシュな性格の人で、異常に自我執着が強いことが多く、人並み外れて豊かな知的天分を持っているのが通例だという。たいていは高い道徳水準にまで達し、良心的過ぎて几帳面であると。ノイローゼが性格の特質との矛盾から生じるとすれば、下手に自覚できる能力があるが故に患うということであろうか。ならば、自己矛盾を素直に受け入れ、自己が狂人であることを受け入れるしかないではないか。世間が狂っているならば、馬鹿にされるぐらいでちょうどいい...

3. リビド論
フロイトが人間の最も原始的な動機に、性的欲動を位置づけたのは、第一次大戦という時代背景があるように思える。つまり、大量の死骸を目の当たりにすることによって、遺伝子保存の危機を本能的に感じるということである。... と解するのは行き過ぎであろうか?
人の本性は、極限状態に露わになる。性愛には奇妙な現象があり、自己愛を強調しすぎるために自虐的になることすらある。好きな人にわざと意地悪をしたり、自ら悲劇のヒーローを演じたり。愛欲には、拒否される願望もある。おまけに、障害が大きいほど燃え上がり、成就した途端に冷める。健康的で陽気な人物像はドラマの主人公になりにくい。どこか陰りのある過去を持ち、何かに必死に耐えて生きているような人物に惹かれるもの。健康で完璧な人間を眺めても退屈するだけだ。そこで、自我ってやつがシナリオをでっち上げ、ナルシストを演じさせるという寸法よ。
人間は、快楽動物であろうとすることを蔑み、知的動物であろうとする。だが実際には、快楽を締め出すことはできず、建て前と本音を巧みに使い分ける。羞恥を軽蔑すれば、自我を攻撃し、自我を攻撃できなければ、他人を攻撃する。結局、羞恥のはけ口を求めているだけなのかもしれん。自我が空想を膨らませていくのは、リビドの責任転嫁の結果であろうか?
尚、リビドが空想に逆戻りする症状を、ユングは「内向」と名付けたそうな。内向者は、まだノイローゼではないが、極めて不安定な状態にあるという。リビドが常に別のはけ口を求め、少しでも心の均衡が破れると、すぐに症状に現れるような。だが、一旦ノイローゼに陥ると、心の均衡どころか、現実と空想すら区別できない。リビドが現実で満足が得られないと知るや、内向と結びついて地獄へまっしぐら。これがノイローゼというものであろうか...
ところで、よく少子化問題の議論で、人間は生殖機能が基本であるから、子供を作るのは当然だといったことを言う人がいる。生物学的には、生物には遺伝子を残すという役割もあろうが、地球の表面積に対して保存本能が数の調整を試みるかもしれない。無知性で無理性なアル中ハイマーの遺伝子を残すことは世のためにならんだろうし。
では、心理学的にはどうであろうか?生殖機能だけではキスや自慰行為は説明がつかないし、もはや愛撫も前戯もピロートークも無用となろう。チラリズムなんて嗜好はどこからくるのだろうか?エロティズムは性欲から生じるだけでなく、芸術の領域にも官能性はある。性の世界においては、生殖目的よりも愛欲や快楽の方が優勢なようである。性欲に任せて繁殖を続ける方が社会を崩壊させるだろうし、性欲、食欲、金銭欲、権力欲、名声欲... といったものが自制できるから、人間社会は成り立つのであろう。
一方で、性欲が仕事の活力となっているところがある。「英雄色を好む」説は本当かもしれない。出世とホルモンが関連するという研究報告もあるし、職場での情事は燃えると聞く。だが、仕事ができるから収入も増えるのであって、「金の切れ目が縁の切れ目」説の方を支持したい。性欲の解放は、理性と反するように言われるだけにタブー化されやすく、多くの場合、猥褻や破廉恥で片付けられる。
しかし、これ以上、人間本性的なものがあろうか。性的な話題で照れるのも、本性を隠したいだけかもしれない。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族は純粋な平等主義者となろう。おっと、性欲論を語り始めると、独り善がり論へ吸い込まれる。これもノイローゼというものであろうか...

4. 感情転移
医師への信頼が、異性への愛に変化するなどは普通に生じるという。どんなに年老いても。若い女性患者と年配の医師の間で、娘として可愛がられたいといったこともあるそうな。医師は複数の患者を抱えているので、嫉妬が生じる。そりゃ!男性諸君は美しい女医に憧れるだろう。
さて、感情転移が、治療の大きな原動力になりうるという。感情転移には、陽性と陰性があるらしい。医師との間で共同に営まれれば、陽性となって信頼という権威を持つことに。だが、陰性となれば、抵抗して言葉に耳をかすこともないという。愛情が、敵対心に変貌するのも紙一重ってか。愛が深いほど憎しみもひとしお、決着をつけるものもは患者の知的な洞察ではないようだ。知的な洞察は、むしろ邪魔になるという。信頼とは愛から生じるもので、論証といった知的な部分ではないということか。信頼を無条件の愛に転嫁するということか。既に、論理的に思考できるような精神状態ではないのだろう。そうなると、医学よりも宗教の方が救えるかもしれん。
しかしながら、こうした心理的療法はナルシシズム的ノイローゼには通用しないという。ナルシシズム的ノイローゼは、感情転移の能力がないか、あっても不十分だとか。彼らが医師を拒むのは、敵意からではなく無関心のためで、しかも、感化も受けないという。プライドが高く、常に自力で立ち直ろうとするだけにタチが悪い。自我を増幅させた頑固さには、精神分析療法も無力だとか...

"ヒトはなぜ戦争をするのか?" Albert Einstein, Sigmund Freud 共著

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この組み合わせに目を疑った... アインシュタインとフロイト???
1932年、国際連盟はアインシュタインに、ある依頼をしたという。
「人間にとって最も大事な問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください!」
そして、とりあげた問題は戦争、相手はフロイトだったとか。ナチズムに握り潰され、長らく忘れ去られてきた二人の往復書簡が甦る。それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡っての対話であった。アインシュタインは、権利と権力の関係から議論を求める。フロイトは、これに賛同するものの、権力より暴力という、もっと剥き出しにした言葉を用いたいと提案する...

翌1933年、アインシュタインはナチズムに追われアメリカに亡命。彼が有識者こそ暗示にかかりやすいと主張したのは、まさにヒトラーの演説に狂気した群衆心理を物語っている。真理を探求するには、科学だけでは不十分だということを痛感したのであろう。ここに、科学者と心理学者を結びつけることに。
1938年、フロイトもまたロンドンに亡命。第一次大戦の教訓から発足した国際連盟は、人類史上初の試みであり、世界から戦争をなくすための唯一の希望であった。しかし、独立機関として機能せず、第二次大戦の勃発で失敗に終わり、20世紀は大量殺戮の世紀と化す。その思想は国際連合に受け継がれるものの、各国の思惑が絡むことに変わりはない。
司法機関を権力と分離させることは極めて難しく、国際機関でさえ正義の下で機能させることは不可能なほど難しい。それは、正義という言葉があまりにも美しい印象を与えるわりに、普遍性や客観性からは程遠いことにある。歴史を振り返れば、脂ぎった権力ほど正義を巧妙に利用してきた。しかも、彼ら自身が正義者だと信じ込んでいる。人間ってやつは、自分の道徳観に自信を持つと、ろくなことにならないようだ。そこで、現実的な対策として実践されてきたのが、モンテスキュー式権力分立の原理である。人間社会ってやつは、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか?そいつは、真理の探求という普遍原理よりも優るとでも... そうかもしれん。

1. アインシュタインからフロイトへ
「ナショナリズムに縁がない私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思えてしまいます。すべての国家が一致協力して、一つの機関を創りあげればよいのです。この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。」
ところが、すぐに問題にぶつかる。司法は人間が創り出したもので、周囲の様々な圧力を受け、正義はすぐさま宣伝やパフォーマンスに置き換えられる。自由や平等、あるいは友愛や博愛といった響きの良い言葉ほどタチの悪いものはない。
アインシュタインは、国際平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を放棄しなければならないと主張する。そして、人間の心に問題があるとし、第一に権力欲を放棄することができない特質を挙げる。教養のない者を導けばいいというものではなく、むしろ知識人の方が暗示にかかりやすいと。机上の言葉を頼りに、複雑な現実を安直に捉えようとするからだと。教育者、報道屋、宗教屋たちが、政治的に扇動される当時の様子は... 今もあまり変わらんようだ...

2. フロイトからアインシュタインへ
「むき出しの現実の力を理念の力に置き換えるなど、今でも無理なのです。失敗するのは必至です。法といっても、つきつめればむき出しの暴力にほかならず、法による支配を支えていこうとすれば、今日でも暴力が不可欠なのです。このことを考慮しなければ、大きな過ちを犯すことになります。... 人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにない!」
今日、世界中の民族を支配しているのは、ナショナリズムという理念であろうか。フロイトは、ナショナリズムこそがすべての国々を敵対させる原因だとしている。そして、原始時代に遡って考察し、人間の本性を暴こうとする。
一般的には、権利と暴力は正反対のものと思いがち。だが、権利の行動は、暴力と深く結びついてきた。人と人の間には利害の衝突があり、ほとんど力関係で決着がつけられる。人間とて動物なのだ。文明の発達が、腕力競争を武器競争へ変化させ、やがて科学戦争、経済戦争、情報競争といった頭脳戦へと移行させてきた。唯一の救いは、人間の場合、暴力の前に意見や思想の対立があることだ。極めて抽象的なレベルで意見が衝突することもある。フロイトは、こうした特質のおかげで、暴力以外の解決策の可能性があるとしている。
実際、暴力による支配から法による支配へと変化してきた。法を編み出したのは、多くの弱い人々が結集し、権力者の強大な力に対抗して権利を認めさせた結果であろう。
しかし、今度は集団性が暴力を剥き出しにする。狡猾な政治屋どもは、腕力よりも集団性を利用する方が効果的だということを熟知している。君主制を打倒した共和制の下で恐怖政治が行われると、民衆は強烈なリーダーシップを持つ政治家の登場を願う。その結果、再び独裁者の台頭を許す。対立や衝突の生じない社会は存在しない。神の前で誓った二人ですら、利害関係から敵対心を剥き出しにするではないか。相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己存在を確認するには、その対象を必要とする。愛の情念は、憎の情念との相対的な関係から生じる。実は、正義と暴力は相性がいいものなのかもしれん...

3. 共同体を形成するものとは
共同体を支えているものは、感情の結びつき、あるいは一体化ないし帰属意識というやつであろうか。もっと言うならば、哲学的な共通意識とでもしておこうか。だが、手段に目を奪われれば、絆などという心地よい言葉だけがひとり歩きを始め、感情的な行為に及ぶ。
汎ギリシア理念では、バーバリアン(野蛮人)より優れているという自負があった。その意識はアンピクティオニア(隣保同盟)、信託、祝祭劇などにはっきりと現れ、ギリシア人同士の争いが熾烈をきわめずに済んだ。だが、争いを根絶することはできない。ライバルを蹴落とすために、一部のギリシア都市は、天敵ペルシアと手を組んだ。ルネサンスにおけるキリスト理念では、多くの人がキリスト者としての一体感を強く感じていた。にもかかわらず、大小のキリスト教国が互いに衝突すると、イスラム教のスルタン(君主)に助けを求めた。人間ってやつは、いとも簡単に戦争に駆り立てられるものである。
アインシュタインは、憎悪に駆られるのは人間の本能であり、相手を絶滅させようとする欲求が潜んでいるとしている。フロイトもこれに同意し、攻撃性を戦争に結び付けないために、他に捌け口を見つけることが重要だとしている。
そして、人間の衝動には二つあるとしている。一つは、保持し統一しようとする衝動で、エロスや性的本能である。権力者は性欲が強いとよく言われるが、英雄色を好むというやつか。二つは、破壊し殺害しようとする衝動で、攻撃や破壊の本能である。
両者とも愛と憎しみの対立から生じる。物理学的に言えば、引力と斥力の関係にある。だからこそ、これらが釣り合うように精神のバランスを求める。片方を悪として排除すれば、他方が暴走を始める。愛もまた独占欲から生じる。憎しみを悪として排除すれば、愛が暴走を始め憎しみ以上にタチが悪い。自己愛が自分を主役にしたいと欲すれば、そこにも攻撃性が生じる。愛を崇め過ぎれば、愛を安っぽくさせるだけよ。
しかしながら、衝動もまた人間には必要な情念である。芸術とは、まさに衝動の爆発した結果である。悪意や攻撃性こそが、革命や創造性を掻き立てる。そして、情念の行き過ぎを意識できるから、抑制しようとする意識も働く。これが中庸の原理というものであろうか。そもそも人間の本性を排除しようとすることが、宇宙法則に逆らっていると見るべきではあるまいか...
「共産主義者たちも、人間の様々な物質的な欲求を満足させて人間たちの間に平等を打ち立てれば、人間の攻撃的な性質など消えると予測していました。けれども、このようなことは幻想にすぎません。今、ボルシェヴィキの人たちはどのような有様を呈しているでしょうか。武装化に余念がなく、実に入念な武装化をはかっています。そのうえ、ボルシェヴィズムを信奉しない人間への激しい敵意と憎悪こそ、彼らを一つに結びつける大きなものとなっているのです。」

"モーツァルト = 二つの顔"礒山雅 著

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モーツァルト論には、小林秀雄の有名な「ト短調」をキーワードにしたものがあるそうな。対して本書は、「ト長調が綴る飛翔のイメージ」こそが、モーツァルトの真髄であると主張する。だからといって、ト短調論に対してト長調論をもって反駁しようなどという意図はないようである。モーツァルトの生きた時代は、音楽史上、最も長調が優勢であったという。その背景には、進歩を奉じて幸福を追求する啓蒙思想があり、積極的な社会風潮があるのも確か。だからこそ却ってシリアスな短調を洗練させるところがある。個人的には、ト短調の方に魅力を感じる。三代交響曲に魅せられたのは中学生の頃であろうか。仕事中のBGMで最も活用してきたのが、交響曲第40番ト短調である。交響曲第41番ハ長調「ジュピター」も最高だが、BGMには少々明るすぎる。チャイコフスキーの交響曲もそうだが、昔から短調系が肌に合うようである。どこかの音階が半音下がるだけで気分が変わる。このあたりに気まぐれの制御法があるのではないかとずーっと模索してきたが、アルコール濃度で半音分解する方が手っ取り早いようである。今度、バーテンダーに「短調カクテル」でもリクエストしてみるか...
それはさておき、おいらは、交響曲こそクラシック!というベートーヴェン的な考えに感化されてきた。ところが、ここではモーツァルトの本質を主にオペラへ向けられ、新鮮な感覚を与えてくれる。モーツァルト時代、シンフォニーはまだ主役ではなかったようである。これから始まる演奏は何々調です!と宣言されるぐらいの前座の役割でしかなかったとか。ファンファーレやフィナーレのような形式であろうか。本書は、悲劇物語を明るい調子で演出する洒落やユーモアを、オペラや歌曲の中に見出してくれる...

モーツァルトが類い稀な天才であったことは言うまでもない。しかし、それは彼一流の演技でもあったという。彼の才能振りでは、言語脳と音楽脳を使い分けたという話を聞く。妻と会話をしながら作曲をし、相互能力を触発させたという逸話もある。
一度書いた楽譜をまったく修正しないといった伝説は、どうやら誇張らしい。モーツァルトといえども、スケッチをやり、手直しをし、捨てるべきを捨て、時間をかけて作曲したようである。偉大な才能に一面的な讃美を与え、人物像を神話化してしまうことがある。鑑賞者は身勝手な理想像を描くものである。
一方で、才能をひけらかせば、敵意や嫉妬から根も葉もないことを言いふらす者がいる。オペラ作品には数々の女性が登場し、しかも特定の女性歌手のために書かれた曲も多いとくれば、女癖の噂は絶えない。大衆ってやつは、なにかとスキャンダラスな話題がお好き。天真爛漫かつ下品といった印象は、映画「アマデウス」の影響もあろうか。
借金まみれであったのも、個人的な問題もあろうが、社会的な問題も大きいようである。共同統治者女帝マリア・テレジアの崩御を受けて、その長男ヨーゼフ2世が単独統治を行い、啓蒙専制君主が改革をもたらす。民衆王と呼ばれながら対トルコ戦争が致命傷となり、ウィーンでは経済恐慌に陥る。貴族とて音楽どころではなく、モーツァルトの作品も激減したという。そんな時代であっても、登場率や演奏率の下降は見られないらしいけど。見栄っ張りで浪費癖であったのも確かなようで、気前よく、呑気で、無頓着で、ビリヤード好きだったとか。ギャンブラー説には、多くの学者が異論を唱えているけど。
杜撰で自己管理のできない人物と思われがちだが、正反対な性格も見せる。父レーオポルトが几帳面で管理主義の権化のような人物だったそうで、その血を受け継いでいるところがある。お馴染みのケッヒェル番号は、モーツァルト自身が目録を作成していたお陰で実現できたという。600曲を超える作品を第三者が整理するとなると至難の業。1862年、ルートヴィヒ・フォン・ケッヒェルは、成立年代順の番号を振った全作品の目録を出版。おかげで、その番号は作品の顔となり、マニアともなればケッヒェル番号で作品をそらんじる。それでも、目録に記載されない作品もあるそうな。大曲や知名度の高い曲でさえ。目録と自筆楽譜の食い違いもあるという。モーツァルトがフリーメイソンだったことは広く知られる。そのためかは知らんが、目録にも神秘が満ちているようである...

1. オペラに見るモーツァルト思想
「フィガロの結婚」(K.492)を人間愛の讃美としながら、「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)をモーツァルトの最も暗いオペラと評される。「フィガロの結婚」には、貴族の専横を打破しようとする平民の心意気が満ちている。そのことが、啓蒙的改革への情熱と呼応して皇帝の支持を受ける反面、オペラ受容層の貴族たちに不快を招くことに。ウィーン上演が早々に打ち切られ、しばらく日の目を見なかったという。
しかし、プラハで圧倒的な人気を博す。この作品に張り巡らせた反体制思想が、ハプスブルク家の支配にあえぐプラハ市民に熱烈に受け入れられたようである。その後、「ドン・ジョヴァンニ」が成立し、ここにもプラハへのメッセージが込められているという。それは、強烈な性的、実存的な訴えかけで、キェルケゴール的な直接的でエロス的な段階であると。覆面の主人公たちが農民たちとジョヴァンニ邸に集い、自由万歳!と叫べば、ドン・ジョヴァンニは死を選ぶ自由に酔いしれる。そして、啓蒙社会における抑制エネルギーの蓄積から下克上を予感させる。ウィーンで受け入れられなかったモーツァルト思想は、プラハで開花したというわけか。
ちなみに、交響曲第38番ニ長調「プラハ」(K.504)もいい...

2. モーツァルトの女性観
本書は、モーツァルトの人間好きを指摘している。幼児の頃から人なつこく、人見知りせず、どんな人ともすぐに友達になれる性格で、終生変わらなかったとか。その反面、人と距離を置くことが苦手で、貴族にことさら遜ったり、聖職者を敬ったりができなかったという。
人間好きなのか、女好きなのかは知らんが、オペラ作品の中に女性遍歴を垣間見ることができる。「コジ・ファン・トゥッテ」(K.588)に道徳者の伝統的な批判が付きまとうのも、女性の貞操観念を堕落させていく物語の宿命であろう。登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラは、本当の愛を味わっていると思い込んでいるものの、まだ幼い憧れの空想段階にある。だが、男たちの激しい求愛が混乱へ陥れる。しばしば、フィオルディリージの方は、ドラベッラと対照的に、最後まで貞操を貫こうとしたと解釈される。だが、それは間違っていると指摘している。それもそのはず、結局「女はみなこうしたもの!」と歌われるのだから。やはり女性はロマンスに弱い。ましてや、戦地に赴く男どもに、どこまで義理立てする必要があろうか。モーツァルトは、女性ばかりに押し付けられる貞操観念の重さに、不自然さを感じていたようである。
一方で、「コンサート・マリア」という歌劇とは別の独立曲がある。モーツァルト研究では後回しにされがちな分野だそうな。9歳(1765年)から最期(1791年)にかけて書かれ、モーツァルトの成長を伺うのにかっこうなジャンルだという。それは、コンサート用に独立曲として書かれたものと、他の作曲家のオペラに挿入するための代替曲として書かれたもの、の二種類あり、いずれも特定の歌手が想定され、存分に個性が発揮できるように配慮されているという。マンハイムで知り合った初恋の人アロイージア・ヴェーバーは傑出したコロラトゥーラ歌手で、その妹で妻となるコンスタンツェもソプラノ歌手で、彼女らに捧げた曲もある。独自のマリア像を、世俗の女性関係に求めたのかは知らんが、コンサート・マリアには、生涯をかけてモーツァルトの女性関係が刻まれているのかもしれん...

3. 歌曲に見る堕落論
歌曲は、ほとんど制約のないジャンルで、ひねりを利かせ、ユーモアを忍ばせ、時には正攻法で意表を突き... そんな多彩な仕掛けが張りめぐらされているという。あまりにも洒落ていて、意識されないほどに。ただ、そんな自由なジャンルなのに、30曲ほどしかない。
歌曲「すみれ」(K.476)の詩はゲーテが綴る。一般的には、すみれの花と羊飼いのイメージから可憐という印象を与え、民謡風の純真な可愛い曲と評される。しかし、その実態は、牧場で人知れず起こった惨劇だという。美しいすみれが無残に踏み潰される、あっという間の出来事を、ゲーテが何食わぬ顔で晴朗に歌い出しているとか。やってきた娘が、すみれに目もくれず、踏み潰して... それを見て喜んでいた自分が死ぬのも、彼女によって... といった具合に。本書は、挿入される物語と曲の調子が不均衡で、美化して歌われ過ぎだと指摘している。これも、芸術家の遊び心であろうか。ファウスト博士が、メフィストフェレスと戯れるかのような。ゲーテが大のモーツァルト愛好家だったのも、作風に通ずるものがある。
また、歌曲ならではの恋愛物語には、思いっきり男性諸君のエゴイズムを演出する。接吻やら、抱きしめるやらと、女体をむさぼる姿を、のどかな恋愛物語に変えてしまうほどの音調によって。幸福像に、さりげなく死霊を重ねると言えば大袈裟であろうか。いや、勝手に聴衆が幸福と思っているだけのことかもしれん。単純な長調が天真爛漫な気分を煽る。天真爛漫とは、自己主張の根源であり、エゴイズムの源泉と解することもできそうか。そして、これらを克服することこそ、すなわち、堕落の道にこそ、真理の道があるとでもいうのか...

4. 三大交響曲
交響曲第39番変ホ長調(K.543)、交響曲第40番ト短調(K.550)、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」(K.551)、これらは言うまでもなく、モーツァルトの交響曲においてピークの作品である。そういえば三曲を順番に聴いてしまうが、本書はそれもそのはずだと教えてくれる。変ホ長調のみが堂々たる序奏を持っていて最初に置かれることに意味があり、ハ長調の壮大なフーガがフィナーレとなって、これらにト短調がうまく対比されながら真ん中で座り心地が良い... といった構想になっている。
「終結フーガをもつ彼の偉大なハ長調シンフォニーは、すべてのシンフォニー中、第一のものである。この種のどんな作品にも、天才の神々しい火花が、これほど明るく、美しく輝くものはない。すべてが天上の妙音であり、その響きは、偉大な光栄ある行為のように心へと語りかけ、心を感激させる。すべてがこの上なく崇高な芸術であって、その威力の前に、精神は身を屈して驚嘆するのである。」
ジュピター神のごとく、天上の芸術というわけか。しかし、おいらには40番が一番思考のBGMに合う...

5. 聴衆を超えた幻想芸術
コンツェルトは、本書ではあまり触れられないが、モーツァルトの最高のジャンルの一つであろう。ピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)は、モーツァルトが一連の快活なコンツェルト人気の流れを突然断ち切った、最初の短調協奏曲だそうな。モーツァルト芸術が聴衆を超え、難解な世界へ踏み込む一歩となったということか。もっとも、その後の長い受容の歴史が、この作品を最高の人気曲の一つへ押し上げることになる。ピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」(K.537)よりも...
また、「フィガロの結婚」の創作の合間をぬって作曲されたピアノ四重奏曲ト短調(K.478)には... これは騒音だ!とても楽しめない!という感想さえ記録されているという。
「訓練を受けていない耳では作品の中の彼についていくのはむずかしい。かなり経験を積んだ耳でも、何度も聴かなくてはならない。」
こういう感想を意外に思うのは、現代ではモーツァルトの高級芸術が庶民化している証であろうか。確かに、複雑で疲れる。だが、おいらの大好きな曲の一つで、精神空間がぐちゃぐちゃにされるような幻想感がいい。
現代思想に飽きれば、逆に古典に新鮮さを感じる。ルネサンス期に古典回帰を懐かしんだのも、そこに新鮮な解放感があったからであろう。いつの時代でも、現在の自分を嘆けば昔を懐かしみ、単純さに退屈すれば複雑さに救いを求めるものである。

6. バッハとモーツァルト
バッハとモーツァルトは、通常バロック派と古典派で区別されるが、近年の研究では二人の連続性に注目されるという。18世紀を通じて、弦楽器や管楽器に大きな変化が見られないからだそうな。鍵盤楽器は別だけど。むしろ、モーツァルトとブラームスらのロマン派とを区別するのであろう。ブラームスやブルックナーで定着する豊かで長いレガートは、まだモーツァルト時代には存在しないという。本書は、モーツァルト時代を味わうには、古楽器演奏を勧めてくれる。古楽器が普及し認知されると、逆にモダン楽器による演奏の再評価という流れになるのだけど...
さて、19世紀的な「歌う原理」に対して、「語る原理」がまだ有効であったと捉えるそうな。だからといって、モーツァルトが18世紀の革新者であることを否定しているわけではない。素人感覚で眺めても、バッハとモーツァルトの間にはなんらかの境界がありそうだし、バッハから異質な変化を見せるのも明らかだ。おまけに、作風は正反対ときた。バッハのカンタータと言えば、神やら愛やら接吻やらを大袈裟に歌い、真面目臭く、説教じみて聞こえる。バッハを素直に聴けるようになったのは、30代半ば頃であろうか。対して、モーツァルトは照れくさそうに茶化すところが昔から肌に合う。
しかしながら、晩年の作品にはバッハの模倣に通ずるものがあるらしく、精神的な共通点が見出だせるという。皇帝ヨーゼフ2世から音譜が多すぎると批判されたのは、オペラ「後宮からの逃走」(K.384)に関するものだったと思う。だが晩年は、信じられないほど簡明な転換が著しいという。難解な作品を残してきた天才芸術家が、晩年になって自然へ回帰し、簡明な作風を露わにするのをよく見かける。これが人間の普遍性というものであろうか...

"バロック音楽名曲鑑賞事典"礒山雅 著

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二十年前はモーツァルト以降にしか興味がなかったが、ここ数年はバロック音楽ばかり。だが、バッハ以前となると、あまり知らない。そんな初心者のために、西洋音楽史の専門家が百曲を厳選してくれる。話題が豊富でまったりとしながら、それでいてしつこくない。BGMを聴きながら本を読むことはよくあるが、本の方がバックグランドを演じてくれるのも悪くない。BGMには微妙な存在感が要求される。インパクトがありすぎても、感動しすぎてもいけない。しかも、思考のリズムが合わなければ気分を害す。さりげなく肩の力を抜いてくれるような存在でなければ...
さっそく購入検討に入る。カッチーニ、モンテヴェルディ、ヘンデル、ラモー、コレッリ、ジェミニアーニ、タルティーニ... 書籍もそうだが、音楽のToDoリストが溢れてやがる。セネカよ、やはり凡庸には、いや凡庸未満には人生は短い!

音楽が精神において大きな役割を果たすとすれば、音楽の観点から歴史を眺めることにも意味があるはず。音楽は、戴冠式、軍事、斬首刑、葬儀、礼拝、祭典など、政治的にも社会的にも欠かせない道具とされてきた。好きな音楽を聴きながら死にたい、という人もいる。敬虔な人は違う。死が来世への旅立ちだとすれば、葬儀に音楽という祝福は欠かせないらしい。自分のための葬送曲を、当代一の音楽家に依頼するなど贅沢な話よ。
だが、自己存在を永遠に刻もうと目論んだところで、神から祝福されるのは偉大な芸術を残す作曲家の方である。西洋史におけるクラッシク音楽は、宗教音楽として発達してきた。政治が腐敗すれば、音楽に祈りを込める。それは現在とて同じ。音楽家の本質的な役割は、ここにあるのかもしれない。
しかしながら、バロックいう言葉には「いびつな真珠」という意味がある。カトリック教会の目には、宗教心から離れて世俗化していく音楽が、秩序を乱すものに映ったことだろう。対抗宗教改革のさなか、社会全体が極度に寛容性を失うと、古代ギリシア・ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じた。ルネサンスってやつだ。バロック音楽には、その精神を受け継ぎ、過剰な宗教心から脱皮を図ろうとする意志を感じる。モノローグな独り善がりにも映るが、むしろ聡明な対話と捉えるべきかもしれない。宗教的な説教は鬱陶しくてかなわないが、普遍的な音楽となると話は別だ。言葉の布教には頑なに耳を覆っても、自然な音楽には素直に耳を澄ますことができる。やはり、あのナザレの大工の倅は余計な事を言わなかったに違いない...

ここに選考されるCDやDVDは、ピリオド楽器(古楽器)によるものを優先したという。具体的な楽器を想定して作曲されるだけにオリジナル楽器に注目しないと、真の着想は見えてこないだろう。ただ、現代楽器によるアレンジも悪くない。古楽器が認知されると、逆にモダン楽器による演奏が再評価される。
おいらのバロック音楽観賞は、パッヘルベルの「カノン」に始まる。有名なだけに様々な形式で演奏される。弦合奏、オーケストラ、管楽合奏... はたまた、電子演奏から携帯の着信音まで。本書は、この曲は味付けすればするほどムード音楽になってしまうと指摘している。それが人気の源泉でもあろうけど。いま、50弁オルゴールで聴きながら記事を書いている。うん~、たまらん...
ところで、この手の書に触れると、いつも思うことがある。それは「アリア(Aria)」という用語について。英語で言えば、air... 空気のように奏でるといった意味であろうか。どうもマリア(Maria)と重ねてしまう。宗教音楽という印象が強いからであろうか?あるいは、単なる語呂であろうか?聖女の名とされるのも、空気のような自然回帰の意味が含まれるのではないか、などと考えるわけだ。そして、ガイア(Gaia)も同じ音律を奏でる。ヘシオドスが大地の母としたやつだ。なぁーに、駄洒落好きというだけのことよ...
さて、アリア曲といえば、三大アヴェ・マリアであろう。最初に知ったのは、バッハとグノーのアヴェ・マリア。シューベルトのアヴェ・マリアも悪くないが、やはりカッチーニのアヴェ・マリアは絶品!その日の気分で変わるのだけど...
尚、「G線上のアリア」がなぜアリアなのかは、バッハのオリジナルに由来する。タイムスリップしてバッハに直接「G線上のアリア」は素晴らしいと感想を述べたところで、なんじゃそりゃ?って答えられるのがオチだろう。アウグスト・ウィルヘルミが、管弦楽組曲第3番(BWV1068)の第二楽章をヴァイオリンの独奏曲に編曲したのは19世紀後半。ニ長調をハ長調に変え、第一ヴァイオリンの主旋律をオクターブ下げて、一番低い弦のG線のみで演奏するようにした。よって、チェロのような太く朗々とした曲想となる。しかし、原曲は弦合奏と通奏低音のために書かれたという。しかも、原曲の素晴らしさは格段上にあるとか。四声の弦の精妙で陰翳に富んだ絡み合いがこの曲の生命線で、その肝心な絡みがヴァイオリンとピアノの編曲では読み取りにくいという。空間の深みが違うらしい。そういえば、頻繁に聴くわりには、原曲の方は聴かない。
ちなみに、演奏中に、確実にG線を切断するには300万ドルが相場だと聞く。演奏者にもヴァイオリンにも傷ひとつ付けずに。ゴルゴ13「Target.7 G線上の狙撃」より...

1. バロック史
17世紀初めから18世紀前半にかける音楽史はルネサンスの流れを汲む。やはり中心はイタリアであろうか。それは、ブルボン家の初代王アンリ4世とフィレンツェのマリア・デ・メディチの婚礼を記念して、ヤーコポ・ペーリのオペラ「エウリディーチェ」が上演されたあたりから始まる。実際、バロック時代の幕開けの象徴的作品で一般的に挙げられるのが、このオペラだそうな。1600年というキリのいい年に、フィレンツェのピッティ宮殿で初演されたという。しかし、まだ実験的な色彩が強く、本格的な幕開けにはジューリオ・カッチーニを推し、その歌曲「アマリリ麗し」を薦めてくれる。
また、初期バロック音楽の流れでは、声楽曲がクラウディオ・モンテヴェルディに代表されるならば、器楽曲、特に鍵盤楽曲はジローラモ・フレスコバルディを頂点にするという。そのライバルに、北方オルガン音楽の源流ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクを位置づけ、対して、フレスコバルディから南方のオルガン/チェンバロ音楽の流れが発したという。この二つの流れは、後にバッハによって総合されることになる。
個人的には、イタリアの情熱をヴァイオリン曲に感じる。コレッリの「クリスマス協奏曲」や「ソナタ集作品5」などに。おまけに、イタリア風のソネットが付せられると文学的に演出される。ヴィヴァルディの「四季」のように。この曲は、四季おりおりの風物を嗜む日本文化とよく適合する。
一方で、ドイツが中心という印象は、日本の義務教育の影響であろうか。音楽史におけるアルプスという境界は、なんらかの関係があるのかもしれない。ドイツにしても、フランスにしても。ドイツ音楽の父と呼ばれるハインリヒ・シュッツは、意外にもコラールを民衆的な形で使った作品がないという。対して、ミヒャエル・プレトーリウスにはコラールの素朴な編曲がたくさんあるらしく、舞曲集「テルプシコーレ」を紹介してくれる。
ところで、ヨハン・ヨーゼフ・フックスという名を聞かないが、音楽文献では重要な人物らしい。ハプスブルク家の宮廷楽長を務め、代々の皇帝の信望も厚く、大看板という言うべき音楽家だそうな。「グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッソス山への階梯)」と題する対位法の理論書を書いた権威者だとか。モーツァルトも、作曲のレッスンにフックスの課題を用いているという。

2. フランス音楽史
時代背景には、アンリ4世がナントの勅令によって宗教融和を図り、続くルイ13世が国力を蓄えながら芸術の発展にも乗り出し、ついに太陽王ルイ14世の下で最盛期を迎え、その後の衰退...という流れがある。宗教的なコラールが組織される時代でもあり、ヨーロッパの王侯たちがフランスかぶれとなった時期と重なる。
フランス音楽史を紐解くと、至るところでフランス派とイタリア派の対立をめぐる記述に出会うという。フランス派の筆頭はルイ14世時代の宮廷音楽家ジャン = バティスト・リュリで、イタリア派の筆頭はマルカントワーヌ・シャルパンティエ。シャルパンティエはヴェルサイユの要職に就くこともなかったという。国家の威信を背景にする批判があり、イタリアで純粋に学びたい音楽家たちは圧力をかいくぐって活動していたとか。
また、フランスにおけるクラヴサン音楽(チェンバロ音楽)の発展の前提に、リュート音楽の流行があるという。17世紀前半、フランスでは貴婦人のサロンが発展し、その花形楽器がリュートだったそうな。ロマンスには、ギター風の伴奏で歌うエール・ド・クール(歌曲)が欠かせない。クラヴサンに取って代わったのは、11本から20本以上の調弦を絶えずやらなければならないリュートの煩わしさにあるという。だが、手間をかけて雅を育むことで、高級芸術の雰囲気を醸し出すということはあるだろう。興隆時代のリュート音楽を代表するのはドニ・ゴーティエだそうだが、作曲家ではロベール・ド・ヴィゼを紹介してくれる。社交や舞踏の場にもギターが進出しつつあった時期に出現し、国王のギター教師でもあったという。

3. バッハの幾何学的構想
バッハの楽譜が図形的な美しさを持つことは、広く知られる。クロスしながら戯れる線の軌跡には、相似形、回転形、拡大縮小形といったユークリッド幾何学が現れる。いったい幾何学が、音楽とどう結びつくというのか?本書は、その様子を「ゴルトベルク変奏曲」で紹介してくれる。バッハの鍵盤作品中で際立って華麗な技法を連ねているのが、この曲だそうな。両手はしばしば交差され、名技性を高める。カノンのような厳格な対位法が随所に用いられ、それを3の倍数の変奏に割り振ったりと、数学的な構成が歴然であるという。目で見て秩序あるものが、耳に自然な自由を与えてくれるとは...
バッハは音楽を耳のためだけに書いたのではないようだ。知覚能力において、目と耳には何かつながりがあるのだろうか?感動する音楽や絵画に出会うだけで鳥肌が立つのも、なんらかの周波数を感じ取っているのだろう。人は芸術を味わうために五感を総動員する。幾何学や数学に美を感じるのも、そうした類いであろう。バッハは、人間のために音楽を捧げたのではなく、心の中に描いた彼自身の神に捧げたとでもいうのか。バッハが思考のBGMに合うのは、そのあたりにあるのかもしれん...

4. バッハの無伴奏チェロ組曲
チェロの独奏曲さえ稀であった時代、バッハは無伴奏による大曲を六曲セットで書いた。チェロはバイオリンほど小回りがきかないから、重音の乱舞するフーガだの、大きく積み重なるシャコンヌだのが登場しないという。サラバンド楽章ほどの重音で落ち着いた場面においても、たっぶりと多声的であるという。単音をかけめぐらせるだけのように見えるジグにおいても、複数の旋律を隠すような形で対位法的な仕掛けが施されているとか。
尚、ちと補足すると、無伴奏チェロ組曲は、プレリュード(前奏曲), アルマンド, クーラント, サラバンド, メヌエット, ジグ(終曲)という形式をとる。
バッハは、チェロという楽器そのものが和声的な効果を内包していることをしっかりと洞察していたという。低音域に発する豊富な低音が響きを融合させるのは、女性合唱よりも男性合唱の方がよくハモるのと原理は同じであると。無伴奏チェロ組曲第1番ト長調(BWV1007)は知名度が高い。だが、本書は第3番ハ長調(BWV1009)を薦めてくれる。フラウンス風の壮麗さとは、こういうものをいうのであろうか...

5. ヘンデルの開放感
ヘンデルの特徴は、なんといっても野外的な大らかさと開放感。その有名な逸話がある。イタリア留学を終えてハノーファー宮廷に招かれ楽長となり、その一年後、楽長在任のままイギリスに渡ってロンドンに定住。ところが、イギリス国王が交代し、ハノーファー選帝侯がドイツからジョージ1世を称して乗り込んできた。慌てたヘンデルは一計を案じ、舟遊びの際、美しい音楽を提供して、主君との仲直りに成功したとさ...
近年の研究では、この逸話が成立しないことが定説になっているそうな。それでも、水上の音楽が国王の舟遊びのために作曲され、テムズ河で演奏されたのは確からしい。高原風でもあるが、あくまでも水上の音楽とういわけか。
また、ヘンデルのオペラには難しい問題があるという。その理由の一つは、ナポリ派の流れを汲み、レチタティーヴォを挟むアリアの連続として書かれていることに起因するという。重唱は稀で、合唱もほとんど現れないため、短調な印象を与えかねない。個々のアリアは美しい旋律で綴られ、演奏効果も申し分ないが、完成度が高い分、羅列という印象も生まれやすいという。
さらに、ほとんどアリアが高音部譜表で、高声用に書かれているとか。それは、主役にカストラート歌手を使うため、どこまでもソプラノやメゾソプラノのアリアが続くということらしい。だからといって、男性役にテノールやバリトンを当てては、華やかさが失われる。したがって、ヘンデルのオペラ上演には、優れたカウンターテナー歌手が欠かせないという。そして、演出家が、それを強調してセックスアピールのある舞台を作り出す傾向があり、そのことがヘンデル人気を後押ししているという。
本書は、英雄オペラから「ジュリアス・シーザー」、魔法オペラから「アルチーナ」を紹介してくれる。ちなみに、ヘンデルは同じ歳のアレッサンドロ・スカルラッティと、ローマで鍵盤の腕比べをしたという逸話もある。

6. タルティーニの逸話「悪魔のトリル」
ジョゼッペ・タルティーニのヴァイオリン・ソナタト短調「悪魔のトリル」をめぐる逸話を紹介してくれる。夢の中で悪魔と契約したタルティーニは、悪魔がヴァイオリンを熟練と知性とをもって演奏しているのを聴いたという。だが、目を覚ますと、その曲を思い出そうにも思い出せない。彼は、自分の最上の作品を作曲し、それを「悪魔のソナタ」と呼んだという。そして、悪魔の演奏に遥かに及ばなかった、とつぶやいたとか、つぶやかなかったとか...
この逸話は、フランスの修道士の回想録に基づくもので、事実の裏付けはないそうな。

大きな愛... 小さな気持ち...

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1オクターブ低い声で... 君に酔ってんだよ!(小さな気持ち = 手抜き記事)
Copyright(C) 2014年4月1日限定 "ピロートークに翻弄される男" All Rights Reserved.

本日四月一日、某出版社から地域限定で「大きな愛の指南書」が発行されると聞いた。さっそく書店に行くも、既に売り切れ!この幻の指南書は永遠に手に入るまい...


男運のない女のことをカンガルーが笑う!って言うんですって。
「警部補・古畑任三郎スペシャル 笑うカンガルー」より...

"訣別 ゴールドマン・サックス" Greg Smith 著

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... 麻雀教室をやるんだ。そこらの闇市のおっさんたちに麻雀の面白さを教える。カモ教育だ。今までの博奕打ちは、猟師が海で魚捕るみてぇにボッタクるばかりで、客の養成をしなかった。だからカモがどんどんいなくなる。百姓みてぇに、種を蒔いて、育てて、それを戴くようにするんだ。
... 映画「麻雀放浪記」より

信用という言葉の意味を解する時、経済学におけるものほど違和感を持つことはない。信用取引は、けしてデリバティブと切り離せない。デリバティブってやつは、債権、株式、為替、コモディティなど市場で取引される資産から価値を派生させたもので、巨額な担保、すなわち借金の上に成り立っている。中には評価不能なほど複雑なものまである。例えば、ある債権からリスク部分を切り離して証券化すれば、債権の委譲なしに信用リスクのみを委譲することができる。こんな証券を結合したり、スワップしたりなどで金融テクニックを駆使すれば、現物そっちのけで信用だけが独り歩きを始める。まさに、価値の幽体離脱!
2008年に勃発したリーマンショックでは、投資銀行の無謀なデリバティブ商品に、保険業界のスワップ商法が安全性を装い、おまけに、格付業界の保証つきときた。どんな業界であれ、調査や格付といった統計情報は、業界や大企業が裏から手を回すだけでいくらでも装える。そして、金融のプロですら価値評価のできない水準に膨らませてしまう。金融屋の言い分は、いつもこうだ。
「みんな大人でしょう。私どもは洗練をきわめた機関投資家です。自分たちが何をやっているか、きちんとわかっています。」
アンドリュー・ロス・ソーキンは著書「リーマン・ショック・コンフィデンシャル(TOO BIG TO FAIL)」で、金融界に欠けているものはただ一つ、純粋な人間性だと語った。ここでは、倫理性の欠如が指摘される。こうした苦言を呈する人たちの存在が復元作用をもたらすというのも、アメリカ経済の強みではあろうけど...

著者グレッグ・スミスは、2000年ゴールドマン・サックスに入社し、わずか3年目で20億ドルもの先物取引をこなす。20代後半にはヴァイス・プレジデントとなってデリバティブ・デスクで活躍するものの、やがて社風の変化に疑問を持つようになり、12年後に退職。著者が嘆く社風の変化とは、長期戦略から短期戦略へ、投資から投機へ、そして、目先の収益を上げる者が出世する体質へと変貌する様である。
そもそも、投資銀行とヘッジファンドが共存できるのか?という疑問がある。投資と投機は似て非なるもの。投資戦略とは、投資先の企業価値を高めることであり、そのために長期的な視野が求められるのであって、瞬間的なサヤ取りゲームとは相容れない。もちろんリスクヘッジも必要だが、なぜこちら方が主業務になりえたのか?それは、部門間の縦割り構造にあるようだ。
本書は内部告発の類いとは、ちと違う。ウォール街の内側から業界体質を語った回想録である。今日の金融業界を手っ取り早く知りたければ、ゴールドマン・サックスを観察すればいいと聞くが、まさにその類い。ここには、企業組織が経営哲学を見失えば、短期的な収益主義に走るという典型的な事例がある。哲学を失った能力主義ほど危険なものはなく、エリートづらをしているだけにタチが悪い。
「長期志向のビジネス・モデルが主流の経済では、企業の収益はより安定的で、しかもどうやって収益が上げられているかには、透明性が生じる。これは株主にとっても、よりよい結果だ。株主は、仕事が安定的に入っていくる、収益の流れが予測可能な企業を好むものだからである。今日の"金を掴んで、走れ!"式のビジネスモデルは、無責任だし、持続可能でもない。」

さて、デリバティブの代表的なものに先物取引がある。大阪商人が始めた先物取引は、自然災害などで不安定になりがちな米価を安定させ、社会不安を抑制することが目的であった。農作物を生産すること自体が未来への賭けであり、将来価値を経済法則によって予め決定することができれば、保険として機能させることができる。現在でも、信用取引を理解し、うまく利用すれば、リスクヘッジとして機能する。派生的な存在というものは、脇役を演じてこそ輝く。
ところが、今日のデリバティブは、むしろ主役を演じながら信用不安を拡大している。オマハの賢人バフェットは、デリバティブを大量破壊兵器と呼んだ。銀行業務にしても、証券業務にしても、保険業務にしても、生産社会における補佐役であり、その主な役割は正当な価値評価にあるはず。しかし、自ら価値評価を複雑化し、サヤ取りに執着すれば、なーんの生産性もないことを目立たせるばかりか、破壊屋の本性までも曝け出す。それは、人間社会の補佐役である政治屋が目立ちたがるのと原理は同じだ。結局、市場に参加していない普通の人々の年金や資産が、市場のボラティリティとともにボラれるという寸法よ。
「金融界に関しては、実は大いなる誤解が存在する。ウォール街が扱うのはエリート層の金持ちばかりで、そういった連中は金を失っても当然だという見方だ。それは裏返せば、普通の人々は、金融界の問題だらけの仕事の進め方や奇妙な悪習からは、影響を受けないという見方でもある。だが、これほど誤った認識はない。」

1. 投資銀行からヘッジファンドへ
そもそもゴールドマン・サックスでは、自己資金を投じて投機的な取引を行うことは、規制上許されていないという。長期戦略のために取引先との信用を第一にし、けして目先の儲けに走るような社風ではないと。その理念を、9.11多発テロ事件直後の職場の空気で物語ってくれる。
「今こそ、他社とは違うということを見せつけなくては。ゴールドマン・サックスがゴールドマン・サックスであると、世間に知らせるのだ。顧客の無理な要求にも、できるだけ応えるようにしよう。すぐに利益がでなくてもかまわないから、みんなが立ち直るのを助けるのだ。今、そういう態度をとれば、必ず記憶しておいてもらえる。」
なのになぜ???
ゴールドマン・サックスの傘下に「グローバル・アルファ」という旗艦ヘッジファンドがある。いわゆる、クオンツ・ファンドの類い。その戦略は、高度な数学を用いて定量分析を行い、リスク管理のための金融モデルをつくったり、複雑怪奇なデリバティブの価格モデルを構築するなどして、バリュー投資とモメンタム投資を効果的に統合するというもの。
ちょうど2006年頃、市場は9.11から続いた長い不況から脱し、さらに住宅ローンの条件が緩和され、FRBが金融システムに低利資金をどんどん注入したおかげで、新たなバブルが到来していた。人々はサブプライム住宅ローンに群がる。このようなトレンドが楽観的な状態では、彼らの数学モデルは非常に機能する。
しかし、どんなに優れた公式を編み出したところで、サヤ取りがゼロサムゲームである以上、みんなが同じ数式に群がって、いずれ行き詰まる。数学モデルの弱点は、特異点に陥ると突然機能しなくなることだ。空間的に言えばブラックホール、力学的に言えばアトラクターのような状態だ。バブルの難点は、それが終わってみないとバブルだったことに気づかないこと。
また、企業組織というものは、稼ぎ頭となった部署の発言権が強まり、その部門の出身者が出世する傾向がある。全収益に占める比重が高くなれば、誰も口出しできなくなり、ますます縦割り構造を強める。ある種の官僚化だ。
ゴールドマン・サックスでは、百万ドルを超える収益をもたらす大型取引を「エレファント級売買」と呼ぶそうな。多くの社員がエレファント狩りに乗り出せば、ますます短期的な自己勘定取引にのめり込んでいく。金融機関にとって、デリバティブが一番儲かるのは市場が激変する時である。黙っていても手数料が入ってくるのだから。2008年から2009年初頭、ゴールドマン・サックスのいくつもあるデリバティブ・デスクは、どこもボロ儲け。その巨額の利益は、身を挺して顧客の投資を守ることで得たものではなく、顧客がパニックに陥ってデリバティブ商品を売る際に多額の手数料で儲けたものだという。
ちなみに、18世紀のイギリスの金融家ネイサン・ロスチャイルドの格言に、こんなものがあるそうな。
「路上に血が流れる時こそが、買い時なのだ。」
金融屋の報酬には驚くべきものがある。2006年、ゴールドマン・サックスの社長となっていたゲーリー・コーンの報酬は5000万ドルに達していたとか。天文学的な収入を得たことで、精神は摩訶不思議な次元へ突入したかに見える。近衛兵に囲まれ、VIP待遇漬けとなれば目も曇る。肥大する自意識の前では、人間の理性なんて簡単にぶっ飛ぶであろう。2009年の金融危機の年ですら、ゴールドマン・サックスの社員報酬総額は160億ドルであったという。それも前年実績の47%も上回るのだとか。尚、著者の報酬も50万ドルだったという。世間の資本市場の活力を維持することが主目的の仕事にしては、馬鹿馬鹿しいほど良い報酬だったと回想している。
報酬制度の悪習(悪臭)が指摘されて久しいが、いまだ健在のようだ。はたして今日の経済システムは、本来支払われるべき給料がその業界に支払われているだろうか?ある経済学者は語っていた。基礎物理学者はトレーダーなみに給料をもらうべきであると。もっとも、真理を探求しようという者が、あまり報酬にこだわることもないだろうけど...

2. ポールソンとブランクファイン
2006年、市場が沸き、顧客の誰もが自信満々で売買に参加し、デリバティブ営業は収益を上げ続ける。その頃、CEOヘンリー・ポールソンが財務長官に任命され、ロイド・ブランクファインが会長兼CEOになる。政府高官に就任する際、利益相反を回避するために所有していた株式を売却しなければならない。ポールソンは、ゴールドマン・サックスの株をすべて売却するが、景気がピークの時期で、売却額も5億ドルにのぼるとか。公職に就くための強制的な売却となれば、キャピタル・ゲイン課税もなされない決まり。
もっとも社内におけるポールソンの命運は尽きていたようで、引退の花道として財務長官への転出を選んだという冷笑的な見方もある。というのも、ポールソンは投資銀行畑の人間で、後任のブランクファインはトレーダーだそうな。ブランクファイン率いるFICC部門と株式部門は、ゴールドマン・サックスの収益の半分以上を稼ぎ出していたという。ちょうど社風の変化に則った人事というわけか。
1990年末から2000年初頭にかけて、企業合併買収や企業金融といった投資銀行業務が収益の原動力であったが、2006年頃には、自己資金で投機を行うことで儲ける自己勘定取引が原動力となる。この戦略転換で、ゴールドマン・サックスは、他の投資銀行の二倍、三倍という収益を上げた。市場の流動性を無理やり煽り、自ら価値の歪を生じさせて、その差額で儲ける。サヤ取り効果の最大化を目指す戦略だ。予知能力を備えた天才というのがブランクファインの社内評価、対してポールソンは率直で保守的で古風な投資銀行家と評される。
利益を一番上げている者のところに権力が移るのはウォール街の論理、というより企業の論理であろう。ポールソン時代の初期は、まだ企業理念がしっかりしていたという。とはいえ、財務長官という看板が、ゴールドマン・サックスの安全性を後押ししたことは否定できない。ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズが破綻し、信用崩壊が明るみになった時ですら、財務長官ポールソンも、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ガイドナーも、まるで先を心配していない態度で、営業戦略でも投資銀行の中で特別な存在であるかのように触れ回る。
「世界経済は崩壊寸前です。ご自分をお守りになって、競争相手に比べて一頭地を抜くには、奇跡の解決策が必要です。わが社が御社のために作成した特注の仕組み金融商品を売買なさるべきです。」
この特注の金融商品こそが、悪性デリバティブそのものだった。そして2008年、リーマン・ショック...
ポールソンは、ビッグ9のトップをワシントンに呼び出し、数千億ドル規模の資金提供を提示する。TARP(不良資産救済プログラム)が議会を通過。ある意味、投資銀行の内情を知るポールソンが財務長官だったのは、幸運だったのかもしれない。多大な犠牲を払ったとはいえ、日本に比べればはるかに事態の収拾が早かった。リーマン・ブラザーズは、魔女狩りの類いの犠牲者だったのかもしれん。
しかし、だ。救済とは誰のための救済なのか?401kがすっからかんになる人も大勢いるというのに、ここが救済されることはまずない。あの世で煮えくり返っている中小企業の社長さんも少なくあるまい。エリート連中は、多額の教育費を投じて、いったい何を勉強してきたというのか...

3. 資金調達トレード
投資銀行ってやつは、一般の銀行とは違い、預金者というものを持たない。また、一般の銀行が非常時に命綱として使える連邦準備制度からの低利融資も受けられない。そこで、貸し倒れ引当金を積み増して財務体質を強化したり、経営陣の念頭にある事業に投入したりするために、「資金調達トレード」という手法を編み出したという。
その仕掛けは...
まず、ドイツやオランダ、あるいはアメリカの資金運用管理会社や年金基金、アジアや中東の国富ファンドなどの顧客が、投資銀行にかなりの金額の現金を一年契約で投じる。この投じた資金に対して、投資銀行は顧客が選んだ運用成績の指標、例えば、S&P500指数やラッセル2000小型株指数に、極めて大きなクーポンを上乗せした利回りを保証する。顧客は、よそでは得られない好条件を与えられ、ゴールドマン・サックスもまた、低い利回りで多額の資金が調達できる。
しかし、顧客には大きな不利な点がある。それは取引相手リスクが生じるということ。すなわち、情報の非対称性の罠だ。投資銀行が経営破綻に陥れば、顧客が投じた資金は雲散霧消となる。ゴールドマン・サックスは、サブプライム住宅ローンの焦げ付きが明るみになってもなお、資金調達トレードを勧めていたという。

4. 四種類の顧客タイプ
顧客のタイプには、賢い顧客、邪な顧客、単純な顧客、そして、質問の仕方を知らない顧客の四種類があるという。
「賢い顧客」は、大手ヘッジファンドや機関投資家のうちで、銀行やトレーダーが手を尽くして助けてくれるところを指す。調査レポートやIPO(新規株式公開)や増資などの市場最新情報も、正直で偏向のないデリバティブ価格モデルも、入手できるような。だが、賢い顧客が入手できる最も重要な財産は人材だという。優秀な人々が、彼らのために働いてくれると。彼らに利幅の大きな金融商品を押し付けたりはしないという。押し付けても、撥ねつけられ、却って疑われることになろう。本当の意味で信用を理解している顧客というわけか。
「邪な顧客」は、限度ぎりぎりまで利益を増やそうとするため、極めて頭がいいという。インサイダー情報によって儲ける人もいれば、わざと悪評を流して、空売りを仕掛けることもある。実際、ネット社会には、この手の情報が氾濫している。
「単純な顧客」は、肉食系揃いのウォール街では、捕食される小動物以外の何ものでもないという。感情の起伏が激しく、奇矯な発言をしたり、激昂するような女王様タイプが多いとか。
しかしながら、最も気の毒な結果になるのは、「質問の仕方を知らない顧客」だという。単純な上に、お人好しとなれば、エレファント級売買を仕掛ける絶好の標的というわけだ。公務員の年金基金や、慈善団体、財団、信託基金の運用責任者に多いタイプだそうな。ヘタすると、国家の年金制度まで喰い物にされる。
賢い顧客が増えれば増えるほど、市場が安定し、長期的な利益が保証されるだろう。だが、短期的に出し抜こうとする者が必ずいるし、周期的に訪れる金融危機は人間社会の法則に映ってならない。それは、強欲と恐怖心は表裏一体という法則である。どっちが表かは知らんが。人間ってやつは、自我の中のエゴイズムを呼び覚ましながら、自ら精神崩壊へと導き、その中でしがみつく相手を欲している、ただそれだけの存在なのかもしれん...

"新賢明なる投資家(上/下)" Benjamin Graham, Jason Zweig 共著

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この書に出会ったのは十年ぐらい前になろうか。いま読み返すと、いっそう輝きを増してやがる。泥酔投資家にとっての自戒の書だ。
ベンジャミン・グレアムは、投資と投機の違いを明確にし、バリュー投資理論を確立した。「賢明なる投資家」の初版は1949年に遡るが、改版を重ね、今日もなお読み継がれている。市場理論は、あまり進化していないということか。進化したのは、価値を歪ませる技術と、その上に乗っかるサヤ取り技術の方であろうか...

十年前を振り返ると...
2002年頃から始まった景気拡大期間は、いざなぎ景気を超える勢いで、市場は楽観ムードに包まれていた。だいたい素人が参入しやすい時期というのは、市場が楽観的な時で、株で儲ける!といった類いの書が大量に出回る。取引手数料を欲する証券会社の後ろ盾で。グレアムに言わせれば、市場参入時期としては間違っていることになろうか。少々無謀な取引に手を出しても大した損をすることもなく、実験するには手頃な時期である。おかげで投機的な行動にのめり込む。デイトレードを一年ほど試して何度か大損すると、センスのなさを悟るものの、トータルではプラスだったので、楽観的であったことに変わりはない。
やがて、精神的な苦痛が襲ってくる。不安が不安を呼び、市場を常にモニタしていないと落ち着かず、取引せずにはいられない。まるで麻薬だ。本職の集中力までも緩慢とさせ、廃人になりそうな気がした。とっくに廃人なのかもしれんが...
人間ってやつは、皆が儲けていると、それに乗り遅れまいという意識が強烈に働く。おまけに、損失を抱えても皆で損をすれば、自分に言い訳ができるという特質を持っている。赤信号、みんなで渡れば怖くない!
「人間のあらゆる不幸の原因は、ただひとつ、部屋でじっとしているすべを知らないことである。」... ブレーズ・パスカル

そんな精神状態から救ってくれたのが本書である。そもそもの目的はなんだったのか?独立のために経済学を学ぶことと、ついでに将来の年金の足しにすることであって、けして大儲けを目論むことではなかったはず。そして、何よりも大切にしたい意志は、社会を生きているのか?それとも、社会に生かされているのか?これを問い続けることだったはず。群衆心理や自己欲望に隷属するのでは話にならん。いくら足掻いたところで、酔いどれごときはアリストテレスの言う生まれつき奴隷よ...
「有名になりたがる者の幸福は他人次第である。快楽を追求する者の幸福は自分ではどうしようもないその場の雰囲気によって変わる。しかし、賢き者の幸福は自分の自由な行動によって大きくなる。」... マルクス・アウレリウス

この書は、グレアム自身が財産を失うという苦悩を体験し、長年に渡って市場心理を観察した反省から成立している。そして、投資戦略は投資家の性格で決まるとしている。投資スタイルは人の数だけあり、自分で見つけるしかないということだ。ポートフォリオの構築では、市場に合わせるのではなく、自分の性格に合わせる方が持続的で、精神的ストレスもなくなる。どうすれば儲かりますか?という質問自体がナンセンス!金融商品ほど他人の意見を当てにする世界は珍しいかもしれない。それだけ、透明性が低いということであろう。なによりも心強いのは、売買のタイミングは本質ではないと語ってくれることである。その根拠は、この言葉でほぼ言い尽くしている。
「賢明な投資家は、株安のときだけ株を保有し、高くなってきたら売却し、再び買える程度に株価が下がってくるまでは債権と現金で身を守る。」
今日では世界中の市場がリアルタイムでつながり、売買のタイミングをあまり気にしなくていいという助言は、時代遅れに映るかもしれない。いかんせん、巧妙なデリバティブ手法を高度な数学モデルで装いながら、バリュー投資とモメンタム投資を統合させようと躍起なのだ。
しかしながら、本来の市場の役割は、正当な価値評価を与えることにあるはず。投資は企業価値を高めることを目的とし、投資家はその配当金を受け取ることで経済循環を促すのが本筋であろう。だが、誰一人として正当な価値を知らないことが、群衆を暗示にかける。
市場が、金融屋の価値観に偏らず、多様な価値観の集合体となれば、人類の普遍性を発揮できるのかもしれない。だが、人間には、大金を前にすると盲目になるという性癖がある。好況であろうが、不況であろうが、その動向に応じて儲かりそうな方向に群がるか、安全そうな方向に群がるか、いずれにせよ資金は右往左往を続ける。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとってできることといえば、欲望と恐怖心の狭間を彷徨うことぐらいか。
「相場とは持続不可能な楽観主義と根拠のない悲観主義との間を永遠に行ったり来たりする振り子である。賢明な投資家とは、楽観主義者に売り、悲観主義者から買う現実主義者である。」

さて、基本的な投資戦略は、ポートフォリオにおける優良債権と優良株式の割合の検討から始まる。つまり、安全資産の比重をどうするかという防衛的戦略である。債権が本当に安全なのかは、時代感覚の違いもあろう。生命保険のように生涯付き合わされる金融商品ともなれば、保険会社の株式を生涯保有するに等しい。安心を買って、安心の奴隷になっては本末転倒だ!
グレアムは、投資家たる者、経営に参加するぐらいの気構えを要請する。判断材料の基本は、ファンダメンタルズ、すなわち国家や企業の財務状況の分析である。だが、人気が集中すれば、すぐに予測水準を上回り、たちまち危険域へ突入する。やはり、補助的にテクニカル分析を組み合わせる必要がある。
幸か不幸か?今のところ、金融危機は市場が楽観的な局面から生じてきた。不調な局面で生じれば、公的資金を投入する余裕もなく、それこそ人間社会の崩壊となるかもしれない。危険域のサインは報道屋が出してくれる。まさに市場の好調振りを報じている時が、それだ。証券アナリストが、買いを煽っている時ほど危険な状況はないだろう。投資家たちがパニックになった時期は、黙っていても売りが殺到し、自動的に手数料が入ってくるという寸法よ。
バリュー投資では、集団心理の洞察と、企業の財務状況の比較が鍵となり、世間の逆を行く忍耐力を養うことになる。プラトンは、統治したいと思わない者が理想的な支配者であるとした。グレアムは、資金を望まないかのように振る舞う者が最高の投資家であるとしている。

1. 防衛的戦略に輪をかけた保守的戦略
健全なポートフォリオをどのように構築するか?まずもって直面する課題がこれだ。本書は、優良債権と優良株式の保有割合を大雑把に提示してくれる。債権の比重を25%から75%にし、残りを株式にせよと。大きな幅を持たせているのは経済市況を睨んでのことで、市場が弱含みでそれを魅力だと判断すれば、最大75%まで増やし、市場が危機水準にあると判断すれば、株式の保有率を25%以下に減らす方針も検討すべきだとしている。だが、この方針は、債権が安全であるという時代認識からきている。
さて、グレアムに言わせると、おいらは思いっきり保守的な投資家ということになろう。本書に提示されるPER(株価収益率)やPBR(株価純資産倍率)の基準からすると、かなり安全な方向に行動しているからである。ただ、市場が好調な時には、どれも水準を越えており、買える銘柄が一つもない。したがって、株式を買い増すのは、ほとんど金融危機後ということになる。そして、普段から保有する銘柄は、配当金を主軸に置く。ヘッジのための信用取引も研究したが、リーマンショックを経験してもなお、その必要性を感じていない。
投資姿勢では、バランスシートの観察に10年ぐらい遡るのは必須で、ポートフォリオの見直しで月に1度、マイナー組み替えで年に1度ぐらいといったところか。落ち着くまで2, 3年ほど苦労したが、できれば生涯放ったらかしにしたい...
「保守的な見方からすれば、信用取引をする素人は、そのこと自体が投機であることを認識すべきであり、彼らにそのことを指摘するのは証券会社の義務である。」
ところで、債権は、古くから株式よりも安全とされるが、それは本当だろうか?近年、政府の社会制度におけるギャンブル性が顕著化してきた。国債や地方債には、本来、災害などの支援的な意味も含まれるはず。だが、巨大なグローバル企業が存在する今日では、国家の枠組みが曖昧になり、国家財政が先に破綻しても不思議はない。
では、不動産はどうだろうか?保険証券はどうだろうか?高度成長期のような右肩上がりの経済状況ならば、少々の浪費は相殺される。だが、年金や信託基金などの運用責任者たちが素直で人が良いだけに、デリバティブ勧誘の餌食にされる。国債や地方債を、年金資金運用機関や預金金融機関などが消化すれば、無意識のうちに間接的に保有させられ、自己のポートフォリオまでも曖昧となる。
では、現金はどうだろうか?為替の役割はますます複雑化する。ユーロのような共通貨幣が、一国の財政リスクによって共倒れしかねない。
... などと眺めていると、安全資産なんてものが存在するのか疑問だ。安全なんてものは相対的なものでしかない。企業倫理や経営哲学の見えやすい株式の方がマシかもしれない。証券取引所の上場基準も当てにはできないが...
いずれにせよ、一般投資家は情報の非対称性からは逃れらない。最初は分散投資のために、業界を満遍なく物色し、保険会社や銀行などの金融株を約20%保有していた。だが、財務報告がどうも肌に合わない。特に自己資本の考え方が嫌いで、株式融資を自己資本と呼ぶことに抵抗がある。返済義務がないと言えばそうなのだが。そこに目をつぶったとしても、自己資本比率では、BIS規定ですら8%程度。素人目で見ればレバレッジ率10倍以上ではないか。日本国債ですら対GDP比で2倍(200%)。尤も、LTCMの破綻やリーマンショックで演じたレバレッジ率は30倍にも膨れた。自己資本と主張するなら、自己責任において処理してもらいたいものだ。
ちなみに、おいらのポートフォリオは、普通株の保有率が90%で、残りはかんぽ保険や社債など。実は、普通株で100%にしたいと思っているぐらい。割合だけ見ればギャンブル性が強く映るかもしれないが、少し視点を変えて、株式の中で配当金用の銘柄と、短期取引用の銘柄で分け、配当金用を50%から90%で幅を持たせている。グレアム流に言えば、前者が優良債権で、後者が株式という位置づけだ。短期取引とは5年未満を想定しているが、実際にはそれを超える銘柄が半分以上あるので、長期と言った方がいいかもしれない。尚、本書は、長期の目安を、7年以上としている。
ちなみに、微妙なのが、今年(2014年)から始まったNISA(少額投資非課税制度)。投資金額は年間100万円ずつ上乗せして、期限5年で最大500万円の元手に対して非課税となる。さっそく戦略を練ってみたものの、長期戦略において、5年間というのが悩ましい。それだけでなく、売買を繰り返すと、すぐに非課税枠を消化してしまうため、よほどの計画性を感じる。まさか!売買を煽るための罠ではあるまいな...

2. 転換証券とワラント
信用状態が芳しくない企業は、市場で普通社債、すなわち、非転換社債を発行することがほぼ不可能であろう。ベンチャー企業と称したところで、その有望性を評価することは難しい。そこで、転換社債やワラント付社債を発行して資金調達をすることが考えられる。ストックオプションのワラントは、普通株を行使価格で購入する長期的な権利として、夢を買わせることができる。経営アドバイスで銀行屋が勧めるケースが往々にあり、新興(信仰)企業の経営者はワラント債を発行する誘惑に駆られ、上場前に経営幹部や従業員に夢を与えようとする。
しかし、グレアムは、当時発達してきたワラント債は大惨事の温床だとしてしている。ペーパーマネーという怪物を作り出し、投資を投機へ変貌させるというわけだ。バブル時代、ワラントを行使したら、すぐに売り逃げするような行為がよく見られた。上場した瞬間は株価が跳ね上がる傾向があり、IPOの噂を嗅ぎつけるだけで群がる。IT系を称せば尚更だ。
しかし、謎のベールに包まれた実質価値は、上場とともに紙くずとなる。ストック・オプションを公明正大に設定することができるのかは知らんが、一部の人間に特権を与えるということは、一般投資家を馬鹿にするようなものかもしれない。ちなみに、おいらもワラント債を持っていた時期があった...
一方、転換社債は、所定の期間内で普通株に交換することができる権利であり、これまた魅力がある。発行会社にとっては、普通社債より安く資金調達できる上に、株式に転換すれば自己資本となって財務状況を改善する。投資家にとっては、株価が上昇すれば株式に転換し、キャピタルゲインが期待できる。社債として保持しても、利子が確実に受け取れるので安全性が高い。転換債権は、企業側にとっても、投資家にとっても、ワラントより有利そうに見えるが、一概には言えないだろう。言うまでもないが、メリットとデメリットは会社の財務状況にもよる。転換証券が、合併や買収にともなって発行されるケースもある。それは、普通株の事実上の希薄化であり、物理的には1株当たりの企業価値を下げるかに見える。だが、株価は、収益による増加だけでなく、合併や買収で経営改善のアピールができるだけでも上がる場合がある。だからといって、そのタイミングで買うのがいいかどうかは、別の思慮が必要であろう...

3. 安全域の概念
投資には、「安全域」の概念が必要であると指摘している。だが、完全な安全域など存在しないだろう。人生そのものが安全域にはなく、災害や事故は確率論でしか語れない。だから保険というものが機能する。現在では、グレアム流の安全株を選ぼうにも、基準が厳しすぎて、そんなものは見当たらない。リスク分散にしても、昔ほどは機能しないだろう。世界中の市場がリアルタイムで結び付けられ、金融機関の間ではアルゴリズムを使った自動売買を行う高頻度取引(HFT)が盛んとなり、いまやコンマ何秒で差益を決する。複雑な投機行為が絡むと、瞬時に波動エネルギーが蓄積され、市場変動の振幅は拡大しつつある。知らず知らずにデリバティブで強烈に結び付けられ、投資と投機の境界すら曖昧だ。大衆が大挙して押し寄せれば、リスク分散だけでは対処できない。実際、金融危機の規模は拡大しており、今の時代だからこそ、微分的な思考よりも積分的な思考の方が役立つだろう。
高度成長時代であれば、少々無謀な投資も機能した。その影で賢明な主婦たちの行動が、巨大な預貯金をもたらした。7%という夢のような金利は、10年の複利計算でほぼ倍になる。その一方で、ギャンブラー亭主どもが金は天下の回り物などとほざいては、財形貯蓄まですっからかんにする。金利といえば借金の事しか考えず、貸出金利と預入金利の差など構っちゃいない。そういう輩に限って保険が必要だと騒ぎよる。これが、当時の一般的な家庭像であろうか。いや、我が家の構図よ。人間ってやつは、安全な時に危険を犯し、危険な時に安全の幻想に縋るらしい...
「知恵の神オーディンがトロールの王を訪ね、王の腕をつかみながら、どうすれば混沌に打ち勝つことができるのだ、と尋ねた。そなたの左目をいただきたい。そうすれば教えて差し上げよう、とトロールの王は言った。オーディンはためらうことなく左目を差し出して、教えてくれ!と縋る。するとトロールの王はこう言った。両目を見開いてよく見ることだ!」... ジョン・ガードナー

4. グレアムからの四つのアドバイス
  • 第一原則... 自分が何をしているのかを知れ。己の事業を知れ。
  • 第二原則... 決して自分の事業を他人任せにしてはならない。他人に任せるのであれば、彼のやることに対して注意を怠らず、かつ十分に理解することができ、その人の誠実さと能力に絶対の信頼が置けるという並々ならぬ確証が持てなければならない。
  • 第三原則... 信頼の置ける計算の結果、相応の利益を得るチャンスが十分にあると考えられる場合を除いて、その事業(投資)に踏み出してはならない。特に、利益よりも損失のほうが多いであろう投機的行為には手を出してはならない。
  • 第四原則... 自分の知識や技術に勇気をもって従え。事実に基づく結論を自ら下し、その判断が正しいと確信したのなら、たとえ他人がそれに対して躊躇したり異なった考えを持っていようが、自分の判断に従って行動せよ。

5. テキサス州の古いジョークだそうな...
学校の先生がビリー・ボブに問題を出す。
「君は12匹の羊を飼っていたが、1匹が柵を越えて逃げてしまった。後に残っている羊は何匹かね?」
「一匹も残っていません」と、ビリーは答えた。
「よろしい。君は引き算が分かっていないようだね。」
「たぶん分かっていません。でも、うちの羊のことなら何でも知っています!」

"功利主義論集" John Stuart Mill 著

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功利主義という用語は、掴みどころがなく手強い。古くから道徳哲学を信奉する人々に批判されてきたのも、ジェレミ・ベンサムの唱えた最大幸福原理が、快楽の総和として計算されるからである。いわば、GDPのような経済指数として。現在でも、経済人の価値観に偏っていると叩かれる一方で、その批判者たちもまた客観性を欠くと反撃を食らう。この用語を曖昧にしているのは、正義と幸福の観念を支柱にしているからであろう。人間社会はこの二つの観念なくしては成り立たず、共通の合言葉として君臨している。
しかしながら、厄介なことに、正義にしても、幸福にしても、個人によって求めるものが違う。人間は本性的に利己的で、この性質を完全に排除しようとすれば、今度は別の本性が暴走を始める。多様性もまた人間本性的で、これを軽視すると、正義の観念は、すぐさま宣伝やバフォーマンスの類いで扇動され、幸福の観念は、幸福の使者を自負する者によって有難迷惑を撒き散らす。
人間の本性の一部を、単純に悪だと片付けて抹殺すれば、そこに残されるのは人間なのであろうか?功利性にしても、正義にしても、道徳にしても... こうした用語は、真の自由人にとっては強力な武器となろうが、群衆心理や自己欲望に隷属する俗人には危険な道具となる。自由人ってやつは、真理の探求という険しい道ですら、快楽の美酒に変えてしまうようである。本書は、まさに高次の快楽とは何かを問うている。
「満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。」

功利主義が唱えられたのは18世紀頃、最初はペイリーらによって神学的功利主義として提示され、後にベンサムやミルらによって理論体系化がなされた。
しかしながら、功利主義的な発想は、既に古代ギリシア哲学に見つけることができる。プラトンは著書「国家」の中で、政治の役割は国家全体ができるだけ幸福になるよう仕向けることだとし、アリストテレスは著書「政治学」の中で、私有財産の観点から政治算術のような考え方を匂わせている。ミルは、こうした古代哲学に立ち返ってベンサム主義と一線を画し、改良した功利主義を唱えている。
本書の特徴は、ミルの思考過程を辿るかのように論説集が組み立てられていることにある。まずセジウィックの論説を批判し、次にベンサムの功利主義を語り、ヒューウェルの道徳哲学を批判した後に、ミルが再構築した功利主義を論じている。ベンサムへの批判は、だいたいにおいて道徳感情や倫理観が欠けているというもの。確かに、功利性ってやつは、経済的な損得勘定や利害関係と相性がよさそうに映る。ミルも、ベンサムの人間観察が浅はかであることを指摘している。快楽の所在についてはあまり論じていないと。ベンサムは、人間の道徳判断が結局は利己的であり、道徳感情にあまり期待しないという立場のようである。それでも、ミルは積極的な評価を与えている。宗教的な道徳感情の強い時代に、科学的な観点からの思考習慣を政治学に取り入れたとして。そして、ベンサム主義を足がかりに、人間の多様な価値観を認めつつ、多面的な功利主義を構築しようと試みる。
「徳は望まれるべきだけでなく、利害関心を離れてそれ自体として望まれるべきものである。」

ところで、建設的な批判とは、こういうものを言うのであろうか...
ミルは、相手の主張を否定するのではなく、うまくいなしている感がある。批判的論争ってやつは、互いに言葉の揚げ足をとり、本質的な問答から乖離して泥沼化しやすく、聴衆者はどちらにも加担したくない、といった構図になりがちである。
「すでに社会的感情を発達させている人は、自分以外の同胞を幸福の手段をめぐって相争う競争相手と考えたり、自らの目的を達成するために同胞たちの目的が挫折するのを望んだりすることはありえない。」
例えば、キリスト教の根源的な営みにしても、多様性に満ちている。ローマ教会に頼らず独自に修正したキリスト教を唱える者もいれば、神の定義を宇宙法則に求めるようなキリスト教徒もいる。そもそも宗教原理ってやつは、寛容性を伴うから救われるのであろうに...
「キリスト教を批判する人がその真理や好ましい傾向をイエズス会士あるいはシェーカー教徒が抱いている見解に基づいて判断するとしたら、その批判者はどのように思われるだろうか。」
批判や議論のあり方とて、同じようなもの。どんなに優れた哲学書でも、まったく隙のない記述などありえようか。すべての状況を想定して記述することが不可能となれば、偉人の残した書は言葉足らずに欠席裁判を強いられる宿命を背負う。後出しジャンケンの餌食よ!そして、不合理な批判が別種の不合理な批判を呼び、批判の堂々巡りを始める。人間ってやつは、なにかと揉め事がお好き!人生とは、よほど退屈なものらしい...
「ロックが用いなければならなかった以外の議論が彼の結論のいくつかを立証するために不可欠であるという理由で彼を攻撃することは、証験論を書かなかったという理由で福音主義者を非難するようなものである。問題は、ロックがどのようなことを述べていたかではなく、彼が現在に至るまでの自分に対する反論すべてを聞いたとしたらどのようなことを述べるかということである。」

1. セジウィックの論説
地質学者で聖職者でもあるアダム・セジウィックは、直観主義の立場からジョン・ロックの経験論と、ウィリアム・ペイリーの神学的功利主義を批判したそうな。セジウィックは、正義をなすための道徳判断を下す能力、いわば道徳感情は生得的であると唱え、道徳感情を経験的とすれば、計算高い思惑と結びつくとしているらしい。
だからといって、直観的な道徳感情を、神聖視するのは行き過ぎであろう。確かに、閃きやア・プリオリな認識を与えてくれる直観は、偉大である。おいらには、気まぐれこそ崇高な精神に映る。しかし、その直観から生じた観念を、科学的、論理的に検証してこそ、より確信へと導くことができよう。ミルは、なにも直観的思考を批判しているわけではない。なによりも芸術心が拠り所にする思考法であることは、誰もが認めるところである。本書は、不可解な先天的能力を学術的に説明できるまで理解し、後天的能力として道徳観念を導くべきだとしている。直観学派に対して、功利主義を帰納学派としているところにも、その意識が見える。

2. ヒューウェルの道徳哲学
ウィリアム・ヒューウェルは、セジウィックと似た立場で、直観主義的な立場からベンサムを批判したそうな。ミルは、残念ながらイングランドの大学は、正統とされる思想以外は受け入れない宗教的組織だと指摘している。真理よりも、宗教、保守主義、平和といったものが重要視されると。言うまでもなく、後ろ盾はイングランド国教会であるが、その傾向がヒューウェルの哲学思想にも顕れているらしい。キリスト教に限らず、宗教的な道徳観念では、苦痛を美徳とする傾向がある。それは、精神修行や苦行といった形に顕れる。逆に言えば、快楽は悪徳の象徴とされる。ミルは、ヒューウェルが功利主義を利己主義と取り違えていると指摘している。
ベンサム主義の原理では、快を増大させ、苦痛を予防することが、道徳への道と考える。それゆえに、快を悪とする主張に対して、すべて反対者と見なす。宗教的禁欲主義とは、まさにこの類いであろう。宗教的道徳観では、苦痛こそ追求するもので快は避けるものと考え、自虐行為ですら賞賛する。そのために報酬や将来の恩恵を期待したりはしないかと言えば、そうでもない。ベンサムをは、こうした考えを一般化して禁欲主義としているそうな。ベンサム主義者は、盲目的に忠誠を誓ったりはしないという。
だが現実社会は、宗教思想や会社組織の創始者というだけで崇められる。その功績や考え方を理解するのではなく、人物を盲目的に崇め、いわば神格化させてしまう。批判する側もまた、盲目的に人物を攻撃する。ベンサムは、このような流動的な見識に、道徳の基礎を置いたのではないという。最大多数の最大幸福とは、普遍的価値観を前提にしているのであって、単純な多数決に委ねたわけではないということか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、正義がなんであるかを説明できずに、感覚だけで正義を押し付け、義務がなんであるかを説明できずに、感覚だけで義務を押し付ける。彼らは、直感を直観へ昇華させることができないでいる。有徳者や有識者ですらこんな有り様なのに、酔いどれごときがどうして理性なんぞを獲得できようか...

3. ベンサム主義
ベンサムの格言にこういうものがあるそうな。
「すべての人が一人として数えられ、誰も一人以上として数えられない。」
多数決の原理は民主主義と相性が良さそうに映るが、そこには落とし穴がある。実際、多数決を民主主義の象徴として崇める政治屋は多い。そのために多数派工作に余年がなく、選挙屋になりさがる。正義ってやつは、道徳を基準として実践されるわけではない。法と道徳は一致すべきなのだろうが、現実にそうなっていない。幸福にしても道徳観念から構築されるべきなのだろうが、道徳観念もまた普遍性に達していない。人類は、いまだ善悪すらきちんと規定できないでいる。正義がこれほど脆弱にもかかわらず、政治屋どもは堂々と正義を主張する。なんと厚かましいことか。
デヴィット・ヒュームの言葉に、こんなものがあるそうな。
「世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる!」
正義や幸福や道徳という用語は、心地よく響くだけに、民衆を欺瞞する道具とされる。義務という用語も怪しい。自分で判断できず、ただ組織の命令に従うことが義務なのか?義務の正体をきちんと説明できずに、義務が果たせるのか?そして、権利とは、義務をともなうもののはずだが。平等という用語も危険である。公平とは似ても似つかぬ。ベンサムの唱える個人目的にしても、少々経済的動機が優勢のようである。
「最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが前提に置いたのはこのことだけである。」

4. 功利主義
功利主義とは、功利性を究極的な価値の原理とする理論であるという。倫理的な観点では、正義は善悪という道徳基準によって決定されるとし、社会的な観点では、個人の功利性に結びついた社会的功利性の向上が社会目的とされる。本書は、その特徴を四つ挙げている。
  • 帰結主義... 正義は結果的に社会的な善で規定される。結果主義とも言えそうか。
  • 福利主義... 共同体全体の幸福を考慮する。
  • 総和主義... 人員に優劣をつけることがなく、全体幸福量の総和を志向する公平性。
  • 最大化主義... 幸福の総量を最大化するとは、まさに経済原理か。
ミルの主張する功利主義には、道徳権利が前提される。しかしながら、多様な価値観を総合的に解決するには、最低基準を規定する方が実践的であろう。これが、基本的人権というものであろうか。法律の役割にしても、正義をなすことではなく、なるべく不正義をなさないようにする。推定無罪にも、功利性が働いていると言えよう。
... などと言えば、なんとも消極的な動機にも映る。神に縋るのと大して変わらないような。しかし、真の自由人は、法律や神も、理性や道徳も、意識せずとも自然に振る舞い、自然に義務を果たせるのであろう。逆説的ではあるが、高次な快楽を求めるには、最低限の規定を与えるだけで、なるべく自由の余地を与えた方がいい、とすれば積極的な動機となろうか。
「人生における個人的な楽しみを放棄することによって世界の幸福の総量を増大させることができるとき、楽しみを自ら放棄することのできる人々は本当に賞賛されるべき人々である。しかし、何らかの他の目的のためにそうしていたり、他の目的のためにそうしていると公言したりしている人は、自分が念頭においているような禁欲主義者と同じ程度にしか賞賛に値しない。」
功利主義を端的に言えば... 一般的な価値観の基準では最低限の道徳性を規定することぐらいしかできない、そして、社会全体では高次の快楽を求めるように意識を向けることで集団的な利益をもたらす... といったところであろうか...

"政治論集" David Hume 著

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啓蒙時代の哲学書に触れると、デイヴィッド・ヒュームの名をよく見かける。彼の主著「人間本性論」はなかなか手強そうだ。入門書として「政治論集」と呼ばれるエッセイ集で、お茶を濁してみよう...

ヒュームの立場は、共和主義的な自由主義に立脚している点ではありふれた思想にも映る。ただ注目したいのは、アダム・スミスに先んじて経済原理から自由主義を唱えている点である。古典的な共和主義では、宗教的な道徳感情に支配され、商業的な欲望を悪習と見做す禁欲主義が旺盛であった。自由の基盤には、土地が中心に据えられてきた。言い換えれば、自己存在を確認できる場所を中心にした考え方である。ヒュームは、まず土地への執着に疑問を投げかける。そして、商業的な欲望と禁欲的な欲望の差異に対して、人間本性から迫ろうとする。商業活動は、自由精神とすこぶる相性がいい。土地への従属精神は、商業活動によって解放されてきたとも言えそうか。
しかしながら、土地依存症は、人間社会の発達とともに組織依存症から情報依存症へと変化してきた。自己存在の確認できる場所もまた仮想空間へと移行する。精神現象そのものが幻覚なのだから問題ないってか。俗世間の泥酔者には、仮想と幻想の違いがとんと分からん...

当時の政治の理想像では、トマス・モアのユートピアが思い描かれるようである。ヒューマニズムを信奉する点では、時代的差異をほとんど感じない。ただ、労働を奨励しておきながら富を憎む思考回路は、マルクス主義に通ずるものがある。労働に励めば生産物を潤し、商業活動が盛んになり、富が増大するのも道理であろうに...
ヒュームは、商業を強欲と結びつけて断罪する社会風潮に、我慢ならないようである。彼は、そんな時代にあって経済的自由主義を大胆に提唱する。そして、富と徳は本当に両立できないのか?と問いかける。伝統的な道徳観念では、奢侈を怠惰の代名詞とし、快楽を悪徳としてきた。だが、勤勉によって富が獲得されるのも事実。貧困のために書物も買えないようでは、知識を得る機会までも奪われる。勤勉を放棄した道徳的堕落と、自由活動に執着した欲望的堕落は、どちらも人間の本性だ。富を欲することも、権力を欲することも、名誉を欲することも欲望ならば、健康を欲することも、愛することもまた欲望、抑制することも、禁欲もこれすべて欲望なのである。欲望は人間の本性であって、その一部を抹殺すれば、精神のバランスを欠き、他の本性を剥き出しにする。歴史を振り返れば、修道士ですら征服者同様、残虐行為に及んできたではないか。幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり人間は冷酷になるようである。
「人びとが快楽に関して洗練の度をまぜばますほど、どんな種類の快楽にも過度に耽ることはますます少なくなる。」

本書は、商業、貨幣、利子、貿易差額などに関する論説において、哲学者と政治家の役割を語る。資本と労働の生産利用という経済原理の確立では、スミスに譲ることになるのだが...
ヒューム以前の政治学は、経済問題を軽視してきた。重商主義は、空虚な理想主義への反発から生じたとも言えそうか。オランダは、ヨーロッパのどの国よりも先んじて、商業共和国を謳歌した。やがてイギリスが追い越し、自由主義との結びつきから、商業ヒューマニズムを形成することになる。欧米式資本主義は、契約の原理に支えられている。ひいては、神との契約であり、そこに帳簿の正当性を与える。実践的には商法の進化であり、法律が商業活動の後ろ盾となる。民衆の商業活動が、法律を庶民化させてきたという見方もできるかもしれない。
とはいえ、宗教的政治による既得権益を、自由主義的商業が解放したとしても、やはり不正は蔓延る。そればかりか、過度の経済活動がしばしば災いをもたらし、極度の貿易不均衡が戦争の火種となってきた。公債や金融は有益な公共財ではあるが、度を越して用いれば経済危機を招く。いまや、信用経済は国家の枠組みを越え、手に負えない怪物となった。
ヒュームの視点には、商業と自由の結びつき、あるいは平和を前提とした産業がある。そして、強欲を克服し、自由を制御し、平和で安定した社会を築くにはどうすればいいか?これを問うている。頼みとするものは知性と徳性であろう。だが、いまだ人類は強欲を克服できないでいる。金銭欲とは不思議なもので、金持ちほど旺盛になるらしい。権力欲とて同じようだ。政治家になるべき者ほど自ら資格を疑い、自分の道徳に自信満々な者ほど目立ちたがる。これが政治の世界というものか。哲学者が統治する国家を理想像とするのは、やはり夢想ではなかろうか?プラトン君!

1. 政治の世界
ヒュームは、人間本性的に政治論、経済原理、人口論を語ってくれる。それは、利害関係を楯にした嫉妬の力学とでもしておこうか。嫉妬、憎悪、競争心、見返り... こういった思惑が本音を建前で偽装する。ナショナリズムは感情論と結びつきやすいだけに仮想敵国をでっちあげ、かたや経済や文化が繁栄すれば、流言蜚語の類いから陰謀や罠まで仕掛ける。平和に寄与する経済交流や文化交流に励む人々にとっては、はなはだ迷惑であろう。
そもそも、国連という世界規模の同盟が存在すれば、わざわざ国別に友好関係を斡旋する必要があるのか?いかに国連が独立権限を持たず、各国の思惑が絡み、本来の機能を果たしていないかという証でもあろう。本来の政治活動とは、人類の普遍的価値を求めるための集団的行動とならなければならないはず。それとも、政治とは、人間の醜態を曝け出すためにあるというのか?いわば、理性の捌け口として。なるほど、理性のない者に理性の捌け口はいらない。法律の限界実験をしながら、自分の理性の限界を試しているとでも言うのか?陰謀が渦巻くところに、必ず政治力が働く。政治力や権力のないところに陰謀は成り立つまい。
「浅薄な思想の人間は誰も、健全な知性の持ち主までも、思想家、形而上学者、改良家だと非難しがちであって、自分の弱い理解力が及ばないことは何であれ正しいとは認めたがらない。」
政治が、慢性的に矛盾を抱えるのは、強欲が絡み合うからなのか?確かに、政治には大義が必要である。だが、政治家どもの理屈では、野心と志を混同させ、国家の面子よりも政治家の面子が優先されるではないか。おまけに、人を貶め、蔑むことに懸命で、公の場ではパフォーマンスで勝つことに懸命だ。ヒュームは、政治が突発性や偶然性、あるいは少数の人間の気まぐれに依存してはならないと語る。そして、嫉妬の競争原理を、建設的な競争原理へ向かわせる術を模索するものの... やはり、毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかないのではないかい!
「すべての人間のうちで、政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力をもたなければ、これほど滑稽なものもない。」

2. 自由と公信用
人間社会には、生まれるとすぐに強制的にどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人間は、生まれる地を自由に選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人間はまず不自由を体験することになる。だから、本能的に自由に憧れるのかは知らん。おまけに、無条件に租税の義務までも背負わされる。こうしたシステムが機能するのは、ひたすら慣習が支えているからであろう。人間には、本性的に当たり前という感覚に慣らされる性質がある。本書は、こうした性質に「公信用」という語を当てる。
犯罪を見れば、警察に知らせるという性質が、自動的に治安システムとして機能させる。だが、公信用が崩壊すると、国家は成り立たない。私有財産を守る権利が維持されない社会に、信用など担保できない。すべてを自己責任に委ねれば無法地帯となろうし、すべての判断を世論に委ねれば法治国家を放棄することになろう。自己責任と公信用の按配こそが、社会を維持させるというわけか。慣習の力、恐るべし!
となれば、いくら自由を唱えたところで制限されることになる。自由精神の本質は、自らの自由をいかに抑制できるかにかかっているのかもしれん。人間社会には、哲学的、思弁的な原理体系が必要であろうが、民衆は思弁的な点では極めて粗雑となりがち。空気を大切にする社会は空気に呑まれやすく、村八分社会では哲学することも難しい。
一方で、自分の利益を放棄してまで、他人の意思のままになろうとする人も少ない。主権者に正義の保護が前提されなければ、義務を課すこともできない。人間は何らかの代償がないと動かないというのか。その代償が、正義と結びつくかは別にして。なるほど、神に対してですら見返りを求めてやがる...
「貧しい農民や職人が自分の国を離れる自由な選択権があると、まじめに主張できるであろうか?外国の言葉も生活様式も知らず、稼いだわずかな賃金でその日暮らしをしているのだから。ある人が眠っているあいだに船に乗せられ、船から離れようとする瞬間に、大洋に落ちて死んでしまうにもかかわらず、船内に留まっていることによって、その人が船長の支配に自由な同意を与えているのだ、と主張するのと同然であろう。」

3. 民主主義の本性
民主主義には、議会を支配すれば都市を乗っ取ることだってできるという危険がある。ある地方議会を、圧倒的過半数で占拠すれば、外国から動員された移住者によって現地人の発言を沈黙させ、部分的に別の国家に組み込むことだってできる。また、偽装貨幣の鋳造が、貨幣量を増大させることによってインフレを引き起こし、ライバル国の経済を転覆させようとする目論みも、よく機能する。古来、このような政治的な陰謀がしばしば実施されてきた。
現在ですら、ライバル国を蹴落とすことによって自国の安泰を図るという思惑は、当たり前のように実行される。政治は正義などという心地よいもので支えられているのではなく、政治家たちの集団的動物性によって支えられている。だから、いつの時代も、政治不要説ならぬ政治家不要説がくすぶるのか。あるいは、自己の幸福を確保するためには他人の犠牲が必要だという人間の本能が、そうさせるのか。政治現象とは、突き詰めれば、自己存在、ひいては自己愛の強調なのであろう。その具体的な解決手段が、暴力か話し合いかの違いぐらいなもの。この違いが大きいのも事実だけど...
クセノフォンは、「ソクラテスの饗宴」の中で、アテナイの民衆の暴政をごく自然に叙述しているという。
「かつて富をもっていたときよりも、貧乏な現在のほうが私ははるかに幸福である。それはちょうど恐怖よりも安心な状態にあるほうが、奴隷よりも自由人が、機嫌をとるより取られるほうが、疑われるより信頼されるほうが、幸福であるのと同じである。以前は、私はあらゆる密告者に気を使わざるをえず、いくばくかの賦課金がいつもかけられ、また都市を留守にすることはけっして許されなかった。ところが、貧乏な今では、私は偉そうな顔つきをし、他人を脅している。金持ちは私を恐れ、あらゆる種類の礼儀と尊敬の念を示してくれる。だから私はこの都市で一種の僭主になっている。」

4. 老齢と成熟
宇宙を永遠ないし不滅と断定できる根拠は、何一つ見当たらない。いつか宇宙が滅亡するならば、幼年期、青年期、壮年期、老年期といった段階があるのだろう。人間社会にも。
しかしながら、幼年期よりも青年期が、壮年期よりも老年期が、成熟していると言えるだろうか?人間社会は、若年であれ、青年であれ、壮年であれ、老年であれ、文句を垂れる量で存在感を強調する力学の世界である。寿命が延びれば、新たな世代層が生まれる。かつて人間50年という時代があったが、いまや60代ですら老齢と見なされない。高齢化社会や少子化社会と言われながら、世界全体では人口増加に歯止めがきかない。地球資源は限られているというのに。自発的に人口を抑制する傾向が生じるのは、悪いことなのだろうか?日本の人口がたった半世紀で、8千万人が1億2千万人にも膨れ上がったことは自然現象で片付け、ちょっとぐらいの人口減少を民族滅亡説のように目くじらを立てる。現在の世代バランスの歪は、過去の人口増加率に問題があるとは考えず、現在の繁殖意欲や養育制度の問題だとする。
はたまた、歳を重ねれば、決まって過去を懐かしみ、現在の有り様を嘆く。自己存在に自信が持てなくなるからか?そして経験を積めば、寛容性が増すと言えるだろうか?短気になり、イライラを募らせ、文句を垂れるようになるのは、人生の終焉に焦りを感じるからか?組織に隷属してきた連中が高度成長時代を謳歌し、今度は老後を謳歌する権利を要求するどころか、年金をご褒美だと考えている。惰性的な制度によって企業年金をたかり、現役社員の収入をたかる。歳を重ねると、若者以上に欲望をむき出しにし、パイの争いは世代間闘争となる。社会制度が崩壊するのも時間の問題か。尤も、褒美をあげるべき者ほど、そんなものに期待せず、自発的に生きようとするのだろうけど。
いずれ、社会制度や年金、国家の支配までも、グローバル企業に委ねる時代がくるのかもしれん。国防産業がアウトソーシングされるように。政治に哲学が期待できなければ、国会議員も、国家元首も、スポーツの代表監督のように、海外で実績を積んだ政治哲学者が雇われる日が来るのかもしれん...

5. 王位と中立性
人間社会では、しばしば集団性の気紛れによって論争が巻き起こる。権力者を巻き込みながら偏見に満ちた応酬となり、嫉妬が嫉妬を呼び、憎悪が憎悪を呼び、公共の自由は興奮のるつぼと化す。民主主義社会では、支持するのも批判するのも自由。だが、その基準が好き嫌いで判断されるとすれば、それは議論に参加する資格があるのだろうか?後援会だから、地元出身だから、ライバル政党だからという動機では、ただの応援団に過ぎない。すると、冷静に議論できる立場は、どの党派にも依存しない哲学者のみということになりそうだが、そんな人はこの世にいるのか?人間は誰しも群れるのがお好き!自分の意思で考えているつもりになって洗脳されることが、いかに心地よいかを潜在的に知っている。それは、催眠療法が示している。
政治において中立の立場に置くことがいかに難しいことか、これをヒュームは匂わせる。そこで、国家を統一する上で、都合のよい立場にイギリスには王室の役割がある。英国王のスピーチが、歴史的な窮地でいかに励みとなってきたことか。パパラッチの餌食にされるのは、なんとも気の毒である。我が国にも、似たような立場に象徴天皇がある。どんな政治的意見にも肩入れしないことが、唯一、国民の統一的立場に立てるという原理を成立させる。安直に言葉にできないという窮屈な立場であるが、一旦言葉を発すると首相のそれとは重みがまるで違う。それは、大震災で発せられた言葉を見れば、一目瞭然であろう。政治や世論が悪しき方向に向かった時、唯一歯止めとなる可能性を秘めた立場である。政治利用しようなどとは言語道断!だが、戦後においても、天皇の存在を政治利用しようとする目論見がいくつも見られる。したがって、皇居は永田町とは距離を置き、京の都あたりに設置する方が相応しい気がする。

AL-Mail とお別れ... 秀丸君よろしく!

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GW連休をきっかけに、ようやく踏ん切りがついた。二十年近く付き合ってきた AL-Mail とお別れすることを。今頃なにをやってんだか... 引退間際の古代人は、夜の社交場でも未練がましい!

履歴を調べると、ユーザ登録をしたのが1996年。16bit版から使ってきたわけだ。2006年からアップデートされていないが、Win7(64bit版)上でも動くし、不具合はプラグインでごまかしごまかし、それほど不都合を感じていない。ただ、時代遅れであることは間違いなく、何年も前から乗り換えを考えてきた。とはいえ、メーラは基幹ソフトの一つで、データベース代りにも使ってきただけに、それなりに思い入れがある。
AL-Mail の良さは、基本構造が単純で、プラグインによる拡張性が高いこと。ユーザ側に好きなように拡張させる思想が好きなのだ。スレッド機能、複数アカウントの制御、Secure Tunnel などはプラグインで追加できるし、セキュリティソフトやスパムフィルタなど外部プログラムとの連携で困ったことがない、いや記憶にない。起動オプションがあるので、コマンド制御もできる。ファイル構成がシンプルなために、バックアップスクリプトが書きやすく、他のマシンへの移植も容易。しかも、データ管理がテキスト形式であるため、どんなエディタでも開くことができ、復旧作業で最悪を回避できる。なによりもトラブルに強い点が手放したくない理由であった。ちなみに、拡張性においては、emacs のマクロ機能と比ぶべくもないが、手軽さでは遥かに AL-Mail の方がいい。
さて、次は何にしよう?天の邪鬼な性格は変えようがなく、MS系を避ける方針に変わりはない...

1. メーラの選定
メジャーなのは、Thunderbird あたりか。まず、こいつを試してみると、機能はまったく問題ないが、ちと重い!やはりメーラには軽快感がほしい。
次に、Becky! を試してみると、シェアウェアってのが気になるが、重要なソフトだけに少しぐらいお金を払ってもいい。操作性もよく、軽快、これで決まり!と思っていたら...
ついでに秀丸メールを試してみると、データ管理がバイナリ形式になるのは時流であろうと諦めていたところ、こいつはテキスト形式でやんの。ファイル構成もシンプルで、むしろ、AL-Mail よりいい。機能性も高く、複数アカウントとの相性もいい。おまけに、シェアウェアだが、秀丸エディタのライセンスを持っているので無料で使える。
てなわけで、秀丸君、今後ともよろしく!

2. 秀丸メールへの移行作業
AL-Mail からの移行には、三つのマクロが公開されている。

  データ用: hmml_import_alml_104.lzh
  アドレス帳用: cnvadr_alml2hmml_104.lzh
  振り分け設定用: cnvflt_al2hmml_100.lzh

データはアカウント別に変換するようで、仕掛けが分からず二度ほど失敗するが、分かっちまえば問題なく終わる。アドレス帳では階層エラーが発生した。ただ、AL-Mail のアドレス帳は、Group... End Group キーワードという単純な構成で、自前で csv変換プログラム(数行)を書いて、インポートしておしまい。後で気づいた事だけど、秀丸メール側は、G1/G2... という単純なキーワードで構成されるので、エディタ上で置換した方が早そう。
また、テンプレートとシグネチャには、以下のファイルがアカウント別に生成される。この構成は、AL-Mail よりもいい。尚、拡張子が .bin でも中身はテキストで、アカウント情報(account.bin)などはバイナリ。

  新規用: t_newmail.bin
  返信用: t_reply.bin
  転送用: t_forward.bin
  シグネチャ: sign.bin

複数アカウントにおける POP/SMTP over SSL の管理も楽。POPFile との連携も問題なし。尚、秀丸メール内蔵の迷惑フィルタを使ってみる手もあるが、単語群をせっかく育ててきたので、POPFile をそのまま使う。
また、64bit版には注意事項があるので、当初、32bit版をインストールしていた。でも、アプリケーションはなるべく 64bit版で揃えたく、インストールし直すと、ホームディレクトリを指定するだけでデータは継承できる。当たり前だろうけど。

結局、移行作業で問題になった点は特になし!作業には、1日かかると見ていたが、1時間もかからなかった。
てなわけで、もっと早くやりゃよかった!と思う今日このごろであった...

"宇宙創成(上/下)" Simon Singh 著

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人類の知りたいという執念には驚くべきものがある。それは、自分自身を知るための旅だ。どこから来て、どこへ行くのか?これを問い続け、自己の棲家である宇宙の正体を知らずにはいられない。つまり、人類は自分が何者かも知らない。己を知る欲望こそ、科学の原動力である。古来、哲学者たちが夢見たことは、その数千年後、ポアンカレの語ったこの言葉で言い尽くされていよう。
「科学者が自然を研究するのは、それが役に立つからではない。科学者が自然を研究するのは、そのなかに喜びを感じるからであり、そこに喜びを感じるのはそれが美しいからである。もしも自然が美しくなかったなら、それは知るに値しないだろうし、もしも自然が知るに値しなかったら、命は生きるに値しなかったろう。もちろんここで私は五感を刺激する美、質と見かけの美について語っているのではない。そのような美の価値を低く見てはいない。それどころがそうした美を高く評価している。ただ、そのような美は、科学とは関係がないということだ。科学にかかわる美は、各部分が調和した秩序からもたらされ、純粋な知性によって把握されるような、より深い美なのである。」

世界中のあらゆる文化が、独自の宇宙創成モデルを作った。創造主という神話を。ビッグバンモデルが優れているのは、誰にでもイメージしやすいこと。案の定、カトリック教会は教義の後ろ盾とした。人間の客観性への憧れは、信仰への頑固さに劣らない。客観的に述べると宣言された有識者どもの主張が、客観的であったためしはない。無い物ねだりというやつか。アインシュタインは常識というものを激しく批判したという。「18歳までに身につけた偏見の寄せ集め」と...
慣習に培われた常識とやらに蝕まれていくと、やがて疑問すら持てなくなる。常識に囚われるということは、自発的な思考意欲を失ったと見るべきかもしれない。まずは自分が信じているお気に入りの仮定を捨ててみることだ。人間の思考において主観性が強いのは、自然の姿であろう。それを承知してこそ、思考結果を検証するための客観性の役割が見えてくる。物理学では、理論構築において論理思考が牽引し、実験結果によって実証されてきた。その過程で、理論の根拠にしようと自ら目論んだ実験が、結果的に反証してしまうこともある。いわば、自己否定に追い込まれるのだ。
マイケルソンは、エーテル説を実証しようとしたが、マイケルソンとモーリーの実験は反対の答えを証明してしまった。彼は、結果が容易に受け入れられず、こうもらしたとか。
「愛しいエーテルは打ち捨てられてしまったが、私は今も多少の愛着を感じている。」
ラザフォードは、J.J.トムソンが提唱した「プラムプディングモデル」、いわゆる、ぶどうパンモデルを実証しようとしたが、あっさりと覆された。
アインシュタインは、静止した永遠宇宙を信じて、せっかくの美しい重力場方程式に奇怪な宇宙定数を加えたがために、「人生最大の失敗」と言わしめた。
理論派は徹底的に論理にこだわり、実験派は徹底的に精度にこだわる。科学は、その互いの資質の相補作用によって成り立つ。本書は、理論派にケプラー、ルメートル、フリードマン、アインシュタインといった面々を、実験派にエラトステネス、ガリレオ、ハッブルといった面々を紹介しながら、宇宙論をめぐる科学史を外観してくれる。また、ガモフ、アルファー、ハーマンらのビッグバン宇宙論派と、ホイル、ゴールド、ボンディらの定常宇宙論派の論争もなかなかの見モノ。尚、表題は「ビッグバン宇宙論」から「宇宙創成」に改題される。
それにしても、神は究極の退屈しのぎを作ったものよ。ビッグバンという現象は、もしかしたら神の死を意味するのか?だとすれば、揉め事をこしらえ、不完全な遺産を残したことになる。なんと無責任なヤツか!
「創造主である巨人が死ななければならなかったことから、人間は永遠に苦労するように運命づけられた。」

ところで、「科学」や「科学者」という用語は、意外にも新しいらしい。
1834年、ヴィクトリア朝の博識家ウィリアム・ヒューエルが「scientist(科学者)」という造語を用いたのが初めだそうな。ラテン語で知識を意味する「scientia」に由来。それまでは、「natural philosopher(自然哲学者)」と呼ばれていたという。
確かに、哲学は主観によって牽引されてきた。いや、直観と言うべきか。アインシュタインが時空の概念を持ち出す百年も前、カントがア・プリオリな認識に時間と空間の二つを置いたことは、直観の偉大さを示している。そして、冷静な目としての論理性で補完しながら、熱狂や迷信に対する解毒剤としてきた。真理に近づくために主観性だけでは不十分だと知れば、悟性が客観性を求めるは必定。ヒューエルがどういう意図で、このような用語を持ちだしたかは知らんが、客観性を強調したことは想像に易い。
とはいえ、科学は自然との相性がすこぶるよく、哲学にしても人間の自然の姿に意義を求めるため、自然哲学という用語も捨てがたい。
そういえば、日本語の「科学」という用語も奇妙な漢字が当てられる。「科」を「学ぶ」とはすべての学科を含むニュアンスを与える。実際、人文科学、社会科学などの用語が編み出されてきた。現在では客観性という意味で用いられることが多いか。いずれにせよ、客観性のレベルは、数学のものとは比べものにならない。
「どんな科学分野でも、人が初心者であることをやめてその分野の達人となるには、自分は一生初心者のままだと知ったときである。」... ロビン・ジョージ・コリングウッド

1. アリストテレスの呪縛
神話という語は、物語を意味するギリシャ語の「ミュトス」に由来するそうな。他にも「権威ある言葉」という意味もあるとか。世界中の神話は、その社会で絶対的な真理を表してきた。神話は信仰や迷信と強く結びつき、これに疑問を呈する者はことごとく罰せられる。そんな時代が長く続いた後、紀元前6世紀頃、知識人たちは突如として様々な可能性を考えるようになったという。哲学者たちは、広く受け入れられていた神話的宇宙観を捨て、自分なりの説明を自然学の下で作り出す。
例えば、ミレトスのアナクシマンドロスは、地球の周りには火に満ちた環(わ)が回っていて、太陽はその環に開いた穴であるとしたという。月や星も同じように、天空に空いた穴であると。小学校の工作で見かけそうな手作りプラネタリウムの発想か。
コロポンのクセノパネスは、地球は可燃性のガスを放出していて、夜のうちに溜まり、臨界質量に達すると発火して太陽になると考えたという。ガスの玉が燃え尽きると再び夜が訪れ、後に火花として星々が残ると。月もまたガスが溜まっては燃えるという周期で動いていると。
本格的な合理主義運動は、紀元前540年頃のピュタゴラスに始まる。「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると1オクターブ高い音が生じ、元の音と調和することに気づくと、一弦琴を使って和音の理論を構築した。一般的に弦の長さを調整する時、元の弦に対して簡単な比になるようにすると、元の音と調和する。弦の長さを3対2にすると今日で言う5度の音程になり、複雑な比にすると不協和音になる。太陽も月も、星々も、すべての天体運動が数学で説明されると、天空の音楽理論が構築される。宇宙が数によって調和しているとなれば、人間社会におけるあらゆる運動が数学モデルで構築される。気象観測、市場予測、人口予測など。カオスを前にして、やや息切れ気味ではあるものの...
アリストテレスの時代、惑星のループ軌道がカオスに映ったことだろう。自己存在の大前提とされる大地が丸いというだけで、人々はまるで悪魔の世界であるかのように戸惑い、知性の崩壊から理性の崩壊を招いてきた。おまけに、地球は太陽の周りを回り、太陽系も銀河系も運動しているとなれば、黙殺せずにはいられない。
しかし、現代人はアリストテレスの世界観を本当に捨てきれているだろうか?リンゴが木から落ちるのを見て、自発的に落下しているのか?地球の重力に引き寄せられているのか?と問えば、相対的な解釈はどちらでも可能だ。ならば、自分は社会を生きているのか?社会に生かされているのか?を問うてみるがいい。人間ってやつは、何かを中心に置き、しかもそれに向かって運動していないと落ち着かないものらしい。そして、いくら客観的な知識を蓄えたところで、いくら神を崇めたところで、最終的に自分を中心に置くことになる。重い物体も軽い物体も同時に落下するって本当なのか?と問うてみても、たとえガリレオが正しいと知っていても、やっぱり酔いどれはアリストテレスの世界で生きている。その証拠に、アルコール濃度が重いほど肉体も精神も沈むのが速い!

2. 宗教から科学への回心
宗教が科学理論を支持したところで、なんの援護にもならない。証券アナリストが、ほら当たった!と自慢するのと同類か。
アリストテレスは、哲学的な考察から重い物体は軽い物体よりも速く落下すると論じた。ガリレオは実験によってその間違いを証明したが、アリストテレスは既に神聖化された人物。ガリレオには権威の反対を主張する勇気があった。望遠鏡によって測定精度という観点を、科学にもたらした貢献は大きい。ガリレオは異端審問でこう反論したという。
「聖書は天国への行き方を教えるものであって、天の仕組みを教えるものではありません。」
科学者には政治的に振る舞うのが苦手な人が多い。その功績は死後に称えられるケースも珍しくない。何かにつけて常識を持ち出し、道徳を持ち出し、その究極に神を持ち出すのは、無知を覆い隠す絶好の手段となろう。ベラルミーノ枢機卿はこう述べたという。
「地球が太陽のまわりを回ると主張することは、イエスは処女から生まれてはいないと主張するのと同様に誤りである。」
聖書の馬鹿馬鹿しい解釈のおかげで、その反発として科学的思考が生まれ、宇宙創成モデルの構築が始まった。ダーウィンの進化論が登場すれば、人類の歴史もすぐに覆される。マックス・プランクは、こう述べたという。
「重要な科学上の革新が、対立する陣営の意見を変えさせることで徐々に達成されるのは稀である。サウロがパウロになるようなことがそうそうあるわけではないのだ。現実に起こることは、対立する人々がしだいに死に絶え、成長しつつある次の世代が初めから新しい考え方に習熟することである。」
尚、サウロはキリスト教徒迫害者であったが、奇跡的な回心を遂げて使徒パウロという呼び名となった。

3. ビッグバン宇宙論への道
アインシュタインは、静止宇宙を仮定して、重力場方程式に宇宙定数を付け加えた。それ故に、一般相対性理論と静的で永遠宇宙という概念を両立させることができる。
対して、アレクサンドル・フリードマンは、重力場方程式の美しさのみに着目したために、宇宙に自由な形を与えた。特に重要なのは、宇宙定数がゼロの時の宇宙モデルで、動的に発展することが示されたこと。動的とは、激烈な崩壊によって終焉を迎えることを意味する。最初は膨張によって始まり、重力に対抗できるだけの勢いがある。そして、宇宙が重力に対抗する方法は、三つの可能性が考えられる。
第一の可能性は、宇宙の平均密度が高く、与えられた体積中に含まれている星の数が多い場合。星が多ければ重力の総和が大きくなり、やがて星が引き寄せられて膨張が止まる。宇宙は収縮に転じ、ついに完全に潰れる。
第二の可能性は、星の平均密度は低いものと仮定した場合。重力の総和が宇宙の膨張を押さえこむことなく、どこまでも膨張を続ける。
第三の可能性は、宇宙の密度は高くも低くもない場合。重力のために膨張速度は小さくなるが、膨張が完全に止まることはない。宇宙は収縮して一点になることもなければ、無限大に膨張することもない。
これらの中でどのパターンになるかは、宇宙が膨張を始めた時の速度と、宇宙に含まれる物質の総和で決まる。いずれにせよ、フリードマンが提示したのは、宇宙は変化するという発想だ。多くの物理学者が宇宙定数を歓迎し、一般相対性理論が固定観念になりつつある中、フリードマンはコペルニクス的な柔軟性を披露した。にもかかわらず、アインシュタインの方がはるかに名声が高い。37歳の若さで死んだこともあろうか。理論家の多くは狂信者として世を去っていく。エドウィン・ハッブルの観測によって宇宙の膨張が発見されると、高く評価されることになるが、死後のこと。
聖職者で宇宙論研究者のジョルジュ・ルメートルは、ビックバン・モデルをはじめて合理的に説明したという。彼は、放射性崩壊というプロセスを知っていたようだ。ウランなどの大きな原子が壊れて小さな原子になる時、粒子、放射線、エネルギーを放出する。まさに原子モデルを宇宙モデルと重ねた発想だ。そして、フリードマンより少し運が良かったようである。ハッブルが発見した大ニュースを耳にすることができたのだから。
「宇宙について無知であればあるほど、宇宙を説明するのは簡単だ。」... レオン・ブランシュヴィック

4. 宇宙論と望遠鏡
宇宙論の発展に望遠鏡の進化は欠かせない。パルサー(脈動星)の発見が、一般相対性理論が予言する重力波の存在を匂わせる。宇宙の灯台と言われるやつだ。
1700年代、ハーシェル(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル)は、太陽系が天の川銀河という星団の集団に埋もれていることを示した。では、天の川銀河は宇宙で唯一の銀河なのか?あらゆる星雲は天の川銀河の内側にあるのか?外側にあるのか?シャルル・メシエは、星雲のカタログを作る。
1912年、ヘンリエッタ・リーヴィットは、ケフェウス型変光星、いわゆるセファイドを調べることで、距離を見積もることができることを示した。天文学者は宇宙を測定するための物差しを手に入れた。セファイドは、安定した平衡状態にはなく状態が揺れ動く。圧縮と膨張を繰り返す風船のような。この発見だけでも、宇宙の膨張と収縮を予感させる。北極星も代表的なセファイドで、天空に同じ位置にありながら明るさが変化する。
1923年、ハッブルは、アンドロメダ星雲内のケフェウス型変光星を見つけ、天の川銀河の遥か遠くにあることを示した。ほとんどの星雲が天の川銀河とは別物で、宇宙は銀河に満ちていた。
原子は決まった波長の光を放出したり吸収したりするので、分光学によって星の光を調べれば星が何でできているかが分かる。ハギンズ夫妻は、星の光の波長がわずかにずれていることを観測する。それはドップラー効果によって説明できる。銀河の大半は、天の川銀河から赤方偏移を示すことが観測された。ハッブルの法則は、銀河の距離と速度の関係を示す。それは、宇宙の膨張を予感させるだけでなく、なんらかの出発点があったことを予感させる。聖書は正しかった!と叫んで飲み明かした宗教家も少なくなかったろう。

5. 原子モデルと核反応
ルメートルは、宇宙の始まりは、極めて小さく有限な状態を持った原初の原子が平衡を失って、放出した結果だとした。フリードマンはちと違う。宇宙は原初の原子から始まったのではなく、一点から始まったとした。ゼロからの創成ならば、時間も空間も有限ということか?完全なる神が消滅するとなれば、宗教家にとっては由々しき問題!
ビッグバンモデルを受け入れるには、科学的にも無視できない問題がある。豊富に存在する物質もあれば、稀にしか存在しない物質もあるのはなぜか?物体が均等に存在しないのはなぜか?宇宙は大きくて重い元素ではなく、小さくて軽い元素で占められている。元素の存在率は、水素の90% 、ヘリウムの0.9%。ここから原子を理解しようという試みが始まる
アーネスト・ラザフォードは、ラジウム原子にアルファ粒子を衝突させる実験から、一つの原子核と多数の電子からなる原子モデルを提唱した。原子核は、陽子と電荷を持たない中性子で構成され、しかも原子に対して驚異的に小さい。陽子と電子の数は、原子の種類を決める重要な指標で原子番号とされる。
水素とヘリウムは、小さくて軽い方から二つの元素。陽子と電子をやりとりすることによって、他の原子に変わる。これが放射の背後にあるメカニズムである。ラジウムのような重い原子の原子核は非常に大きく、88個の陽子と138個の中性子を含んでいる。このような大きな原子核は不安定であることが多く、より小さな原子核の状態に移ろうとする。ラジウムの場合、2個の陽子と2個の中性子をアルファ粒子として吐き出し、86個の陽子と136個の中性子を含むラドンに変わる。アルファ粒子とは、ヘリウム原子核の別名だ。大きな原子核が小さな原子核に分かれるプロセスが核分裂である。逆に、水素のような軽い原子と中性子を核融合させれば、ヘリウム原子核に変わる。
水素は比較的安定しているので核反応は自発的に起こらないが、高温高圧などの適切な条件下で起こる可能性がある。水素が核融合してヘリウムになるメリットは、ヘリウムの方がより安定しているからだという。そのエネルギーは、どこから来るのか?それがアインシュタインのあの有名な公式で、エネルギーと質量の等価性が示される。安定した原子状態ほど、核反応が生じた時のエネルギーは莫大なものとなる。水素の核融合爆弾は、プルトニウムの核分裂爆弾よりも、いっそう破壊的というわけだ。核反応の研究が、水素とヘリウムの存在比率に矛盾することなく、ビッグバンモデルを裏付ける。
では、既に宇宙が存在する中で、ビッグバン級の核反応が発生したらどうなるだろうか?宇宙は階層構造となるのか?あるいは、宇宙は破壊されるのか?時間と空間の始まりを宇宙創成、すなわちビッグバンに求めるならば、自由意志の正体とは、空間を自由に泳いでいた原初時代の自由電子の名残であろうか?人間のあらゆる細胞は原子で構成され、当然ながらそこには原子核に捕まった電子がいる。電子の中には、DNAよりも微小な記憶素子が埋め込まれているのだろうか?いずれにせよ、安定志向が強いほど改革は難しく、それだけ大きなエネルギーが必要となるのは道理であろう...

6. 宇宙マイクロ波背景放射とゆらぎ
宇宙マイクロ波背景放射(CMB放射)とは、全天空からほぼ等方的に観測されるマイクロ波である。ビッグバン後に、宇宙の温度が下がって電子と陽子が結合して水素原子を生成し、宇宙が放射に対して透明になった時代のスナップショットと考えられている。宇宙の晴れ上がりの時期の名残か。
密度のゆらぎは、あらゆる現象で見られる。人間社会にも過密と過疎が生じるように、CMB放射にもゆらぎがあるらしい。宇宙初期に生じたゆらぎだとすれば興味深い。COBEチーム(宇宙背景放射探査機)は、ゆらぎの検出に没頭する。ビッグバンから1秒のうちに超高温だった宇宙は膨張して急激に冷え、温度は数兆度から数十億度にまで下がる。その頃、主として陽子と中性子と電子からなり、すべては光の海に浸されていた。それから数分のうちに、水素原子である陽子は他の粒子と反応して、ヘリウムなどの軽い原子核を形成する。最初の数分で、宇宙に存在する水素とヘリウムの比率がほぼ決定されたという。宇宙は、その後も膨張を続け、冷え続ける。この頃の宇宙は、簡単な原子核と、エネルギッシュに飛び回る電子と、膨大な光が存在し、それらがぶつかり合って、跳ね飛ばされる。約30万年が経過すると、温度が十分に下がり、電子の速度が落ちて原子核に捕まり、原子が形成されたという。これ以降、光はほぼ何にも邪魔されず、宇宙をまっすぐ突き進むようになったとか。この光こそが、ガモフ、アルファー、ハーマンらによって予測された宇宙マイクロ波背景放射というわけか。これは、光によるビッグバンのこだまだという。宇宙が平坦でないのも、ビッグバンから30万年後の密度のゆらぎによるものらしい。
1979年、アラン・グースはインフレーション理論を提唱した。宇宙は、一定に膨張してきたのではなく、インフレーション期に一気に膨張し、やがて膨張速度が衰えたというもの。インフレーション期には、ゆらぎも大きかったことだろう。では、やがて膨張は止まるのか?そして、収縮に転じるのか?
まぁ、宇宙からやってくる電磁波の研究もいいが、逆に何を放射しているかということには、科学者はあまり気にしないようだ。地球外生命体から見れば、地球ってやつは惑星のくせしやがって、様々な電波を放出するだけでなく、衛星という宇宙ゴミをまき散らす奇妙な天体に映っているかもしれん。到底自然界では説明のつかない悪魔の棲家にでも...

7. 暗黒物質と暗黒エネルギー
近年の観測によると、銀河の周辺部にある星は非常に大きな速度で運動しており、銀河内部にあるすべての星々の重力を合わせても、銀河の形をつなぎとめるには足りないことが示された。そこで、膨大な量の暗黒物質、すなわち光を出さない重力子のようなものがあり、星たちの軌道をつなぎとめているという説がある。
この物質の天体からの候補は、MACHO(Massive Astrophysical Compact Halo Object)というカテゴリーがあり、ブラックホール、小惑星、巨大な木星型惑星などが分類される。素粒子からの候補では、WIMP(weakly interacting massive particles)というカテゴリーの粒子が想定されている。
1990年代末、宇宙の膨張速度は減速どころか加速を続け、自爆しようとしているという説が検討される。宇宙を膨張に駆り立てているものとは何か?それが暗黒エネルギーってやつか?実は、暗黒物質ってやつが、古くから噂されてきたエーテルってことはないのだろうか?
ビッグバンを仮定すれば、ビッグクランチを想像することも難しくない。あるいは、その間を揺らぐビッグバウンスを繰り返しているのか?いずれにせよ、いまだ人類は宇宙の正体のほとんどを知らないでいる。分からないことがあり続けるということは、幸せなのかもしれない。ビッグバン以前にはどうなっていたのか?この問いに対する神学版とも言うべき答えで、聖アウグスティヌスの言葉を引き合いに出すと...
「神は天地創造以前に何をしていたのか?神は天地創造以前に、そういう質問をするあなたのような人間のために、地獄を作っておられたのだ。」

"ワープする宇宙" Lisa Randall 著

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猛省す!
女性の物理学者というと、ちと懐疑的であった。知らず知らず偏見があったことに気づかされる。600ペーン超の分厚い重みは、物理学への熱い思いの顕れ。初心者にも配慮しながら数式を徹底的に排除する一方で、深い見識と文才を魅せつける。真理の探求に、理系やら、文系やら、といった枠組みになんの意味があろうか?と問うかのように...

古来、人類は重力の問題に悩まされてきた。自己存在をこれほど強烈に意識させる物理量が他にあろうか。しかしながら、人類はいまだ重力の正体を知らない。普通の感覚では、物体に力が働くということは、何らかの物質の影響を受けているからだと考えるだろう。古代ギリシアでは、なぜ天体に運動が生じるのか?と問えば、真空をめぐっての論争が繰り広げられた。アリストテレスの時代、物理運動はすべて物質の媒介によるものとされ、宇宙には何らかの物質が充満しているからこそ天体に運動が生じるとされた。そして、エーテル充満説として決着を見る。だが、ニュートンが万有引力を提示すると、マイケルソン・モーリーの実験を後ろ盾にして、エーテルの存在が否定された。
では、引力や重力の正体とは何か?
アインシュタインが、あの有名な公式によって質量とエネルギーの等価性を示すと、真空中においてもエネルギーを介して力の作用が生じるとされる。そして、重力の作用を時空の歪で図式化した。こうして、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えは捨てられ、真空の概念が定着した。哲学的な実存観念においても、質量よりもエネルギーの方が本質である可能性を匂わせたのだった。
さらに、近年の観測結果は新たな問題を突きつける。銀河が今の形を維持するためには、銀河に含まれる星々の総質量では不足しているというのだ。そして今、そのエネルギーの不足分を補っているとされる影の立役者の存在がささやかれている。そぅ、ダークマター(暗黒物質)ってやつだ。しかも、宇宙空間の至るところに暗躍するとされる。宇宙論は、エーテル充満説へ回帰しようとしているのか?
著者リサ・ランドールは、まさにこの問題に挑む。この物語は、余剰次元の歪曲(ワープ)という観点から説明を試みる、ある種の思考実験である。アインシュタインの公式は質量のマイナスを規定しない、なんてことはないだろう。質量がプラスの世界がたまたま有限宇宙とされ、至るところに質量がマイナスの無限宇宙が接触している、という可能性がないとは言えまい。そして、質量を持った知的生命体には、それが認識できないというだけのことかもしれん。もしかしたら、ユークリッド幾何学とは、神がこしらえた悪魔の棲家、または監獄の設計図なのかもしれん...

ところで、量子の世界では、質量ゼロが当たり前のように出現する。光子や電子といった素粒子は、質量を持たないからこそ宇宙の果てまで達することができる。質量が存在するから量子場の影響を受けて、自由運動が制限される。では、質量なんて奇妙な性質は、どこから生じるのだろうか?その原因を、場の量子論が唱える「対称性の破れ」、あるいは「超対称性の破れ」から説明してくれる。
「対称性は重要な要素だが、宇宙はふつう完璧な対称性をまず実現させない。わずかに不完全な対称性が、この世界を興味深い(しかし統制のとれた)ものにしている。」
質量ってやつは、宇宙法則における超常現象なのであろうか?
宇宙法則に完璧な対称性が成り立てば、質量なんて奇妙なものは存在できず、宇宙は平坦で無限でいられるのかもしれない。これが、不確定性原理が暗示していることであろうか?不確定性原理の不思議なところは、不確定となるまでは納得できても、不等号で示されることに不自然を感じる。量子力学では、ある特定の二つの物理量を同時に正確に測定することは不可能とされる。例えば、位置と運動量を測定する場合、先に位置を測定して後に運動量を測定した場合と、その逆では結果が違う。それでも、二つの物理量の曖昧さの積は、プランク定数系よりも大きくなるという符号の方向性だけは残る。
この方向性は何を意味するのだろうか?
観測とは人間が認識しようとする行為であり、純粋な物理現象に観測系が関与すれば時間という次元に幽閉される。質量を持つ物体が関与すれば、物理系は何らかの次元に幽閉されるということであろうか?宇宙の秩序を乱す唯一の要因が質量だとしたら、それを認識せずには生きられない人間は、神の嫌われ者かもしれん。だから、人間は神の気を引こうとして、知らず知らず悪魔になろうとしているのか?
また、あらゆる素粒子は、人間の認識できない余剰次元によって接触しあっている可能性を匂わせてくれる。あらゆる次元が接触しあうには、空間が歪曲している必要がある。というより、人間が勝手に歪曲していると感じているだけのことかもしれん。人間ってやつは、質量を基準にしなければ思考することもできず、おまけにユークリッド空間に幽閉されているときた。
そこで、次元の境界条件としてブレーンの概念を導入すると、思考を助けてくれる。ブレーンとは、膜のように閉じられた次元空間のようなもので、複雑な高次元の風景を眺めるにはうってつけのツールだ。宇宙空間を多層多面にスライスし、人間の住む3次元空間は一枚のブレーンに閉じられていると考える。量子の運動範囲が、ブレーンの境界条件によって決まるというわけだ。素粒子には、自由に通過できるブレーンが決まっている、という性質でもあるのだろうか?人間が認識できる3次元空間と接触できる素粒子にも制限があるとすれば、目の前にあっても気づかないだろう。素粒子物理学では、重要な仮想粒子にグラビトン(重力子)の存在がささやかれる。結局、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えからは、逃れられないのかもしれん...

1. 重力と階層性(ヒエラルキー)問題
解明されてない大きな問題は、重力ってやつが他の既知の力に比べて、なぜこんなにも小さいかということ。地球という大きな天体の持つ重力に逆らって、ちっぽけな人間は手を上下させたり、ジャンプすることができる。クリップだって磁石に吸い寄せられて浮き上がる。地球上の運動現象は、地球の全質量に逆らって運動できるわけだ。そのくせ太陽や月という膨大な重力とも、うまいこと均衡してやがる。
これをうまく説明できる思考法に「等価原理」がある。それは慣性質量と重力質量を同一視するもので、一般相対性理論の構築原理とされる。つまり、周囲のすべてが自由落下していれば重力場を感じることはない、加速系の中では重力が相殺される、という考え方。おかげで、地球上の生物は地球の自転を感じずに暮らせるという寸法よ。この原理に従えば、重力は等加速度と区別がつかない。だが、実ははっきりと区別がつく。重力が加速度と等価ならば、地球の裏で生じる反対側の加速度運動が説明できない。あらゆる方向に対する力の保存則が成り立たないとなれば、等価原理では局所的にしか加速度に置き換えられない。そこで、重力が二つの物体間に生じる力という考えを捨て、電磁気学のように場の概念を当てはめる。重力場として空間全体を眺めると、時空の歪で説明できるわけだ。
さらに、著者リサ・ランドール、ラマン・サンドラム、アンドレアス・カーチらの共同研究によると、余剰次元の概念を当てはめれば、空間のある領域では重力が強くても、他の領域では一様に弱くなるという。そして、驚くべき発見が紹介される。
これまで余剰次元は微小なものでなければならない、さもなければ目に見えないことが説明できないとされてきたが、なんと!空間の歪曲によって重力の弱さが説明できるだけでなく、余剰空間が曲がった時空の中で適切に歪曲していれば、その広がりは無限になる可能性があるという。有限宇宙は、高次元領域において無限宇宙だというのか?人間は3次元ポケットの住人に過ぎないというのか?... そうかもしれん。肉体とは、一時的に3次元空間に住むための宇宙スーツのようなものであろうか。
また、重力の問題は「ヒエラルキー問題」と関係し、相対性の力は富のトリクルダウン理論のようなものだという。トリクルダウン理論とは、政治家がよく口にする、富裕層に資金を流せば自然に貧困層にまで浸透するという経済理論だ。富の階層構造のように、エネルギーにも階層構造があるとすればイメージしやすい。階層性問題は、膨大なプランクスケール質量と低いウィークスケール質量の比から生じる。プランクスケールでは、長さ 10-35m に対して、プランクスケール質量(エネルギー)は 1019GeV。ウィークスケールでは、長さ 10-17m に対して、ウィークスケール質量(エネルギー)は 103GeV。つまり、エネルギーにおいて、16桁もの量子補正が必要ということだ。適切な補正を怠れば、資金が貧困層に到達する前に、金融危機というブラックホールに捕まるのも道理というものよ。三次元 + 時間という空間は、悪魔が捕まったブラックホールのようなものなのか?

2. 準結晶と余剰次元
準結晶とは、結晶でもなく、アモルファス(非晶質)でもない、第三の固体と言われる物質である。例えば、準結晶でコーティングされたフライパンは、熱を効果的に分散させて焦げ付かない。この不思議な構造は、余剰次元でしか解明されないという。普通の結晶は、原子や分子が対称的な格子状になって一定の基本配列を繰り返す。対して、準結晶は厳密な規則性が欠けているように見える。この不可解な配列を、高次元の結晶構造として捉え3次元に投射すると、対称性を持った秩序ある構造が見えてくるという。まさかフライパンに、こんな高度なテクノロジーが潜んでいたとは...
さて、人類にも進化過程で、1次元しか認識できない、2次元しか認識できない時代があったのだろう。そして、突然変異によって3次元が認識できるようになったのかは知らん。時間を加えれば、4次元空間。ダーウィンの自然淘汰説風に言えば、認識能力は生存競争において育まれてきた。アボット著「フラットランド」風に言えば、2次元空間の生命体には、3次元の物体が近づくと点からだんだ大きな円になっていき、やがて小さくなって点となって消えるように見える。人間が認識できる宇宙とは、そういう存在であろうか。人間社会で生じる危機的現象も突然出現するように見えて、実は、別の次元から近づいてくるだけのことかもかもしれない。自然災害にしても、金融危機にしても、戦争にしても... そして、地球外生命体は、目の前にある危機から避難しようとしない無謀な知的生命体を、地球という天体上に見つけ、滑稽に思っているのかもしれない。命が最も尊いと叫びながら他人を地獄に陥れ、自らも地獄へ向かう自虐な生命体と...
余剰次元とは、認識する必要のない、生活に支障のない次元ということはできるだろう。では、必要に迫られれば、いつの日か5次元空間が認識できるようになるのだろうか?人間社会は、仮想空間を夢想し続ける。その動機が現実逃避だとしても、仮想次元に慣らされていくうちに、もっと高次な認識が育まれるのかもしれない。3Dテレビのように表示システムの多次元化は、今後も進化を続けるだろう。そしてある日、突然変異を果たした高次元人類が出現するのかもしれない。未来社会では、21世紀という時代は認識次元が幼いために仮想貨幣や領土問題などに惑わされて、3次元空間争奪戦を繰り広げていたなどと嘲笑されるのだろうか?いや、所有をめぐって憤慨する性格は変えられそうにない。多次元空間争奪戦ともなれば、もっと凄いことになりそうだ。魂や霊感までも掌握されそうな... ちなみに、行付けの寿司屋の大将の口癖は... 心を握らせてもらいます!

3. 場の量子論と排他原理
素粒子は、固有スピンの性質の違いでボソンとフェルミオンに種別される。具体的には、スピン角運動量の大きさが換算プランク定数(ℏ)の整数倍か、半整数 (1/2, 3/2, 5/2, ...) 倍かの違い。ただし、回転して相互作用をする性質があるだけで、実際には回転していないそうな。実際の物理運動とは無関係に、量子力学上のスピンというものがあるらしい。
パウリの排他原理によれば、同じタイプのフェルミオンが同じ場所に存在することはできない。例えば、同じスピンを持つ電子同士が同じ場所にいられない。そのおかげで、原子は化学反応の基盤となる構造を保てる。対して、ボソンはパウリの排他原理に従わない。この二つの性質が、対称性の破れ、あるいは超対称性の破れの鍵となる。つまり、質量が生じる可能性である。
さて、最初に場の概念を持ち出しだのは、マイケル・ファラデー。そして、マクスウェルが、電荷と電流の分布から電磁場を記述する一連の方程式を導いた。あの有名な四つの一階微分方程式は、場の概念に波動性を結びつける。そのうち二つを組み合わせると、電場か磁場だけを含んだ二階微分方程式が導けるという特徴が、数学の美を醸し出す。
「場と遠隔作用には大きな概念上の違いがある。電磁気学の場の解釈にしたがえば、電荷が空間の別の領域にすぐさま影響を与えることはない。場は適応の時間を必要とする。運動中の電荷は、そのすぐ近くに場を生みだし、そこで生みだされた場が空間全体に広がっていく。物体が遠くの電荷の運動を知るのは、光がそこに届くまでの時間が経っているからである。したがって電場と磁場は、光の有限の速さが許すよりも速くは変わらない。空間のどの時点でも、場が適応を果たすのは、遠い電荷の効果がそこに達するための時間が経過してからである。」
光も電磁場を形成する。ゲージボソンとして最初に持ちだされたのが光子だが、ゲージという用語はなんのことはない。鉄道のレール間の距離を示す「軌間(ゲージ)」を意味し、光子の伝播のイメージと無理やり重ねたところからきているという。他のゲージボソンには、ウィークポゾンとグルーオンがあり、ウィークポゾンは弱い力を伝え、グルーオンは強い力を伝える。
量子電磁気学は、光子の受け渡しが、どのように電磁気力を生み出すかを予言する。二個の電子は、相互作用領域に入ってきて、光子を受け渡した後、伝えられた電磁気力によって定められた径路に進む。ファインマン図は、この相互作用する場を図式化し、図の各部分に数字を当てはめれば運動が記述できるという仕組み。入ってくる電子が光子を放出し、放出された光子が別の電子に向かって進み、電磁気力を伝え終えると消滅する。そして、電磁気力は電荷を帯びた対象に対して引力や斥力が働く。
素粒子というのは、物質というよりはある種のエネルギー状態で、量子場の励起状態と考える方がよさそうである。換言すると、量子場がなんらかの原因で基底状態を保てなくなり、量子固有の離散的な高エネルギーへ移行した状態とでもしておこうか。素粒子をまったく含まない真空では定常場しか生じないが、素粒子の存在する領域では隆起や振動の起こる場が生じる。これが波動性の正体というものか。しかも、電子や光子を生成、消滅させる場は、どこにでも存在するという。そうでないと、あらゆる相互作用が時空のどの点でも生じるようにならない。現実に、真空にもかかわらず電磁波が伝わる。
んー... エーテルを場と言い換えただけのような気もしなくはない。物質的ではないと言えば、そうなのだが。エネルギーの伝播だけで粒子の生成と消滅が説明できるとすれば、物質ってなんなんだ?単なる認識の産物ということか?認識もまた脳内の量子運動から生じ、認識の生成と消滅を繰り返す。量子場における粒子の生成と消滅は、まさに気移りや気まぐれのメカニズムか。しかも、その制御は確率論的ときた!

4. 弱い力と強い力
物理学者たちは、電磁力、強い力、弱い力、重力の四つの相互作用における統一理論を構築することを夢見てきた。現実世界を説明する上で鍵となるのが、弱い力だという。弱い力の効果を生じさせる素粒子はウィークボソン。それは、W+, W-, Z の三種類があって、Wはプラスとマイナスの電荷を帯び、Zは中性。弱い力は、ある種の核崩壊の要因であって、重い元素の生成に寄与するという。また、恒星が輝きを放つためにも不可欠だとか。水素をヘリウムに変える連鎖反応を引き起こし、宇宙を絶え間なく変化させることを手助けするそうな。
電磁気力と弱い力には、いくつか重要な違いがあるという。中でも奇妙なのが、弱い力は右と左を識別し、粒子とその鏡像が互いに異なる振る舞いをする。「パリティ対称性の破れ」というやつだ。パリティが保存されない分かりやすい例は、人体の心臓が左側にあるといったこと。そのメカニズムは、粒子が右回りと左回りのスピン方向を選ぶことによって生じる。
弱い力の作用を受けるのは、左回りの粒子だけだそうな。なんじゃそりゃ?例えば、左回りの電子は弱い力の作用を受けるが、右回りの電子は受けないという。中性子が崩壊する時に現れる電子は、常に左回りだとか。もしかして、左利きやら、左巻きやらも、弱い力の影響なのか?
弱い力の奇妙な特性を他にも紹介してくれる。なんと、ある種類の粒子を別の種類に変えてしまうんだとか。例えば、中性子とウィークポゾンが相互作用すると、陽子が現れることがあるという。光子はどんな種類の粒子と相互作用したところで、電荷を帯びた粒子の最終的な数は変わらない。対して、電荷を帯びたウィークポゾンが中性子や陽子と相互作用すると、単独の中性子が崩壊し、まったく別の粒子に変わる。
とはいえ、中性子と陽子は質量も電荷も違うので、電荷とエネルギーと運動量を保存するには、崩壊時に陽子だけでなく、電子とニュートリノを生成する。いわゆる、ベータ崩壊だ。
ウィークポゾンが質量を持つことが、弱い力の理論を成り立たせるという。ほんのわずかでも質量があれば、非常に短い距離でしか作用を及ばさず、距離が長くなると存在しないほど弱くなることが、物質の存在を可能にするというわけか。その点、光子やグラビトンは質量ゼロ。だから、永遠に力を伝えられる。
一方、強い力は、どんなに遠くても引きつけてしまい、クォークのような粒子が単独で発見されることはない。クォークを陽子と中性子の姿に結合させたり、クォークをジェットの中に閉じ込めたりできるほど強力。めいっぱい離れたクォークと反クォークは、膨大なエネルギーを蓄えることになるので、その間に別のクォークと反クォークを生み出す方が、エネルギー効率がいい。したがって、クォークと反クォークを引き離すと、真空から新たなペアのクォークと反クォークが生まれるという。ほんまかいな?新たな量子が生まれる前に、宇宙空間が消滅するってことはないのか?あるいは、宇宙が階層化されるとか?
尚、無質量粒子という概念は、素粒子物理学では当たり前のように使われる。粒子に質量がなければ、光速で伝播でき、むしろ、質量がゼロでないゲージボソンの方が特異とされるようだ。人間が安定社会を望んだり、官僚体質に陥りやすいのも、質量を持つ物質の特性からきているのだろうか?

5. フレーバー対称性とヒッグス場
対称性は、物理学や数学では美として崇められる神聖な原理だ。場の量子論では、あらゆる粒子の対となる反粒子が想定される。1個のマイナス電荷を持つ電子に対しては、1個のプラス電荷を持つ陽子では質量が大きすぎるので陽電子を置く。反粒子が時間を遡る粒子となることで、時間の非対称性を相殺することができる。対称性は、場の理論において欠かせない調整原理と言えよう。
ただ、素粒子物理学では、ちと違った対称性を考察する。「内部対称性」ってやつだ。内部対称性とは、空間的な対称性とは違い、完全に別個の物体でありながら、同じ物理法則で交換できるということ。ここでは異なる種類の粒子を関連づけ、かなり抽象的な対称変換を与えており、二つの粒子において電荷と質量が同じならば、同じ物理法則に従うと考える。これを記述するのが、「フレーバー対称性」だという。例えば、電子とミューオンは、電荷を帯びた二つのレプトンで電荷が同じ。質量はまったく違うけど。電子とミューオンは、フレーバー対称性に従って同じように振る舞うと考えるらしい。量子の世界では、質量に意味がないとでもいうのか?質量の抽象化とすれば、女性が喜びそうな原理だ。ただし、電子とミューオンはあまりにも質量が違っていて、厳密には同じようには振る舞わないらしいけど...
さて、量子の世界は、非対称性の世界を、いかに対称性の目で見るかという関係性を問う世界のようである。対して、現実世界は、あらゆる対称性の破れから生じるというわけか。自然界に完全な対称性しか存在しなければ、宇宙は存在しないのかもしれない。それこそ、神に御登場を願うこともない。悪魔が登場する舞台に、神がキャスティングされなければ、なんともしまらない。
本書は、質量を獲得するメカニズムとして「ヒッグス機構」を紹介してくれる。ヒッグス機構は、「自発的対称性の破れ」という現象に依存するという。
自発的対称性ってなんだ?ある夕食の席を考えてみよう。大勢が円卓を囲んで、それぞれの席の間に水の入ったグラスが置かれる。各人は右と左のどちらかのグラスをとる。この際、行儀作法はなしだ。一人が左のグラスをとれば、全員が左のグラスをとらなければ、行き渡らない。誰かがグラスを選んだ途端に、右回りか左回りかのスピンが決定されて、対称性が破れることになる。自発的とは、確率論のようなものか。神だってサイコロを振るらしい。なーんだギャンブル好きじゃん!しかも、質量があれば内部対称性を保存しないという。
では、肝心の質量はどこから生じるのか?
質量ゼロのゲージボソンの偏極は二つしかないが、質量のあるゲージボソンの偏極は三つあるという。質量ゼロのゲージボソンは、常に光速で進み、けして静止しない。したがって、運動方向も一つに決まるので、進行方向に垂直な方向意外の並行な偏極と区別できる。実際、物理的な偏極は垂直方向にしか振動しない。一方、質量のあるゲージボソンは、物体と同様に静止できる。そして、静止時に運動が一方向に定まらないという。これを「縦偏極」と呼んでいる。光が横波で音波が縦波だから、音波のような振動も混在するということか。もしかして、縦波と横波の違いが生じるのは、質量が関与するかどうかの違いなのか?
ヒッグス機構は、質量の問題を解決する唯一の方法とされるそうな。ヒッグス粒子が生じるのは、ヒッグス場においてのみ。ただ、ヒッグス機構という用語は多少ルーズなところがあって、様々なモデルが提唱されているらしい。簡単に言うと、こういうことらしい。
「弱い力の対称性を自発的に破って素粒子に質量を与える」
ヒッグス場では、粒子が一切存在しないくせに非ゼロ値をとることができるという。素粒子の起源は、エネルギーが先か?質量が先か?と問えば、卵と鶏の関係に見えてくる。非ゼロ値の場が帯びている荷量は、現実の世界に存在するという。真空中にもウィーク荷の密度が観測されているそうな。非ゼロ値のヒッグス場は、ウィーク荷を宇宙の至る所に分布させているとか。クォークやレプトンがヒッグス場を通過する際、ウィーク荷と衝突することになるが、跳ね返される時に質量を獲得するという。
では、質量ゼロのゲージボソンが通過するとどうなるのだろうか?エネルギー条件によって確率的に質量を帯びる可能性があるというのか?光子が特別扱いされるのは、ウィーク荷を帯びた真空の場から影響を受けないからだという。光子は電磁気力を伝える粒子なので、電荷を帯びたものとしか相互作用しないから。光子は、ヒッグス場においても、完全に質量ゼロでいられる唯一のゲージボソンだそうな。

6. 超対称性とブレーンワールド
超対称性とは、ボソンとフェルミオンをも入れ替える対称変換である。とてもありそうもない組み合わせで、スーパーパートナーと呼んでいる。究極のスワップ関係か。あらゆる価値が、市場を介して貨幣換算されれば、すべてスワップ可能となる。量子場とは、市場のようなものか?
超対称性が存在するかもしれないという理由は、二つあるという。一つは、超ひもで、二つは、超対称性が階層性問題を解決する可能性があること。ひも理論を持ち出せば、究極の構成単位となり、すべてひもで変換できそうな気がしてくる。
とはいえ、超対称性だって破れの問題がつきまとう。ひも理論では、素粒子はひもの共振モードから生じると考え、振動の仕方は多種多様なために何種類もの粒子に見えるとされる。最初は一種類のひもを想定してきが、現在では何種類もあると考えられている。二次元のひもには、大きく二種類の運動がある。端が開いたものと、閉じたもの。超ひも理論がオリジナルよりも優れている点は、スピン1/2の粒子が含まれることで、電子やクォークのようなフェルミオンを記述できる可能性があるという。
超ひも理論の奇妙な特徴は、9次元 + 時間の10次元でしか意味をなさないことで、他の次元では存在してはならない共振モードが現れるという。発生確率がマイナスになるような...
10次元ならば、望ましくないモードが排除されるそうな。そして、余剰次元は認識できないほど微小に巻き上げられていると考える。このコンパクト化モデルに、「カラビ - ヤウ多様体」という数学のテクニックを紹介してくれる。カラビ - ヤウ多様体は超対称性を保存するという。数学では、多様体や多面体を扱う時、双対性という概念を用いる。ここでは、双対性の驚くべき例を紹介してくれる。なんと!10次元超ひも理論と11次元超重力理論が等しいというのだ。
「強く結合した超ひも理論と弱く結合した11次元の超重力理論との双対性により、強く相互作用する10次元超ひも理論のなかの知りたいことは、外面的にまったく異なる理論での計算をすることで、結果的に何でも計算できる。強く相互作用する10次元超ひも理論によって予言されることは、弱く相互作用する11次元超重力理論からすべて導き出せる。その逆も同じだ。」
エドワード・ウィッテンが提唱した「M理論」とは、11次元超重力理論を統一理論として抽象化しようとしたものらしい。しかしながら、双方には不可解な特徴がある。10次元超ひも理論にはひもが含まれているが、11次元超重力理論には含まれない。この謎は、ブレーンを使えば、すっきり説明できるというわけだが...
さらに、「隔離」という概念を持ち込んで、粒子は異なるブレーンに隔離されている可能性があるとしている。
「超対称性の破れの原因となる粒子が標準モデルの粒子から隔離されているモデルでは、粒子を別のフレーバーに変えてしまうような相互作用を導入せずに、超対称性を破ることができる。」
相互作用をするかどうかがブレーンで違うとすれば、カラビ - ヤウ多様体を持ち出すよりもイメージしやすい。しかも、ブレーンは超対称性を適当に保存しながら、たまーに破られるってか?
んー... 個人が認識できるブレーンの数も違いそうな気がしてきた。これが能力差というものか?運動能力には動体視力ってものがあるが、ボールが止まって見える!というのは本当かもしれん。肉体は現実ブレーンを生きるしかない。だが、魂はもうちょっと自由で天国ブレーンにも地獄ブレーンにも行けそうだ。天才たちは自由ブレーンを生き、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いは監獄ブレーンに収容される... ってか。

"銀河の世界" Edwin Powell Hubble 著

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物理学を支えてきた研究者には、二つの相補的な資質がある。それは、理論派と観測派(実験派)だ。科学文献では、理論が主役で観測データは付録のように静かに掲載されるのが、一般的であろうか。エドウィン・ハッブルは自ら観測派に属すと語り、少々悔しさを滲ませる。
しかしながら、双方の資質を厳密に区別することは難しい。理論的な推測なくして、適格な観測は成し得ないのだから。実際、ハッブルは観測による標本収集というアプローチから、銀河の距離と遠ざかる速度の法則を導いた。銀河の放射する赤方偏移は近似的な距離の線形関数である、などという法則性を見抜く眼力こそが秘められた資質と言えよう。
本書は、その立場から理論説明よりもデータ解析が主に置かれる。局部銀河群では、M31、M32、NGC205、M33、NGC6822、IC1613 などの詳細データが紹介され... 書籍版プラネタリウムとでもしておこうか。そして、銀河の分布や構造を論じながら、島宇宙仮説と膨張宇宙説の証拠をつきつける。また、宇宙定数についても言及される。アインシュタインは、せっかく編み出した美しい宇宙方程式に自己の思想観念を埋め込んだために、人生最大の失敗!と言わしめた。権威者が自分の過ちを素直に認めることは難しい。健全な懐疑主義こそが、科学に最も求められる資質であろう。そして、啓発された利己主義ってのも付け加えておこうか...

どんなに理論が優れていようとも、見たまんま!というほど説得力のあるものはあるまい。だが、観測の命は精度にあり、宇宙規模にまで及べば誤差との戦いが宿命づけられる。
研究者たちの精度のこだわりや、道具を駆使する技術的発想は、どこからくるのだろうか?理論家の中には、狂信者のレッテルを貼られたまま世を去った者も少なくない。観測者の中には、結果的に無駄に終わる実験に憑かれて人柱となった者も少なくない。人間自身を知ろうとする執念が、そうさせるのか?まずは、自己存在を強烈に意識させる自己の棲家を知ることだ。
ゲーテは言った、制約の中にのみ巨匠の技が露になると。宇宙の距離梯子は、科学者たちの思考梯子として受け継がれる。観測技術は進化し、信憑性のあるデータは確実に増えていく。もし、ニュートンが今を生きていたら、どんな法則を発見してくれるだろうか?ジョージ・サートンは、こう書いたという。
「現代の聖人は、千年前の聖人より神々しい必要がない。現代の芸術家は、ギリシャ初期の芸術家ほどに偉大である必要もない。実際彼らは劣っていそうだ。そしてもちろん、科学者は昔の科学者より知性的である必要はない。しかし一つだけ確かなことは、科学者の知識は次第により広範になり、同時に正確になっていくということだ。確実な知識の取得と体系化は、人間のみが行える行動で、真に蓄積的で日々進歩するものである。」

ところで、単位系ってやつには、その学問分野の哲学がさりげなく顕れるものだと思う。天文学では、視差(parallax)の観点から生まれた「パーセク」という単位がある。やはり、距離測定の基本は三角法にあろう。比較的近い天体は、地球上の二点による視差や、年周視差によって算出できる。なんといっても、天文学の基礎は掃天観測にあり、統計学と誤差関数の欠かせない世界。この単位だけで、ガリレオから受け継がれる望遠鏡のロマンを感じる。
やがて、遠方の恒星では、光のスペクトルから距離を算出する方法が編み出された。だいたいにおいて恒星は太陽型のスペクトルをもっており、そこに絶対等級との関係が定式化されると、見かけの明るさが距離の二乗に反比例するという法則が利用できる。
さらに遠方の銀河では、セファイド変光星を利用して距離を算出する方法が編み出された。周期的に光度が変化し、宇宙の灯台と呼ばれるやつだ。周期が長いほど明るいという性質が判明すると、周期と絶対等級の関係が定式化され、見かけの明るさと比較しながら距離を推定することができる。
ハッブルの法則は、こうした観測過程から生まれた。彼の主な功績は、ハッブル分類を提唱したこと、セファイド変光星を発見して銀河の距離を測定したこと、そして、銀河の距離と赤方偏移の関係を定式化して宇宙膨張を示したことである。確かに、ここに示される観測データは時代的に古く、銀河までの距離が2倍から5倍ほど短めに示される。だが、宇宙の成り立ちの大枠が変更されたわけではない。本書がその醍醐味を最もよく伝えているのは、理論的な結論よりも観測データから生じる思考過程を大切にしていることである。忘れかけていた技術魂を思い出させてくれるような...

1. ハッブル分類
銀河の大部分は「規則銀河」と呼ばれ、共通パターンは明るい中心核に対して回転対称性を示すこと。対して、「不規則銀河」の方は、数%程度しか存在しないという。そして、規則銀河の構造的特徴を「楕円銀河」,「正常渦巻銀河」,「棒渦巻銀河」の三つに分類する。
とはいえ、見かけの話で、その基準は像の形や明るさの勾配のみ。円に見える銀河だって、本当は球になっているかもしれないし、扁平な銀河なのかもしれない。
まず、扁平率の小さいものから大きなものへと並べ、楕円銀河を左側に置いて右側で二種類の渦巻銀河に分離する。楕円銀河は左から、E0, E1, E2, ... で表され、二種類の渦巻銀河の分岐点は、S0 で表され、続いて、正常渦巻銀河、Sa, Sb, Sc、棒渦巻銀河、SBa, SBb, SBc が配置される。この系列は、銀河の成長過程を示していることが、すぐに想像できる。収縮による回転速度の増加により、扁平率が高くなることが、考慮されているのだろう。その意識は、「初期型」「晩期型」という用語に顕れている。
正常渦巻銀河は、中心核が小さいほど腕がはっきりし、渦巻腕は開いて、しまいには中心核が分からなくなるほど小さくなる。棒渦巻銀河は、外側の領域に同心円上の輪と、中心核の端から端を貫く棒を持つレンズ状の形をしている。ギリシア文字のθのような。そして、中心領域が小さくなるとともに、渦巻きが発達し、星の分布も中心核に集まり、しまいにはS字型となる。二つの渦巻銀河は、最終的に中心領域が小さくなり合流するかのように見える。
不規則銀河にしても、その典型とされるマゼラン銀河などは、晩成型の渦巻銀河に似ているという。そのために、規則銀河の最終段階と見られることもあると。推測の域を出ていないとしながらも。
本質的な現象は、回転対称性を持たないことよりも、中心核がないことの方かもしれない。中心核がないから必然的に回転対称性が持てない、という見方もできそうだから。
「銀河の形の研究は、銀河が強い関係を持った単一の種族を構成しているという結論を導いた。それらは限られた領域に沿って系統的に変化する基本的なパターンを形づくっている。銀河は、形についての規則的な系列を自然に作り、その性質は系列上の標準銀河に縮約される。」
恒星の構造にしても、規模の違いはあれど、太陽型スペクトルでほぼ近似できるようだし、宇宙における物質のあり方は、それほど多様ではないということか。これが自然の摂理というものか。恒星が一度天体を形成すると、ほとんど衝突せず、銀河の重力体系の一員として振る舞う。衝突しなければ、熱エネルギーも極度に減少することはない。この奇跡の調和力は、ダークマターの仕業であろうか?いや、ダースベイダーの野郎に違いない...

2. 銀河の分布
天の川銀河の吸収、散乱物質による見かけの分布を議論している様子は圧巻!当初、銀河が天の川銀河を避けるように分布することが、研究者を悩ませてきたという。仮想的な万有反発力を唱えた研究者もいたとか。
ハッブルは、銀河面に集中して吸収、散乱物質が存在し、低銀緯ほど視界が悪くなることを指摘している。暗黒星雲は、天の川の帯に沿って分布し、天の川銀河の中心核方向に多くあるという。そして、吸収、散乱物質には二種類あるとしている。一つは、暗黒星雲中の塵によるもの。塵による散乱は青い光を吸収し、星の色が全般的に赤く見える。二つは、銀河面に一様に広がる成分で、高温ガス中にある自由電子のトムソン散乱だと考えられている。高温ガスは、ほぼ一定の厚さで銀河円盤内に満ちている。したがって、天体の分布を考察するには、天の川銀河の吸収効果を補正する必要があるというわけだ。
また、小さな銀河の分布は不規則で、大きな銀河の分布は近似的に一様であるとしている。分布の勾配が見つからず、どの方向の観測領域でも、ほぼ同じであると。ただ、この時代では、銀河の規模も限定的とされ、銀河団までの言及はあるが、超銀河団の記述は見当たらない。

3. 銀河の距離
宇宙の距離梯子は、望遠鏡の進化の歴史を如実に物語っている。それは、見かけの明るさの標本集めから始まり、やがて、赤方偏移が距離の一次関数であることが定式化される。
1924年、ハッブルはアンドロメダ銀河の中に、セファイド変光星を発見した。当時、アンドロメダ星雲と呼ばれ、銀河が恒星の集団であるということが、あまり認知されていなかったようである。
さて、天文学には、「H.R(ヘルツシュプルング・ラッセル)図」で示されるように、光スペクトルと絶対等級に重要な関係がある。絶対等級が分かれば、見かけの明るさが距離の二乗に反比例することから算出できるという仕掛けだ。恒星の場合、恒星の発するスペクトルが分れば、絶対等級が推定できる。
対して、銀河の場合は、セファイド変光星の周期と光度の関係を利用する。セファイド変光星は、変光周期が長いほど絶対等級が明るいという性質を持っている。銀河の中にセファイド変光星が見つかれば、その絶対等級から距離が推定できるという仕掛けだ。
「セファイド変光星で距離が決められた銀河の中の最も明るい星は、その絶対光度は天の川銀河の内の最も明るい星と同程度であるという事実が、この結果に整合性をさらに与えている。」

4. 赤方偏移による速度と距離の校正
当然ながら、それぞれの銀河は質量も違えば、大きさも違うし、光度も違う。測定対象によって補正を加える必要がある。ハッブルの法則におけるハッブル定数が、その役割を果たす。本書では、赤方偏移による見かけの明るさを補正する事例が紹介される。
例えば、次式は見かけの等級 mcに対して、⊿m0は赤方偏移の効果を表している。

  mc = m0 - ⊿m0

赤方偏移の効果は速度が速いほど増加するが、偏移が3000マイル/秒以上になるまでは重要でないとしている。
また、速度の対数 v と見かけの等級 mcの相関が、次式の形で考察される。

  log v = 0.2mc + 補正値

尚、補正値は、銀河や銀河団で値を変えている。速度は、赤方偏移に光速をかけたもの。そして、距離の対数 d の校正が次式で示される。ただし、Mは絶対等級。

  log d = 0.2(mc - M) + 1.513

しかし、このままでは、あまり抽象度を感じない。速度が生じるということは時間に関係するので、ハッブル定数を時間の関数とすれば、もっとシンプルに記述できるだろう。
無数の銀河が一様に分布しながら赤方偏移しているということは、膨張宇宙説の強力な裏付けとされる。速度が対数で表されるということは、指数関数的に遠ざかっていることを示している。天文学がいくら進化しても、宇宙の果てに追いつけそうな気がしない。そして、人間がやりがちな、膨張の中心はどこにあるのか?なんて議論も虚しく映る。
「天文学の歴史は地平線の後退の歴史である。」

"不思議宇宙のトムキンス" George Gamow, Russell Stannard 著

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懐かしやトムキンス!物理学を専攻した者で、トムキンス冒険物語の存在を知らぬ者はいないだろう。たとえ読んだことがなくても... 定常宇宙説と膨張宇宙説の論争が旺盛な時代、物理学者ジョージ・ガモフは、時空の歪曲や膨張宇宙といった難解な物語を、初心者向けに書き下ろした。近年、この手の科学啓蒙書は当たり前のように書かれ、おいらも学生時代、ブルーバックス教の信者であった。しかし、その先駆者の存在感は衰えるどころか、むしろ輝きを増してやがる。
本書は、ラッセル・スタナードによる新版で、時代に即してオリジナル版からかなり改訂されている。尚、主人公C.G.H.トムキンスは物理学に興味を持つ平凡な銀行員、イニシャルは光速c, 重力g, プランク定数hに由来する。

さて、相対性理論に触れると、最初にぶつかる疑問がこれであろうか。すべての運動が相対的と言っておきながら、光速だけは絶対速度とは、これいかに?やはり神は存在するのか?なぁーに、心配はいらない!光速が不変ならば、時間や空間の方を可変にすればいい。神だって、ご都合主義よ。
人間は、3次元 + 時間という認識空間を生きている。だが、時間次元だけは明らかに異質だ。こいつだけは逆戻りできない。これを説明するために、アインシュタインは時間と空間を区別しない時空という概念を持ちだした。時間と空間は光速に対して数学的に対称性がある、ということにすれば、双方を入れ替えても物理法則が成り立つという寸法よ。そもそも時間が一定などというのは疑わしい。心地よい事は瞬く間に過ぎ去るくせに、忌わしい事はいつまでも居座ってやがる。死に際には走馬灯を見ると言うではないか。時計なんぞで一定に刻まれるとするから、時間依存症で苛む。
人間が何かを認識するには、なんらかの比較の対象を必要とし、その対象を一時的にスタックする機能が求められる。格納された情報は前後関係で結びつけられ、情報を取り出す順番が時の流れを作る。これが記憶のメカニズムだ。人間ってやつは、事象をなんらかの関係で結び付けないと、思考することすらできない。つまり、時間なんてものは、関係によってもたらされる概念であって、認識の産物に過ぎないとでもしておこうか。物事を時系列で秩序立てると、自己存在の瞬間が確認できて、心が落ち着くわけだ。ならば、何も認識しなければ、人間は自然物のままでいられるのか?と問うても、そんなことは知らん。ただ言えることは、質量を持つものはみな、相対性に幽閉された存在だということぐらいであろうか...

まさに、ニュートン力学は質量を持った物体を対象とする。この世界においては、空間と時間は完全に独立した物理量で定義され、すべての運動は時間の関数で記述される。つまり、あらゆる現象は連続性で説明できるという仕掛けだ。対して、量子力学では質量ゼロの素粒子が登場しやがる。光子やら電子やらがそれで、宇宙空間を自由に飛び回ることができる。電子が気の毒なのは、原子核に縛られることである。いや、M性が病みつきになって、自ら自由を放棄したのかもしれん。もともと自由電子と呼ばれたはずだが...
量子の存在は統計的にしか扱えない。不確定性原理は、位置と運動量といった同時に二つの物理量を決定できないという制約を課す。光が絶対速度で決定されるなら、光子の位置ぐらい決定できそうなものだが、そうもいかないらしい。素粒子などと呼んでいるが、本当に粒子なのか?質量もなければ、まるで霊感のような存在。人体が量子で構成されるからには、霊感の強いヤツがいても不思議はあるまい。
また、アインシュタインのあの有名な公式は、エネルギーと質量の等価性を示している。つまり、無から物質を作ることはできないが、エネルギーからは物質を作ることができると言っているのだ。おまけに、エネルギー状態への移行は、プランク定数の定義で離散的にしか行えないことになっている。つまり、宇宙空間のどこでも、何かが突然湧いて出るかもしれないと言っているのだ。物心がつくとは、そんな状態であろうか?実存観念の本質とは、物質よりもエネルギーの方にあるのかもしれん...

1. 同時性の問題
特殊相対性理論は、一様で一定の運動をする系における、時間と空間の関係を論じている。すなわち、等速運動を唱えている。一般相対性理論は、これに重力の作用を加えて抽象度をあげている。すなわち、重力場と加速度運動との等価性を唱えている。重力場とは、空間が曲がっていることの物理的現れであり、その曲率は光線の曲がり具合を観察すればいい。絶対速度が歪めば、時間も歪む。つまり、二点における時間差は、双方の重力ポテンシャルの差で決まることになる。太陽表面上の出来事は、重力ポテンシャルの違いにより、地球表面上よりもゆっくりと進行するだろう。象さんのように体重が大きくて動作が鈍そうに見えても、時間の長さは同じように感じているのかもしれん。
さて、絶対速度が存在するとは、何を意味するだろうか?光速を超えられないとすれば、宇宙現象の同時性なんぞに意味がないということか?少なくとも時間に幽閉された生命体には、そんな気がする。そもそも運動しているかどうかなど、どうでもいいのでは?いくら生に意義を求めてもいずれ無に帰するし、どんなに足掻いても絶対静止には敵わんよ。しかし、生に意義を求めなければ、人生なんて退屈でしょうがない。なるほど、暇つぶしに意義を与えるとは、絶対速度恐るべし!
宇宙年齢が計測できるのも、絶対速度のおかげである。ビッグバン宇宙論が正しければ、絶対速度を物差しとしながら宇宙の果てから届く光を観測すればいい。観測するということは、認識するということ。もし、完全な同時性が成立すれば、宇宙年齡どころか、自分の年齡すら認識できないかもしれない。
しかし、同時性が成立すれば、後悔せずに済みそうな気もする。何事を知るにも、直接経験しない限り、事後報告によってもたらされるのだから。実際、人間社会では既成事実を作った者が勝つ。事実よりも風説流布の方が、はるかに波動エネルギーは巨大だ。光速を絶対速度に崇めれば、それが神となりうるだろうか?いや、いつも一緒だよ!なんて神の前で誓っても当てにはならない。人間社会にとって、絶対的な同時性なんてものは邪魔な存在かもしれん。あるいは、同時性という自由を放棄したからこそ、認識能力というものが成り立つのかもしれん。

2. マクスウェルの魔物
第一種永久機関は、外部からエネルギーを受けることなく、仕事を外部に取り出す機関で、エネルギー保存則に矛盾して実現できないとされる。
一方、第二種永久機関は、何もないところからエネルギーを取り出すのではなく、大地や海や大気といった周囲の熱源からエネルギーを取り出すので、理論的にはイケそうな気もしなくはない。例えば、石油や石炭を燃やす代わりに、水から熱を取り出すといったことが。とはいえ、冷たいものから熱いものへ自然に熱が移動するのも考えにくい。案の定、量子力学は、確率が思いっきり低いというだけで、不可能とまでは言わない。それが、マクスウェルの悪魔ってやつだ。本書は「魔物」と呼んでいるが、物語にはこちらの方がしっくりくる。
個々の分子を観察すると、中にはすばしこいヤツがいる。運動方向を自在に変えられるような。熱力学の第二法則、すなわちエントロピーの法則に逆らうようなヤツが、原子や分子レベルで確率的に存在する可能性がないと言い切れるか?という問題提起である。この魔物にかかれば、瞬間的に熱を移動させ、平坦なところにも温度勾配を作ることだってできるかもしれない。宇宙が138億年も存在してきたなら、そんな現象が一度ぐらいあっても不思議ではあるまい。
なるほど、市場原理は、しばしばエントロピーの呪縛を破って、ブラックホールに吸収される。魔物を見たければ、メフィストフェレスがうようよしてそうな人間社会を観察すればよかろう。そういえば、目の前のウィスキーがいつの間にか無くなっている。突然、魔物が蒸発熱を発したからに違いない。

3. M性な電子たち
「偉大なる建築家ニールス・ボーアが建立(こんりゅう)された美しき原子構造の内部には、さまざまな量子部屋がありましてな、遊び好きの電子たちをそれぞれの部屋に正しく住まわせておくことがわたしの務めというわけです。秩序と規律を保つために、同じ軌道には二つの電子しか飛ぶことを許しておりません。三角関係はトラブルのもとですからな。おたがいに逆のスピンをするもの同士がカップルになっているのがおわかりでしょう。性格が正反対の夫婦のようなものですな。部屋がそうしたカップルで占められてしまえば、第三者の乱入は許されません。これは良くできたルールでして、破られたことはただの一度もありません。電子たちも、これが健全なルールだということはわかってくれているのです。」
良くできたルールかもしれんが、自由を謳歌したい者には甚だ迷惑!一般的に、電子殻にはエネルギー準位の低い方から、K殻, L殻, M殻, ... という居場所が用意されている。ナトリウム原子の価電子となったからには、運命を受け入れるしかない。ナトリウム原子核は、電子を11個抱えており、そこに塩素原子が近づくと、M殻に空きを見つけて穴を埋める。そう、心の隙間を埋めるのだ。電子が不足して原子核がカッカしてくれば、マイナスイオンのひとときを差し上げますわ!って。M性同士がM殻で同居するとは、よくできたものよ。
しかも、パウリの排他原理によって、一つの軌道に同じスピン状態の電子が同居できないときた。M性のくせしやがって、独占欲だけは強い。原子核が負担になる余分な電子を抱えれば、移り気が激しく精神が不安定となる。電子はいつも安定社会への引っ越しを求め、数千個に及ぶ原子が結合したりする。中にはDNAってヤツも居て、昔の思い出に縋りながら必至に忘れまいと、二重螺旋構造というバックアップ機構まで具えてやがる。男性諸君もまた女王様を囲む電子のような存在よ。どうりで、簡単には楕円軌道から逃れられないわけだ。だが、心配はいらない。強烈なオーラを放射する小悪魔が近づけば、簡単にスピンアウトできる。ただ、結婚は恐ろしい!と経験者は愚痴っている。法律という紙切れ一つで、生涯の軌道が運命づけると聞いた。
ところで、電子の寿命は永遠ではないらしい。突然消滅したり。物質とは、役目を終えれば果敢ないものよ。光子にしても光を伝え終えれば消滅する。電子の死は、衝突によって生じるという。問題は衝突の激しさではなく、衝突する相手だ。負電荷を持つ者同士であれば問題ないが、中には正電荷を持つヤツがいる。陽電子ってやつだ。ポジトロンなんてニックネームがあるが、まったくポジティブに見えない。普段は粒子として振る舞いながら、電子と出会った途端に「対消滅」を起こす。無理心中か!同じ電子同士だと思って油断していると、えらい目にあう。合体でもしようものなら身の破滅よ。

4. 素粒子はどこまで素粒子なのか?
物質はこれ以上分割できない基本要素から構成されるという考え方は、古代ギリシアの哲学者デモクリトスまで遡る。atomには、ギリシア語で「分割できないもの」という意味がある。また、物理学では、同じ原子構造を持ちながらアイソトープ(同位体)で区別する。原子核における陽子の数が同じでも、中性子の数が違えば質量も違ってくるので、もっともな見方である。
「中性子だけで置いておくと、たしかに不安定なんじゃがの。原子核内にきっちりと詰め込んで周囲を他の粒子で固めておけば、きゃつらもずいぶん安定するんじゃよ。それもまあ、原子核内の陽子の数にくらべて中性子の数が多すぎなければの話じゃが。もしそうなると、中性子は余分な塗料をマイナス電荷の電子として原子核外に放出して陽子に変わってしまうんじゃ。同様に、陽子の数が多すぎる場合には、陽子は余分な塗料をプラス電荷の電子として放出し、中性子に変わってしまう。こうした調節を、わしらはベータ崩壊と呼んどるんじゃがの。ベータというのはこうした放射性崩壊によって放出される電子につけられた古い呼び名じゃ。」
宇宙は広大なのだから、なにも原子核なんてちっぽけな住まいに、ひしめき合わなくてもいいのに。質量あるものは、満員電車を好むらしい。
さらに、陽子や中性子を構成する物質にクォークが発見されると、アイソスピンという回転の仕方で種別される。本当にスピンしているのかも疑わしいが、物理的にスピンしているような性質を持っているということであろうか。少なくとも、量子状態として見ることはできそうである。この状態を「フレーバー(香り)」と呼び、アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トップ、ボトムの6種類で区別される。なぜ香り(flavor)と言うかは知らんが、気配のようなものであろうか?霊感のような...
ただ、すべてに物質が、クォークからできているわけではない。クォークからできているのは重粒子と中間子で、ハドロンと呼ばれるやつ。ハドロンは強い核力を感じるが、軽粒子と呼ばれるレプトンは感じないという。レプトンもスピンの仕方で種別される。
ところで、スピンのパターンには、驚くべき対称性の法則がある。
「自然界にはSU(3)の対称性が成り立っている」
数学には、対称性を観察するのに、群論という便利な道具がある。中でも角運動量にピッタリなのが、ユニタリってやつだ。数学オンチは、こいつで随分と悩まされてきたのだが...
SU(Special Unitary)群とはユニタリ群の部分群で、(3)とは3回転対称性を表す。つまり、±1/3(120度)、±2/3(240度)、±1(360度)で同じ状態になることを意味する。そして、アップクォーク(u)とダウンクォーク(d)で構成される陽子は(u, u, d)、中性子は(u, d, d)と表記される。スピン状態が離散的であるのは、電子軌道が離散的であるのと同様に、プランクエネルギーの介在を想像させる。もっと言うと、スピン状態の離散性が、量子コンピュータの記憶素子としての可能性を匂わせるわけだ。ただ、状態遷移ではかなりのエネルギーを消費するだろう。量子の世界では、なにかと「ポテンシャル障壁」と呼ばれるエネルギー障壁がつきまとう。
また、人間の対称性への思いは、留まるところを知らない。粒子には必ず対となる反粒子が存在するとされる。質量とスピンを同じとし、電荷を逆転させて存在を相殺させるわけだ。粒子と反粒子が衝突すれば、エネルギー保存則に矛盾なく、丸く収まるという寸法よ。こんな仕掛けで、質量の存在を説明できるのかは知らん。確かに、反粒子だけ消滅すれば、質量が残りそうな気がするが、反粒子の方が残るってことはないのか?いや、あるだろう。人間の認識空間に見当たらないだけで。いずれにせよ、素粒子レベルともなると、スピンの仕方の違いだけで物質の存在を抽象化できてしまう。
さらに、話題が超ひも理論にまで及ぶと、物質の存在は単なる振動でしかないってか。いくら人間の個性や人間社会の多様性を強調したとこで、しょぼい存在よ。人間ってやつは、ヒモという背後霊に憑かれた存在というだけのことかもしれん。社会がヒモになり、組織がヒモになり、家族がヒモになるとなれば、女のヒモになるのを夢見る男性諸君で溢れてやがる...

"解読! アルキメデス写本" William Noel & Reviel Netz 著

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TED.comを散歩していると、ウィリアム・ノエルという人物の講演を見かけた。それは、アルキメデスの写本に関するもの。アルキメデスの偉大な著作群は辛うじて三つの写本によって伝えられ、学術的に、A写本、B写本、C写本と呼ばれる。A写本とB写本は、ダ・ヴィンチやガリレオといったルネサンス時代の巨匠たちの目にも触れたようである。
しかし、この二冊は姿を消した。B写本は、1311年ローマ北のヴィテルボ市の教皇図書館で確認されたっきり、A写本は、1564年イタリアのとある人文主義者の蔵書として記載されていたのが最後だそうな。
そして、歴史の舞台に新たに登場したのが、C写本。1906年ヨハン・ルーズヴィー・ハイベアによって見出された。アルキメデスの「パリンプセスト」と呼ばれるヤツだ。ハイベアという名はユークリッドの「原論」でも見かけたが、ギリシア数学のほとんどの文献を校訂した人物。1988年、ニューヨークでクリスティーズの競売にかけられ時には、ハイベアがほぼ解読済で新たな発見はないだろうと目されていたようである。220万ドルで落札した匿名の人物は、引退しつつあるIT長者で「ミスター・B」という名で紹介される。ちなみに、ビル・ゲイツではないらしい。なぜかホッ!
早々、ウォルターズ美術館の学芸員ノエルが代理人を通じて接触すると、この大富豪も学術調査を依頼するつもりだったらしく、大乗り気だったという。しかも、惜しみなく資金を提供したとか。多くの偉大な著作が、政治的思惑や宗教的活動によって抹殺されてきたというのに、歴史の役割をよく心得た方の手元に渡るのは幸運この上ない。
ノエルは、まずスタンフォード大学のギリシア数学研究者リヴィエル・ネッツを迎え、世界中から様々な分野の専門家を動員し、解読プロジェクトを結成する。だが、20世紀の研究者たちは薬品を使いまくり、既に状態は最悪。21世紀の光学技術、情報工学、画像処理アルゴリズムなどを駆使することに。本書は、プロジェクトの視点からノエルが、数学の視点からネッツが、章ごとに交互に綴る冒険物語である。一つの目的のために結集する様子は、これぞプロ集団!ボランティアの真髄を感じずにはいられない...

尚、アルキメデスのパリンプセストについては、一年前にも記事にした。斎藤憲著「よみがえる天才アルキメデス」で。立ち読みしていると、飄々とした文面と妙に波長が合い、つい買ってしまったことを覚えている。本書でもケンと呼ばれ、当代きっての数学史家の一人として紹介される。これほどの権威者だったとは知らなんだ。改めて座り直し、心して読み直さなければ...
そもそも、世界中のギリシア数学研究者は20数人ぐらいしかいないそうな。業界で認められた人物という意味であろうが。この分野では、現代西洋語はもちろんギリシア語やラテン語といった古代語まで造詣の深さが求められる。おまけに、歴史の意義を知り、数学の専門知識を要するとなれば、数が絞られるのも当然であろう。斎藤氏は本書の解説も手がけており、照れくさそうに語る文面が、またいい...

さて、アルキメデスの功績は枚挙にいとまがない。
まずは、重心の意義について綴ってみよう...
長らく古代人たちを悩ませてきた問題に、重力の謎がある。地上の物体が地面に落ちるのに、星々は落ちてこない。それどころか、天空で永遠に円軌道を描いてやがる。大地には、何か隠れ住んでいるヤツがいて、落ちるものを選りすぐっているとでも?哲学は大地と対話し、天文学は天空に問いかけ、数学は神の仕業を説明する道具とされた。
しかしながら、アルキメデスの数学は異質だ。神の仕業を問うどころか、人間の実用的な道具とした。アルキメデスがシラクサの戦いで用いた投石機は、ローマ軍の度肝を抜いた。投石機の原理はもっと古くからあったが、ローマ軍が面食らったのは、正確な照準と射程調整にあったという。まさに応用数学の威力というわけだ。人間が地上で実用的な科学をもたらすには、重力と対話しなければならない。アルキメデスの功績の中心は、重力をめぐってのものと言ってもいいだろう。
そこで、三角形の重心が基本的な思考を組み立てる。あらゆる図形は、三角形で分割できる。曲線も、底辺と高さという属性を持った丸みと捉えれば、永遠に三角形で埋め尽くせる。そして、一つの三角形の重心が求まれば、これらの総和によってどんな図形でも、重力と釣り合う点が得られるという寸法よ。ここには造船技術の基礎がある。有限総和の思考こそが無限数学の扉を開き、無限数学こそが実世界を記述する応用数学へと導く。
さらに、円錐の意義についても綴ってみよう...
円錐に魔力を感じる人も少なくないだろう。一点から全世界を見下ろす、神の視界のようなものを感じないではない。ここにはすべての世界が内包されている。切り口次第で、真円にも、楕円にも、放物線にもなり、円も、円柱も、球もすべて円錐からの派生形という見方ができよう。やはり、宇宙は曲率に支配されているようだ。アルキメデスもまた、この魔力に憑かれた一人だったに違いない。その証拠に、あらゆる曲線を含んだ図形の求積を試みている。アルキメデス以前の数学者たちは、あまりに真円を崇め過ぎたために実世界を記述することが苦手だった。だが、世界はちょっと歪んでいるとした方が人間には居心地がよい。アルキメデスは、数学を信仰から解放し、科学の道を切り開いた、究極の現実主義者と言えるかもしれない。円周率をπなどと理想化するより、3.1415... とした方がずっと現実的なのだ。
それにしても、科学や数学の偉大な古典が、科学の光学技術と数学のアルゴリズムで甦るとは。アルゴリズムとは、コンピューティングによって定式化した算法を繰り返して解を求めることであり、まさにアルキメデスのやった可能な限り三角形を詰めて近似するのと同じ思考法だ。アルキメデスの知識もまたアルキメデスの知識によって甦る。すべては、アルキメデスによって仕組まれていたのだろうか。人類は、自ら編み出した謎掛けを自ら解き明かすような、いわば、自己循環の宿命を背負わされているのだろうか...

1. 失われてきた偉大な書群
アテネ大主教の弟ニキタス・ホニアテスは、1204年に起きた大虐殺の光景を書き残しているという。エルサレム解放へ向かうはずの第4回十字軍は、その使命を忘れ、栄華を誇る都市コンスタンティノープルを襲った。聖地パレスチナへ向かうはずだったが、問題はどうやってエジプトへ渡るか?船団はヴェネチア総督が用意したが、十字軍は資金不足。ヴェネチアのために属領を略奪したり、行きがかり上コンスタンティノープルのカトリック教への改宗を約束したりで、余計な残虐行為に及ぶ。コンスタンティヌス帝によって築かれた町は、古代知識の最後の砦であったのだが...
こうした光景は、女性数学者ヒュパティアの運命を思い浮かべる。映画「アレクサンドリア」の主人公だ。アレクサンドリア図書館といえば、古代知識の中心。彼女もまたアルキメデスの知識に触れる幸運に恵まれたことだろう。しかし415年、八つ裂きにされた。彼女の書き記した知識は、現代人の目に触れることはできない。ギリシアの叡智は、ローマ・カトリックにとって異教徒の知識。その古典の多くは不適切とされた。
とはいえ、修辞学のためのホメロスや幾何学のためのユークリッドなどの価値は認めた。アルキメデスの数学は実践的な科学であって、神を記述しようとしたものではない。そのために興味も薄かったのだろう。写字生たちはキリスト教典を書き写すのに大忙し。満遍なく古典を書き写したのが、唯一コンスタンティノープルだったという。
真の価値を見出だせる権威者が一人いると、その時代は救われる。アルキメデスの知識がどういう経緯で生き残ってきたかは分からない。A写本とB写本は、ヴァチカンに流れ着く。ダ・ヴィンチもガリレオも、はるか昔、自分を超えた数学者がいたことに驚かされたことだろう。
一方、パリンプセストが発見された地は、、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の修道院だった。ただ誤解がないように、こいつは祈祷書だ。なんの祈祷書かは、この際どうでもええ。尚、パリンプセストとは、ギリシア語のpalin(再び)と、psan(こする)から派生した語だという。文字を上書きするために羊皮の表面が削られ、何度も再利用される。当時、パピルスよりも長持ちする山羊皮紙が用いられる。現在でも、長期間残したい証明書や表彰状などは、羊皮紙が使われることがあると聞く。アルキメデスの知識を見るということは、この祈祷書の下に眠るインクを叩き起こすということである。
ちなみに、羊皮紙は、小アジアのペルガモンで発明されたと言われている。国王エウメネス2世がアレクサンドリアに比肩する図書館を作ろうとしたために、紀元前2世紀の初め、プトレマイオス朝はエジプトからのパピルスの輸出を禁止したという。辛うじて、山羊皮によって偉大な知識が伝播されたということらしい。
そして、結果的に一個人の手元へ渡ることに。ノエルは、落札者の考えを代弁している。
「アルキメデスのパリンプセストが落札されたとき、写本が個人の所有物に返ることに憤慨する研究者もいた。しかし、アルキメデスが公のものとして価値があるなら、公の学術研究機関が競り落としたはずだ。そこまでの価値があるとは見なされなかったのである。公の機関は実際に競売で落札された額よりも低い価格を提示し、弾かれた。それが恥ずべきことだと考える人は、あまんじて恥を受け入れるほかない。わたしたちは価値を金額で量る世界に暮らしている。世界的遺産の行く末を案じて政治的にどうこう言いたいのなら、申し訳ないがそれなりの金を出すつもりでどうぞ、というわけだ。」

2. アルキメデスの人物像
古代における第二次ポエニ戦争は、現代における第二次世界大戦になぞらえられる。科学の進化は、皮肉にも歴史に深い傷跡を残してきた。第二次大戦でアインシュタインの科学が原爆を生んだように、第二次ポエニ戦争ではアルキメデスの応用数学が強力な兵器を生んだ、という見方もできるかもしれない。一時、ハンニバルがローマを征服したかに見えたが、ローマは危機を乗り越え、終戦時には地中海全体を制圧する。シラクサの戦いではアルキメデスの知識が活躍するものの、カルタゴと手を結んだために陥落し、ギリシアの都市国家群は自治を奪われる。アルキメデスは、そんな時代を生きた。
さて、アルキメデスという名は非常に珍しく、しかも、奇妙なほど相応しい名だという。ギリシャ語で、原理、規則、最高を意味する「arche (アルケー)」と、知性、英知、機知を意味する「medos(メードス)」からなる。似たような系統に、デイオメデスという名もあるらしい。「dio(ディオ)」はゼウスの異形だとか。
アルキメデスの人物像は、著作「螺旋について」の序文に顕れるという。その序文は数学者仲間ドシテオスに宛てた手紙になっているとか。しかも、アレクサンドリア図書館宛てに、わざと間違った定理を送っているらしい。そのことから、本書は、温厚な人柄でもなければ生真面目でもなく、いたずら好きで狡猾だったと評している。糞真面目な科学者らしくないというわけだ。
しかし、シラクサはアレクサンドリアから見ればド田舎。研究者の熱意は、孤独と矜持によって支えられるところがある。あるいは、少しぐらい妬みもあったかもしれない。なによりも、科学では子供心が大切だ。これを狡猾と言うのはどうだろうか?
また、著作のなかで、エウドクソスに二度の賛辞を送っているという。エウドクソスを最も偉大な先達と考えていたようだ。ユークリッドの方は主に基礎数学を扱っていたので、それほど高く評価していなかったようである。アルキメデスの哲学には、実践してなんぼ... というのがあるのかもしれん。

3. 史上初の組合せ論?
アルキメデスの遊び心がよく顕れている著作といえば、「ストマキオン」であろう。ストマキオンとは腹痛の意味で、腹が痛くなるほど難しい問題というわけだ。彼は、このパズルで何をしようとしたのか?
本書の解釈はこうだ。決められた十四片で何通りの正方形が作れるかを計算しようとしたのではないか。つまり、人類史上初の「組み合せ論」というわけである。組み合わせという概念は、直感的に分かりやすいが、要素数がちょっと増えるだけで指数関数的にパターンが増える。しかも答えを求める近道があまりない。確率論の先駆けという見方もできそうか。しかし、数字の組み合わせだけならまだしも、図形の組み合わせとなると反転や回転といった作用まで加わり、極端に複雑化する。そして、群論的な思考が求められる。実際、この組み合わせは、17,152通りにもなるという。
「ニュートン科学はきまじめだ。アルキメデスの科学はちがう。アルキメデスは、引っかけや謎掛けやまわり道で知られていた。これは表面的な論述の特徴ではなく、アルキメデス自身の科学的な個性を表している。科学は... 数学は... 人間味のない無味乾燥なものではない。想像力を自由にめぐらせることのできる場だ。アルキメデスも想像力をめぐらせて、ストマキオンと呼ばれる子供の遊びを思いついた。ストマキオンとは、"腹痛"の意味で、十四片を並べ換えて正方形にするタングラム(知恵の板)を言う。アルキメデスは、このパズルにどんな数学が隠されているだろうと考えた。」
同じく遊び心を誘うものに、ホメロス著「オデュッセイア」に因んだ「ヘリオスの牛の問題」がある。オデュッセウスの部下たちは、ヘリオス神に捧げられたトリナキエ島に上陸する。彼らは、オデュッセウスの忠告を聞かず、ヘリオスの牛を殺して七日間も派手に食いまくったために、恐ろしい罰を受ける。この島は昔からシケリア島とされ、ちょっかいをかけない方がいいという警告の物語にも作り換えられたとか。
ちなみに、現在のシチリア島はマフィアの町というイメージがあるが、映画の見過ぎであろうか?
それはさておき、アルキメデスは、計算問題に詩を綴る。黒、白、黄、まだらの四つの群れを、それぞれ牡牛と牝牛に分け、8つの未知数からなる7つの方程式と、2つの追加方程式からなる算術問題をこしらえた。最小の解でも、20万桁を超える。無限数学を思考できるほどの知識があれば、組合せ論ぐらい編み出すことができるかもしれんが...

4. 異質な「方法」の命題14
「方法」の序文には、挑戦的な言葉が綴られるという。
「偉大な数学者のあなたなら、わたしの方法に真の評価をくだせるでしょう...」
ギリシア数学は、厳密性を崇めるがゆえに、パラドックスを避け、無限の落とし穴までも避けてきた。そもそも無理数を忌み嫌う。円周率が無理数だというのに。
本書は、数を好きなだけ大きくしたり小さくしたりすることを「可能無限」と呼び、実無限と区別している。無限の抽象化は、ガリレオやニュートンらによって進められた。だが、代償もある。無限にはパラドックスがつきもの。数学は、強力にはなったが、昔ほど厳密ではなくなった。
古代ギリシア数学は、都合のよい範囲で、無限と戯れていたと考えられてきた。命題1から13には無限個の線分の足しあわせが記述されるが、物理イメージできるような実世界的な思考が見られる。
対して、命題14は違うようである。物理学との組み合わせに頼るのではなく、無限和だけを拠り所にしているという。純粋数学だけで無限を扱っているらしい。尚、ハイベアは命題14を解読できなかったという。
命題14では、円柱の切片の体積を求めようとしている。その図形は奇妙な爪形をしている。正方形を底面とする角柱とこれに内接する円柱において、下底面の直径と上底面の一辺を通る斜めの平面で円柱を切断する。すると、その切片は、半円、半楕円、円柱の側面に囲まれた爪形に切り取られる。しかも、この問題を一般化して、あらゆる平行六面体に当てはめているという。


ここで紹介される思考方法は、実に興味深い。まず、立方体の垂直面に平行な任意の平面を考え、この爪形の図形に対して、縦にスライスする。まるでCTスキャンのように。そして、任意の切り口でスライスした平面を足し合わせるという考え方だ。結論は、円柱の切片の体積が、それを囲む立法体の 1/6 になるとしている。どうやって、この結論に達したのだろうか?ただの直感であろうか?
爪形の図形を縦にスライスすると、底辺と高さが連続に変化していく三角形の集合となる。この様子を上から眺めると、放物線、すなわち半円の内接する長方形を横切る線分でスキャンするように見える。三角形の断面は、点かだんだん大きくなり円柱の高さまでくると、そこをピークにしてだんだん小さくなって点に戻る。ここで重要となるのが、スライスされた三角形と、垂直に長方形上をスキャンする線分との比だ。アルキメデスは、こう書いているという。
「三角柱の三角形の面積が円柱の三角形に対するように、長方形の線分は放物線の線分に対する。」
なんと、二次元図形の比が一次元図形の比と同じになるという比例関係を述べているではないか!これは、幾何学的な直角を数学的な直交性に応用していると解釈するのは、行き過ぎであろうか?何かの正体を知ろうとすれば、その構成要素を探る。分解とは、解析学の基本思考であり、近代数学は直交性を重視する。直交性とは、幾何学の直角を代数学で抽象化した概念だ。例えば、フーリエ変換は正弦波と余弦波の直交性を利用して、現象の成分を分解しようとする。こうした直交性を持った成分によって限りなく分解しようとする試みは、微積分学とすこぶる相性がいい。
さらに、こう書いているという。
「三角柱の体積が円柱の切片の体積に対するように、長方形全体の面積は放物線の切片全体の面積に対する。」
つまり、三次元の図形同士の比が二次元の図形同士の比と同じになると言っている。これは、放物線の求積に対する拡張版という見方もできそうだ。
ところで、科学界の有名な醜い功績争いの一つに、ニュートンとライプニッツによる微積分学をめぐってのものがある。彼らはアルキメデスの「方法」に触れることはできなかった。ここにアルキメデスが割って入れば、二人を黙らせたかもしれん。いくらなんでも二千年前の功績にケチはつけられまい...

"天秤の魔術師 アルキメデスの数学 "林栄治, 斎藤憲 著

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前記事「解読! アルキメデス写本」では、歴史の面から数学の醍醐味を味わった。今宵は、もう少し専門的に突っ込んで、アルキメデスの考え方や意図といったものを味わうことにしよう。ギリシア数学は、一般的に命題と証明という形で書かれ、その代表に「ユークリッド原論」がある。証明に至った思考プロセスについては、ほとんど触れられないために、数学は無味乾燥な学問とされがちである。
ところが、アルキメデスの著作の中でも「方法」だけは異質で、思考プロセスが記述されるという。彼の著作群が残される写本は、ヨハン・ルーズヴィー・ハイベアによってA写本、B写本、C写本と名付けられ、9世紀から11世紀頃、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のコンスタンティノープルで作成されたとされる。A写本とB写本は、古くから発見され、ルネサンス期の巨匠たちの目にも触れたようである。
一方、C写本が発見されたのは、1906年と新しい。おまけに、一度行方不明になりながら、1998年クリスティーズのオークションに再出現したという謎めいた経緯がある。アルキメデスの「パリンプセスト」と呼ばれるが、あくまでも中身は再利用された祈祷書であって、C写本は上書きされた中に埋もれていた。そのために当初、貴重なものとは見なされなかったようである。著作「方法」は、このC写本にのみ記載されるという。本書は、この「方法」の解説を中心に据えながら、アルキメデスの思考原理がニュートンやライプニッツより二千年も先んじていた可能性を匂わせてくれる。

人間の叡智は、いかに無駄なプロセスを辿ってきたことか。その多くは宗教戦争や政治紛争の類いで抹殺されてきた。古代知識の宝庫であったアレクサンドリア図書館は何度焼かれたことか。あるいは、結論だけ知っていても、それを存分に使いこなせなければ、無駄な知識に終わる。知識とは、なんらかの目的や欲望から生じるものであろう。それを編み出す過程の奥に秘められた哲学を学ぶことは、知識を深遠なものにするとともに、応用力を高めることになる。
しかしながら、発見や思考のプロセスが疎かにされるのは、いつの時代も同じ。現在とて、管理職にある者は結果ばかりを求め、目先の解決策を示さなければ発想力がないと愚痴を垂れる。人の考えを発展させて自分で具体化しようとしないとなれば、どちらが発想力がないのやら?人は皆、面倒臭さがり屋よ。近道をしようとすれば、却って遠回りをする。しかも、そのことに気づかなければ幸せになれるという寸法よ。それでも、いつも道草ばかりで、はしご酒する酔っ払いよりはマシか。
それはさておき、アルキメデスが既知の理論の発見法を残してくれるのは、学問に対する姿勢が伺える。研究者の中には、この時代、純粋に真理を探求するのではなく、相手を蹴落とすために論理武装し、成果を最大限に見せることにしのぎを削っていた、とする意見もあるらしい。今もあまり変わらんような...
肝心な箇所の記述が欠落していることが、「アルキメデス意地悪説」をくすぶらせる。「方法」の序文には、挑戦的な一文があるという。
「アレクサンドリアにいる君たちや将来の学者に、私の方法を利用するだけの能力がありますかな。」
これは、皮肉であろうか?あるいは、次世代の研究者に託した言葉であろうか?

注目したい思考法は、比例関係を重視していることである。ギリシア数学の理論体系は、面積や体積を表す公式を導くことではなく、既知の身近な図形との比較によって大きさの関係を明らかにすることだった。実際、ユークリッド原論やアルキメデスの著作の中に、三角形の面積が底辺掛ける高さ割る2、などというお馴染みの公式を見つけることはできない。せいぜい、平行四辺形は三角形の2倍、といった定理を見つけることぐらい。そこで、相似形や等積定理といった概念が鍵となる。
最も重要な概念は、図形の切り口とその総和の関係を、つり合いの原理に持ち込んでいることである。細かく刻んだ図形を足し合わせとして眺めれば、自ずと重心が計測でき、物事の関係が見えてくる。本書は、この思考法を「仮想天秤」と呼んでいる。面積の切り口は直線となり、体積の切り口は面となり、アルキメデスは次元を落とす術を知っていたことになる。次元という意識があったかどうかは知らんが、おそらく比を問うことで代替しているのだろう。積分的思考とは、総和という思考で代替できる統計的観測というわけだ。
「方法」の対象では、放物線、楕円、双曲線といった円錐曲線の議論を避けることはできない。やはり、基本図形は三角形であろうか。もっと言うなら、底辺と高さの関係、すなわち対象までの距離の考察である。三角形の一辺を軸に回転させれば円錐ができる。いきなり命題1には、放物線の回転体と円錐の関係が示される。
「放物線のすべての切片は、同じ底辺と等しい高さをもつ三角形を3分の1だけ超過する。」
ところで、物理学にはモーメントってやつがある。支点からの距離と重さの積で表される物理量だ。モーメントの和が支点の左右で等しくなれば、物体はつり合うと考えることができる。対して、アルキメデスが利用しているのは、距離と重さの逆比例関係であり、まさに天秤の原理だ。立体の重さの比を、天秤の支点との距離という直線の比で測る。つまり、求積問題が、一次関数の問題に置き換えられている。なんと、導関数という概念を自然に取り入れているではないか。重心を求めることが、回転体の体積比を求めることになるという寸法よ。なんでも吊るしちゃえ!なんでも回転させちゃえ!という思考実験こそが、アルキメデスの思考原理であろうか...

1. 「方法」という表題
「方法」と呼ばれるのは、ハイベアが校訂版を出版する時、ラテン語のタイトルを「Methodus」としたからだそうな。ギリシア語の「メトドス」に由来し、英語の method に相当。ギリシア語写本の表題は「エフォドス」というらしい。どちらも「道」を意味する「ホドス」に前置詞がついた語だという。ただ、微妙なニュアンスの違いがあって、エフォドスは、アプローチ、入り口、攻略といった意味があって、メトドスは、体系的方法という意味があるとか。デカルトの「方法序説」を真似て、体系的方法を好んだ時代でもあろうか。
しかも、エフォドスという語は、標題にあるだけで、本文中には一度も出てこないという。アルキメデスは、「トロポス」という語を使っているそうな。英語では、way と訳される。なるほど、「方法」というより、「やり方」あるいは「道」と言った方がよさそうである。現代風に言えば、攻略本といったところであろうか...

2. アルキメデスの比例論、いや、つり合い論
「方法」の導入部は、序文と、その後に続く11個の補助定理で構成されるという。その記述は、重心とつり合いの関係がかなり意識されていることが伺える。
例えば、円錐や円柱や角柱といった図形の重心と中点の関係を述べたり、二つの量に対して合計の重心と各々単独の重心の関係を述べたり、任意の個数の重心が同一直線上にあるならば、合計量の重心も同一直線上にあるとしたり... 複数の比例関係から対応する項の和をとっても比例関係が成り立つ条件を述べるという形で、記述が始まる。
そして、最初の命題1には、アルキメデスの基本的な思考が表れている。まず、放物線の切片ABGをとる(下図)。AGは、必ずしも軸に垂直である必要はない。Gにおける接線GZを引き、Aを通って放物線の軸DEに平行な直線AZを引く。そして、AG間の任意の点Cを通って軸DEに平行な直線COMを引く。




すると、以下の比例関係が成り立つという。

  CM : CO = AG : AC

この関係は直観的に想像できる。アルキメデスはこの証明のために以下の図形を設定しているという。放物線の性質より、DB = BE となる。直線GBを延長して、GK = KQ となるようなQをとる。そして、三角形AGZと、三角形ABGのつり合い関係を観察する。
「放物線の切片ABGを点Qに移すと、もとの位置に残した三角形GZAと点Kに関してつり合う。」




3. 球の切片
命題2で現れる球の体積は、アルキメデスが最も誇りをもった成果であろうか。というのも、墓に刻まれた。

  V = (4/3)πr3

アルキメデスは、これを二つの表現で示しているという。
「球は、その大円を底面としその半径を高さにもつ円錐の4倍である。」
「球の外接円柱は、この球の1倍半に等しい。」
内接円錐、半球、外接円柱の体積比を眺めるだけで、アルキメデスがこれらの図形に魅了された気持ちが分かる。

  円錐 : 半球 : 円柱 = 1 : 2 : 3

さて、おいらを魅了するのは命題7の方だ。この法則を眺めるだけで、本書に出会った甲斐があるというもの...
命題7の主張は、こうだ。
「球の半径r、切片の軸をh、切り取られた切片の軸をh'とすると、球の切片ABDは、これに内接する円錐ABDに対して、次のような比例関係を満たす。」

  切片ABD : 円錐ABD = (r + h') : h'




直観的にはもっともらしいが、ほんまかいな???
これを積分法で計算してみる。球の切片軸上の任意の点Sにおいて切断する(下図)。




この時、円の方程式は中心点O(r, 0) において、

  (x - r)2 + y2 = r2
  y2 = 2rx -x2

切断面の面積S(x)は、

  S(x) = π(2rx - x2)

切片ABDの体積Vは、

  V = ∫S(x)dx
    = π∫(2rx - x2)dx = (1/3)πh2(3r - h), ただし、(0 ≦ x ≦ h)

次に、内接円錐ABDの体積をV'、底辺の半径をRとすると、

  R2 = 2rh - h2

であるから、

  V' = (1/3)πR2h = (1/3)πh2(2r - h)

よって、

  V : V' = (1/3)πh2(3r - h) : (1/3)πh2(2r - h)
         = (3r - h) : (2r - h)

さらに、2r - h = h'だから、

  V : V' = (r + h') : h'

なるほど、安心して眠れそうだ!

4. 爪形と交差円柱
アルキメデスが扱った図形で、もう一つ興味深いものがある。しかも、主役のような扱い。
正方形を底面とする角柱とこれに内接する円柱において、下底面の直径と上底面の一辺を通る斜めの平面で円柱を切断すると、半円、半楕円、円柱の側面に囲まれた爪形図形が切り取られる。




アルキメデスの主張はこうだ。
「爪形の体積は、外接する四角柱の6分の1に等しい。」
なぜ、こんなヘンテコな図形に憑かれたのだろうか?この図の摩訶不思議なところは、縦にスライスすると、直角二等辺三角形が大きさを変えながら移動することだ。つまり、縦横の比が常に同じということ。その求積手順は、まず命題12と13で仮想天秤によって決定され、命題14では天秤を利用せず、無限個の平面の切り口から同じ結果を得て、ようやく命題15で外接図形と内接図形の関係から厳密な証明が与えられる。命題14には、無限小という概念が用いられ、それを正当化しようとする工夫が見られるという。ただし、欠落部分が多いとか。んー、残念!

命題12では爪形と半円柱のつり合いが、命題13では半円柱と三角柱のつり合いが論じられる。垂直にスライスしながら、三角形の集合体として捉えて重心を求めるといった具合に。この際スライス方向は、平行だろうが垂直だろうが、どっちでもよかろう。思考法の問題なのだから。
さらに、本書は球との関係を指摘している。この関係は、今まで見落とされてきたと指摘している。
「爪形と球は、同じ相対質量分布をもつ。」
また、命題14では、「不可分者」という用語を用いて解説される。この用語は、17世紀、カヴァリエーリが名づけたものだそうで、著作「不可分者による連続体の幾何学」で使った言葉だという。ここでは、三角形の面積を求める時、底辺に平行な直線で上から下までスライスするようなイメージで、直線の比を議論の対象とする。無限分割の連続体として捉えている。
では、無限個の切り口を、どうやって足し合わせたのか?アルキメデスの求積の議論では、体積や面積をいくら細分化したところで質量のある物理的イメージは残される。
ところが、命題14だけは、厚みや幅のない切り口によって思考される。2001年に明らかになったことは、なんと無限個の切片に対して「個数が等しい」という言葉を用いているとか。そのために、古代ギリシア数学において、実無限という概念を使用していたという可能性が注目されているという。二次元の面積を、直線の比という1次元関数に置き換え、三次元の体積を、三角形の比という2次関数に置き換えているとすれば、被積分関数を変形して積分するというイメージが出来上がっている。
しかしながら、補助定理では有限個の項に適用され、無限個の項に利用するのには、ちと無理がありそうだ。アルキメデスが、無限を正当化しようとした努力は想像できても、厳密な水準に達しているとは言い難いようである。命題14の意義は、つり合いの原理だけでは、無限個の項を扱うことに限界を感じたということであろうか?
では、なぜ、ここだけ都合よく情報が欠落しているのか?わざとか?序文の皮肉が甦る。

また、命題15で紹介される思考法は、ちと抵抗がある。というのも、あの忌々しいε-δ論法に映るからだ。そのイメージは、三角柱P、爪形Uとすると、次の三つのパターンで最初の二つが矛盾し、3つ目が成り立たざるを得ない、という具合に議論される。

  U > (2/3)P, U < (2/3)P, U = (2/3)P

本書は、これを「二重帰謬法」と呼んでいる。残念ながら、命題15も途中で終わっているらしい。既知の情報から比較関係によって迫ろうとする思考法は、解けない微分方程式の前で大小関係によって迫る考えにも似ている。おいらを数学の落ちこぼれにした野郎だが、その幾何学版にも映るわけだ。
さらに、球、交差円柱、爪形の共通性へと議論が進む。そこで、ちょいと三つの図形を重ねて描いてみると...




爪形の図形は円柱からも描けるし、交差円柱の交差する部分の球からも描ける。爪形の図形とは、差分の考察に用いようとしたのだろうか?残念ながら、交差円柱の証明も失われているそうな。
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