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Channel: アル中ハイマーの独り言
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"エリック・エヴァンスのドメイン駆動設計" Eric Evans 著

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ドメイン駆動設計(Domain-driven design)とは、モデリングパラダイムを中心に据えたソフトウェア設計手法である。おいらはプログラマではないが、あらゆる分野の研究、開発、設計が、効率化とコスト削減のためにデスクトップ上に展開される御時世。プログラミングをまったくやらなくて済むなんて職場を、おいらは知らない。統計モデルの記述には数値演算言語が、電子回路の実装にはハードウェア記述言語が、データベースの管理にはSQLが、Webの構築にはマークアップ言語が、などなど... 古くから、脳をモデリングするための人工知能言語が研究され、新しいところでは、ゲーム開発用のスクリプト言語が登場する。いわゆる、ドメイン固有言語ってやつだ。こうした言語は、各々の分野で本質を見極めようとする動機から生まれ、おかげで、システムのプリミティブな知識を知らずとも、本来の仕事に集中することができる。本書は、コンポーネント群から分離した本質を抽出するプロセスに、「蒸留(distillation)」という語を当てる。モデルとは、蒸留された知識を言うそうな。今宵は、余計な知識を揮発させるために、熟成された蒸留酒をやらずにはいられない...

ソフトウェアの設計は、対象が目に見えないだけに、メタファ的な発想を要求してくる。いわば、概念と実体を結びつける空想力だ。リファクタリングやリポジトリ、あるいはレイヤ化アーキテクチャといった発想は、システムを理解する上で重要な概念となる。こうした思考法は、ソフトウェアに限らず、多くのシステム開発で参考にできるはずだ。現実に、システムを本当に理解している人は、そういるもんじゃない。技術屋の関心事は特定の技術に向けられ、営業屋は顧客の要求がすべてだと考え、お偉いさんは納期や政治的な事ばかりに気を配る。顧客だって提案に反応するだけで、本当に要求するべきものを知っているわけではあるまい。強烈な責任分解が悪しきシステムを生み出し、複雑なシステムほど手に負えなくなるのも道理である。
「大規模な構造を適用すべきなのは、モデルの開発に不自然な制約を強いることなく、システムを大幅に明確化する構造が見つけられた時だ。うまく合わない構造なら、ない方がましなのだから、包括的なものを目指すのではなく、出てきた問題を解決する最小限のものを見つけることが一番だ。"より少ないことは、より豊かなこと(Less is more)"なのだ。」

本書が提供してくれるものは、ソフトウェアの核心にある複雑さを相手取るための思考法である。それは、設計上の意思決定を行うフレームワークと、ドメイン設計について議論するための技術的な語彙であり、語彙の定義こそが要だ!ということを教えてくれる。つまり、顧客から開発者に至るまで対話できる共通ボキャブラリの構築である。なによりも強調していることは、チームをより効果的に導くこと、ビジネスエキスパートとユーザにとって意味ある設計に集中させること、そして、深いモデルとしなやかな設計を目指して試行錯誤の継続が重要だとしている。
ここには、エリックの経験則が綴られる。むかーしから蓄積されてきた愚痴が、つい爆発してしまうのは、それだけ現場の本音を物語っているからであろう。設計者が顧客を説得できないのは、システムのポリシー、ひいては哲学がないからに違いない。もっと言うなら語彙が乏しい。専門に閉じこもればシステムとしてのドメインが見えなくなる、高度な技術に凝り固まればユーザの気持ちが見えなくなる... とは、実に頭の痛い御指摘!こいつは、実践に概念を結びつけるための哲学書である。そして、ドメイン駆動設計には非常に高度な設計スキルを養う機会が溢れていることを教えてくれる。
尚、対象読者には、オブジェクト指向, UML, Javaなどの基本的な知識が必要としているが、プログラミングを趣味ぐらいにしか考えていないアル中ハイマーでも抵抗感がない。もっとも仕事も趣味の延長ぐらいにしか考えていないが...

1. ドメインとユビキタス言語
ところで、ドメインってなんだ?改めて突き付けられると、なかなか手強い用語であることに気づかされる。辞書を引くと、領域、範囲、分野、あるいは、境界や定義域といった意味を見つける。通信業界ではネット―ワックの管理単位とし、ディレクトリサービスでは共有範囲や利用者グループの範囲とする。ソフトウェア工学は仮想的な領域を扱うことが得意なだけに、用語の量や複雑さに圧倒される。活動や関心の範囲を抽象化し、実体を含む領域もあれば、実体を含まない概念だけの領域までも編み出しやがる。モデルは、この重荷と格闘するためのツールであり、シンプルに組み立てられた知識の表現形式である。したがって、ドメインとは、知識が厳密に構成され、効率的に抽象化された定義域とでもしておこうか。
自然言語も、人間のコミュニケーションツールとしてのドメイン固有言語と言えるかもしれない。あらゆる学問で情報交換を効率的に行うために専門用語が編み出されるが、これも同じようなものであろうか。そして、システムは言語である、とでもしておこうか。
それは、技術者に留まらず、ユーザを含めたシステムに携わるすべての連中とコミュニケーションできる手段となるべきもの。本書は「ユビキタス言語」と呼んでいる。ユビキタスとは、チームの至ることころに存在するという意味で使われている。
しかしながら、言語の柔軟性は想像以上に手強い。言語表現は、精神活動の投影でもあるのだから。例えば、「信用」という用語は、経済学のものと心理学のものとでは大きな隔たりがあるし、「客観」という用語は、数学のものと他の学問のものとでは度合いがまったく違う。客観性の強いはずの技術用語ですら微妙なニュアンスの違いを見せる。パッケージ、コンポーネント、インスタンス、エンティティなど、これらの用語は専門によって使い方が違ったり、企業組織や開発グループによっても微妙に解釈が違ったりする。オブジェクト指向を一つとっても捉え方は様々で、美しいモジュール性を励行したり、カプセル化や継承を強調したり、メソッド操作の一貫性を保ったりと。Wikipediaや用語辞典に頼り過ぎると、却って混乱することもある。
チームに浸透する微妙なニュアンスは、実践でしか育まれるものではない。最初の会議で、用語群の定義を大切にするマネージャを見つければ、それだけで信頼に値するだろう。プロジェクトマネージャとは、ある種のシナリオライターだと、おいらは考えている。その一方で、長嶋茂雄ばりの英語まじりで、何を言っているか分からないお偉いさんを見かけるけど...
どんなシステムを設計するにしても、その仕事に適した用語群が形成されるはずだ。言語とは、記号で記述するものだけでなく、構造図、振る舞い図、関連図といった視覚的に訴える手段も含めておこう。言語は、柔軟性こそ味方につけるべきである。プロジェクト内で用いられる言語が、設計の楽しさを醸し出し、我がチームの合言葉となることを願いたい...

2. レイヤ化アーキテクチャとドメイン層
本書は、システムアーキテクチャを四つの層に分けて分析することを推奨している。上位から、ユーザインターフェース層、アプリケーション層、ドメイン層、インフラストラクチャ層である。ユーザインターフェース層はユーザの要求や状態などを管理、アプリケーション層は処理やトランザクションなどの管理、インフラストラクチャ層は上位のレイヤを支える技術を提供する。
注目したいのは、ドメイン層を独立させていることだ。この層では、概念や規定の責務を負うという。いわば、設計思想を担う核心部分というわけだが、これを分離する感覚がとっつきにくい。そもそも思想や哲学というものは概念的なものであって、しかもシステム全体に浸透すべきものであり、すべてのレイヤを含んでいそうなもの。しかし、概念と手段を明確に区別することにも、一理ありそうだ。ドメイン層がアプリケーション層とインフラストラクチャ層の間に位置するのは、思想と実践の架け橋にでもなろうというのか。
ところで、古くから、MVCというデザインパターンがある。モデル、ビュー、コントローラで分離する設計概念である。ビューとコントロ―ラを結合させて、ドキュメント/ビュー構造にも馴染みがある。ドメイン層という発想は、こうした流れから派生しているようである。そうなると、ドメイン層は実装よりもドキュメントとの結びつきが強そうに映る。なるほど、ユビキタス言語との結びつきが鍵というわけか。
実際、多くのエンジニアが手段に目を奪われ、本質的な要因を理解しようとしない。コマンドの叩き方やコードの書き方を工夫すれば、目的に適った動きをしてくれるので、それで理解した気分になれる。コンピュータサイエンスの視点からモノを見るエンジニアは意外と少ない。そんな必要もないのかもしれんが。些細な問題を抱えても目先の対処で誤魔化すために、潜在的に大きな問題を抱えるケースも珍しくない。あるいは逆に、冗長的な方法論や過剰な機能を付加して、自ら墓穴を掘るケースもある。
しかしながら、モデリングパラダイムによく適合した実装技術を身に付けるとなると、かなり骨が折れる。手っ取り早く、オブジェクト指向あたりでええじゃん!と、つい考えてしまう。実際、言語システムを選択することで、設計思想の確立を肩代わりさせることもある。設計グループには文化があり、そこに実装に用いる言語がどっぷりと浸かっている。設計文化が、言語そのものとか、コーディングルールだと主張する人も珍しくない。そのために、どの言語システムを選ぶべきか、という論調になりがちである。
「モデルに貢献する技術的な人はだれでも、一定の時間をコードに触れることに費やさなければならない。プロジェクトで主に果たしている役割が何であれ、そうしなければならないのだ。コードの変更に対して責任を負う人はだれでも、コードを通してモデルを表現することを習得しなければならない。すべての開発者は、モデルに関する議論にいずれかの段階で参加して、ドメインエキスパートと話をしなければならない。その他の方法で寄与する人々は、ユビキタス言語を通じてモデルに対する考え方をダイナミックに交換する際に、コードに触れる人々を意識して巻き込まなければならない。」

3. リファクタリングとリポジトリ
ドメインモデルを習得するためには、リファクタリングが鍵になるという。戦略的設計には、より深い洞察へ向かうリファクタリングが必要だというわけだ。政治的に言えば、ビジョンってやつか。最初からシステムを理解している者など、そういるものではない。すべては試行錯誤によって導かれるであろう。システムってやつは、機能追加や修正にともなうバージョンアップを繰り返すうちに、いつのまにか設計思想を見失って硬直化し、やがて過去の遺物と化す。
リファクタリングの対象は、モジュールそのものに向かいやすく、設計思想といった上流工程に向かうことはあまりない。インターフェースを保持しながら、構成要素の中身を再検討することはよくやるが、一度決定した全体構成を見直すことをあまりやらない。変更リスクが大きいからだ。
しかし、ドメインレベルで思考することによって、システムそのものが生き物のように進化するという。それは、構成の分離と統合、用語の定義といった様々な境界を明確にしながら、さらに再定義すること、そして、システムに柔軟性を持たせると同時に、異質な設計の紛れ込む余地を許さないことを目的とする。ひとことで言えば、アジャイルに、PDCA(Plan - Do - Check - Act)を回転させるといったところであろうか。
また、リポジトリのテクニックが重要だとしている。データベースへの問い合わせは、過去を遡る手段となる。そして、データベースの構造、すなわちデータ構造そのものが、ドメイン設計にとって根幹となるはずだ。各メソッドのデータ構造へのアクセス方法が、一貫性を保つルールを自然に育むだろう。リファクタリングの意義は、完璧な設計などありえないというコア思想を見直す習慣を身に付けることになる。その習慣が、技術と品質の妥協を許さない技術者魂を呼び起こすであろう。最終的にシステムは、ユーザにとって役立つものでなければ意味がないが、その前にエンジニアにとっても役立つものとしたい。コードの保守は、後々重要な知識の蓄積となって返ってくる。モデルとは、システムの物語を伝えるためのものなのかもしれん。
「深いモデルは、ドメインエキスパートの主要な関心事と、それに最も深く関連した知識に関する明快な表現を提供するが、一方で、ドメインの表面的な側面は捨て去るのだ。」

4. 副作用の宿命
モジュール化によって、様々な副作用の余地を残すのは危険であろう。関数の設計であれば、副作用のないことを期待するが、完全に副作用を排除することも難しいので、どのような作用が生じるか明示しておく必要がある。ライブラリの揃える関数群の引数や戻り値の一貫性や、操作性の一貫性が、他のモジュールへの影響を小さくする。あるモジュールを使用する場合、その実装について悩まされ、コードを確認しなければならないとすれば、カプセル化の価値は失われる。設計思想の違うモジュールの結合によって構成されたブラックボックスは、深刻な問題を抱えている可能性が高い。強烈なものになると、「解析済みの問題」と称して、これらを仕様書に羅列したものを見たことがある。10項目ほどの。これを使えば開発期間が短縮できると、意気込んだお偉いさんとセットで。解析済みってどういう意味かは知らんが、問題を修正してから持ってこいよ!それとも修正できないほど深刻ってか?幸か不幸か、この手の直感は外れたことがない。意図を明確にしておけば、インターフェース仕様が適さないことは明白になるはず。にもかかわらず、政治的な意図で工程が短縮できるとすれば、設計とはなんなんだ?技術とはなんなんだ?おっと、愚痴が加速する!
設計思想の一貫性を保つことは、システムが複雑になるほど不可能なほど難しい。クックブックのようなルールで対処できるものではない。やむを得ず矛盾を許す箇所も生じるだろう。どんな規則にも、例外が生じることは覚悟しておいた方がいい。それでもなお一貫性を保とうとする努力を怠ることはできない。それが、エンジニアの宿命なのかもしれん。物理学者が不確定性原理に、数学者が不完全性定理に、哲学者が二律背反に立ち向かうように...

5. 腐敗防止層と例外処理
ドメイン層とは、ちと違うが、概念を独立させるという意味でイメージしやすい事例を紹介してくれる。「腐敗防止層」とは、なかなか興味深いネーミングだ。究極の例外処理と解するのは、大袈裟であろうか...
どんなに優れたシステムでも、数年後には腐敗する。これは自然法則と思うぐらいで丁度いい。そこで、腐敗の傾向をモデリングできるとありがたい。腐敗防止層のインターフェースとは、どのようなものであろうか?もしかすると、政治色の強いお偉いさんの思考にも、なんらかの傾向があるのだろう。整合性のための自動チェック機構のようなものがモデリングできれば、政治屋を黙らせることができるだろうか。
古代中国は、近隣の遊牧騎馬民族の襲撃から国境を守るために万里の長城を築いた。だが、誰も通れない防壁だったわけではなく、規制しながらも交易は認めたという。大軍の侵略に対して頑強な障害物であればよかったのだ。なるほど、きちんと境界条件が定義されていることが重要だ!という教訓か...

"マリー・アントワネット(上/下)" Stefan Zweig 著

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歴史は得てして、凡庸な人物に命運を託すことがある。単に無思慮で、はしゃぎ好きな娘を、王党派は偉大な聖女に祭り上げ、共和党派は堕落女と罵声を浴びせる。フランス革命という急進的な時代にあって、大衆を敵に回し、魔女狩りのごとく処刑されていく命運とは。ハプスブルグ家の皇女という誇りが、そうさせたのか。民衆は魔女の戯言に同情するほど余裕はない。世論の捌け口とされるがゆえに、今日英雄として担がれた人物が、明日には悪魔として駆逐される。共和政治が恐怖政治と化すのに、大して手間はかからない。パスカルが書いたように、やはり人間とは狂うものらしい。狂気した者は、狂気の結末を求めてやまない。自らを悲劇の英雄に仕立て、自己の中に人生という歴史を刻み、自己完結できればそれでいいのだ。はたして狂気した者が、狂気していることに気づくことができるであろうか。感動的な芝居をうつのに、英雄的な資質など必要としない。いや、芝居かかっているから歴史なのかもしれん...

さて、シュテファン・ツヴァイクという作家を知ったのは、著作「ジョゼフ・フーシェ」に出会ってからのこと。おいらが知る歴史書、いや推理小説の中でベストテンに入る作品である。
正直言って、マリー・アントワネットの印象は、贅沢三昧に溺れた浪費家の自爆ぐらいにしか映らない。むしろ、彼女をヒステリックに追いやった夫ルイ16世の無気力と優柔不断さ、もっと言うなら、太陽王の影で惰性的に王位に就いた継承者たちの不甲斐なさの方が、歴史的に意味がありそうに映る。
ヴェルサイユ宮殿の栄華は、フリードリヒ大王をはじめとする王侯たちの憧れであった。しかし栄華とは、偉大な政治的意志が伴ってはじめて花開くもの。後継者たちは国家財政を窮地に陥れただけの存在でしかない。もちろん王妃も同罪だ。数々のスキャンダル沙汰に囲まれながら大衆の餌食となっていく様に、これといって陰謀めいたものを感じない。女の面子を競って虚栄を張り、煮え切らない浮気心を覗かせ、せいぜいルイ14世が残した負の遺産を目立たせるぐらい。この派手好きな人物をツヴァイクならどう描くだろうか、凡庸な人間像から迫る歴史叙述とは... 興味はただこの一点にある。
「王妃マリー・アントワネットの物語を綴るということは、弾劾する者と弁護する者とが、たがいに激論のかぎりをつくしている、いわば百年以上にもわたる訴訟を背負いこむのと同じことである。」

ツヴァイクは、歴史文献の扱いの難しさを問いかける。そして、確実な文献であるはずの自筆の手紙でさえ信頼できないと指摘している。王妃の書簡と称するものは、ほとんど自身の著名が残されているそうだが、短気で落ち着きのない性格となれば手紙の書き手としても無精で、彼女自身がサインをするのは稀だという。大胆不敵にも天才的な偽造者がいるというわけだ。書簡集だけでも大儲けできるとなれば、マリー・アントワネット物語とは偽造の歴史というわけか。
ツヴァイクは、偽造の張本人を名指しする。書簡集の出版者フィエ・ド・コンシェ男爵にほかならぬと。有数な外交官で、異常な教養の持ち主だとか。落ち着き過ぎた丸味のある書体はいかにも胡散臭いし、あまりにも巧みに筆跡、文体を真似ているために、本物と偽物の見分けもつかないとぼやく。したがって、フィエ・ド・コンシェ男爵の文献は、容赦なくいっさい顧慮しなかったという。
「歴史的著述の末尾には、利用した文献をあげるのがならわしではあるが、マリー・アントワネットという特別の場合にあっては、いかなる文献を、いかなる理由から利用しなかったかを確めておくほうが、私にはより重要なことと思われる。」

口述文献においては、手紙よりも事情がさらに酷い。歴史の証言には、政治的に改竄されてきた口述で溢れている。フランス革命の熱狂にあっては疑わしい証言ばかりで、傀儡的な侍女や召使たちが好き勝手に喋る有り様。身の毛のよだつ恐怖政治の下では、まともな証言はすべて抹殺される。しかし、それが集団的狂気の中で起こった出来事だとすれば、現在の情報社会における集団的暴走と何が違うだろうか?
「国民大衆というふしぎな実体は、いつも擬人的に、まったく人間的にだけものを考える習いがある。概念なぞいうものは、大衆の理解力にとっては、けっして完全に明瞭になるものではなくて、ただその概念を具現している人物だけがはっきりしているのである。」
モーツァルトがマリー・アントワネットに求婚したという話から、更に懲りずに、処刑の際、誤って刑吏の足を踏み、丁寧にごめんなさい!と言ったという話... これらの逸話は、フィエ・ド・コンシェ男爵の作品だそうな。そして、いかにも読者を喜ばせ、朗らかな印象を与える逸話を、本書の中に見つけることができず、読者をがっかりさせるだろうと断っているが、どうして!どうして!
マリア・テレジアとの往復書簡にしても、完全に公刊されると言われながら、極めて重要な部分が非公開になっているそうな。本書は、そうした箇所を存分に取り入れている。それでも真相は闇の中、当人にしか知り得ないことに変わりはあるまい。歴史上の人物に興味を持たせるために、是が非でも人物像を理想化し、感傷化し、英雄化する必要はない。人間を人間らしく伝える、これぞ歴史叙述というものであろうか。
とはいえ、激動の史実を語るのに、文学的な脚色は不可欠だ。ルイ16世との悲愴な愛の苦悩と、スウェーデン貴族フェルセンとの純愛の讃歌が対照的に描かれるところに、文学の美を醸し出す。歴史をいかに紐解くかという観点から、歴史叙述を推理小説風に展開する手腕は相変わらずだ...

1. ブルボン家とハプスブルグ家の婚姻
ブルボン家ではルイ14世が世を去り、ハプスブルグ家でもカール6世が世を去ると、女帝の時代に突入する。その典型的な形は、フリードリヒ大王に対抗して、ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア、ロシア女帝エリザヴェータ、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の三人が包囲した戦争に見て取れる。フランス王国では、ルイ15世、ルイ16世と惰性的な王が続き、王妃や愛妾が宮廷を牛耳るようになる。何世紀もの間、ハプスブルグ家とブルボン家はヨーロッパの覇権をめぐって戦争を繰り返してきたが、ついに両家とも疲れ果て講和を求める。ハプスブルグ家は、巧みな婚姻外交によって領土を広げてきた備えから、いつの時代にも結婚適齢期の女性で事欠くことがない。
では、誰をルイ15世に輿入れさせるか?年齢順に候補を募ると、雲隠れするは、その気はないはで、なかなか決まらない。1766年、ようやくルイ15世の孫と年齡で釣り合うマリア・テレジアの娘の名があがる。マリー11歳のこと。だが、13歳になってもドイツ語もフランス語もまともに書けない不勉強で能天気な怠け者、これを教養ある貴婦人に仕立てあげるには骨が折れる。フランス側からオルレアン司教の推挙で、ヴェルモン神父が傅育官としてウィーンへ派遣される。神父がフランス王妃に相応しいと本当に判断したかは知らないが、見た目だけなら上品そうで明るい性格だし、ちと無理のある報告で、ルイ15世はようやく結婚を承諾する。ちなみに、神父は、利発だが怠慢で、皇女の教育は自分には手に余ると漏らしたとか、漏らさなかったとか...
華燭の典は、両家の誇りや見栄のために盛大に行われた。財政緊縮を迫られているというのに。豪華極まりない祭典に民衆がわき、幼い新王妃が有頂天となるのも仕方があるまい。だが、民衆とは移り気が激しいもので、何事も賛否両論があり、その力関係は振り子のように揺れ動いている。いつの時代も、政治家はこの流れが読めないで苦慮する。既にフランス革命は、ここに運命づけられていたのかもしれん...

2. 宮廷喜劇
ルイ16世は優柔不断もさることながら、異常に無気力な性格の持ち主。寝室でも、内気のせいか?経験不足か?愛撫もできず、7年間も実質的な夫にはなれなかったとか。宮廷で不能が噂され、物笑いの種。マリーは、女として妻として恥辱をこうむってきた。
ツヴァイクは、ルイ16世の精神状態を、男性的弱体に由来する劣等感の典型的な症例であると、臨床医学的に解説している。男の性格に及ぼす現象と、女のそれとでは、夫婦でまったく正反対になるという。男の場合は、性的能力に障害があると、抑圧に悩み、無気力となり、女の場合は、受け身で献身的な態度が実らないと、怒りやすく、自制心を失うと。
また、皇室の圧力は、余人には想像もつかないものがある。「マダム・エチケット」と渾名されるノアイユ伯爵夫人の口うるさい説教から逃れようとする日々。マリーの場合は、感受性が強く、情熱的な乙女だけに、余計に爆発したと見える。なにしろ、22歳まで処女だったのだ。遊び好きはエスカレートし、毎日朝帰り!
「私は退屈するのがこわいのです。」
享楽というものは恐ろしい。真の自由を与えないばかりか、まったくの奴隷にさせる。社交界では、独りでいることもできない。そんな王妃に、気弱なルイ16世は小トリアノン宮を贈る。もともとは、ルイ15世がデュバリー夫人などの浮気のために使った宮殿だとか。なによりも束縛を嫌うマリーは、ここに絶対不可侵な国を作り、美術品や装飾品で埋め尽くしてロココの女王となった。
商売に抜け目のない装身具屋が、彼女の気性を利用しない手はない。今日はどの衣装にするかという気まぐれな悩みは、侍女や裁縫師や刺繍師たちを忙殺する。贅沢こそが、着飾ることが、義務だと言わんばかりに。実際、そう思っていたのかもしれん。
それはともかく、夫婦仲がうまくいかなけば、フランスとオーストリアの同盟が危うい。さすがに母マリア・テレジアも娘を説教し、兄の皇帝ヨーゼフ2世は義弟のルイ16世を励ますために、わざわざパリへ赴く。そして、長年の不能から、ついに誇らしげに妊娠が報じられる。だが、贅沢病は死んでも治りそうにない...

3. デュパリー夫人との確執
宮廷は二派に分かれた。ルイ15世の妃は既に亡く、婦人仲間で最高の権威をめぐる争いは、王の三人の娘に帰するはずだった。だが、愚かな三人娘は、やることなすこと不手際。謁見の際、上席を占めたり目立つこと以外に、地位を利用する術を知らない。へつらったところで地位を世話してくれるわけでもなく、なんの見返りもないとなれば、影響力を失うばかり。
そして、栄光と名誉は、ルイ15世の寵妾デュバリー夫人に帰する。デュバリー夫人は下層社会の出身で、貴族の片割れという肩書を手に入れるために、いいなりの情夫に金を出させ、無類の好人物デュバリー伯爵を手に入れたという。そして、伯爵は結婚後すぐに身を引き、夫人は王のお気に入りとなる。
そんなところに、マリーが輿入れしてきたものだから、デュバリー夫人を快く思わない連中が近づく。ただ、形式上の地位はマリーの方が上で、自然に振る舞っていれば威厳を失うはずもない。儀礼の上では下の者から言葉をかけるわけにはいかないので、ちょいと王妃が声をかければ済む話。しかし、この意地っ張りは冷然と嘲笑うがごとく、いつまでも言葉をかけず、徹底的に無視することによって決闘を挑む。宮廷では、どちらが勝利するかの話題で持ちきり。実にくだらん!
しかし、これが同盟の危機となれば話は別だ。母マリア・テレジアの耳にも入り、外交ルートを通じて、戦争になるぞ!とちょいと脅せば、マリーは涙ぐむ。1772年、ついにヴェルサイユ宮殿の観客を証人とする中で、デュバリー夫人の勝利で決着。誰もがマリーの言葉を聞き漏らすまいと静寂する中、ひとこと口にした。
「今日は、ヴェルサイユは、たいへんな人ですこと。」
だが、一度母に譲歩したからには、デュバリー夫人に二度と声を聞かせないと決意したとか...

4. 首飾り事件
1785年、王妃の名を語った詐欺事件が発生。大掛かりな詐欺には、二つの要素が揃わなければならない。一つは大ペテン師、二つは大馬鹿...
ヴァロワ家のラ・モット伯爵夫人は宮廷に知り合いがなく、いきなり奇襲をしかけたという。歎願者に混じって応接間に現れるや突然倒れ、長年の飢餓と衰弱によって涙ながらに同情を集める。すると年金が増額されたとか。味をしめて二度、三度と倒れて見せるものの、胡散臭く見えてくる。そして、軽信家ド・ロアン大司教に近づく。ロアン大司教は、マリーを男にしたような人物だという。軽率、皮相、浪費、無頓着。聖職者でありながら、まったく世俗的で、陽気な遊び好きとくれば、マリーと馬が合いそうな...
それはさておき、ラ・モット夫人は、ロアン大司教に王妃の親友だと語り、宮廷御用宝石商ベーマーに首飾りを買いたいと伝え、160万リーブルもの宝石を騙し取った。この事件が明るみになると、浪費家で名高い王妃の責任を問う世論が巻き起こる。潔白を証明しようと裁判に持ち込んでも、証拠物件が見つからない。というのも、ラ・モット夫人の夫が首飾りの一切をロンドンへ持ち逃げしていた。偽造文書も焼却され、本当に偽造があったのか?王妃が隠し持っているのではないか?という噂が広がる。
ことごとく関係者と思われる人物が逮捕されていく中、結局、ラ・モット伯爵夫人だけが有罪。そして、V字の焼き印を胸に押されるという戦慄な処罰が行われる前で、民衆の同情が集まる。この裁判の勝者はいないが、少なくとも敗者は自ら法廷に持ち込んだ王妃であった。この事件で、マリーは初めて自信を失ったという。
優柔不断なルイ16世は、裁判後、辛うじて大司教の職を奪い、関係者数人を国外追放にしたのみ。ラ・モット夫人は、暗闇にまぎれて獄舎の扉を開き、イギリスへ亡命。脱獄できたのは司法取引であろうか?狡猾な女ペテン師は、再び宮廷と瞞着する。口止め料をもらって回想録を発行し、自分が犠牲者であったことを告白。暴露本には、ロアン大司教とマリーの親密な関係までも掲載されたという。もちろん事実無根。スキャンダル沙汰というものは、面白おかしく飾り立て、報道屋の餌食にされるものだ。それこそ首飾りのように...
「マリー・アントワネットは、頸飾り事件の奇々怪々な奸策陰謀に対しては全然無罪ではあるが、このような詐欺が彼女の名においてともかくおこなわれ、また信じえられたという点にいたっては、彼女の歴史的罪であったし、また歴史的罪たるを失わない。」

5. フランス革命勃発
アメリカ独立戦争から帰国した志願兵たちが、かの戦地で目の当たりにしたのは、宮廷もなければ国王もいない、貴族もいない、市民と市民がいるだけの社会。王政がもたらす秩序が、神の意志に基づく唯一のものでもなければ、最上のものでもないということだ。それは、ルソーの「社会契約論」にもはっきりと謳われ、ヴォルテールやディドロの著述にも表れる。
1789年、ついに国民議会が爆発。この国の支配者は国王と国民議会のどちらか?瞬く間に革命の象徴となる三色旗が掲げられ、至るところで軍隊が襲撃され、パリの町は勝利に酔いしれる。
ところが、この世界的事件のさなか、わずか10マイル先のヴェルサイユでは誰も気づいていない。ルイ16世は、バスティーユ襲撃の報を受けても断を下さず、10時には睡眠に入る始末。当時、革命という言葉がどれほど認知されていたかは知らない。フランス革命によって知れ渡った言葉といえば、そうかもしれない。ここに国家と国王の新旧イデオロギー対決が始まる。それは、王族の繁栄と国家の繁栄とが区別されはじめた時代だ。鈍感なルイ16世が、この事態を呑み込めなかったのは無理もない。王妃はというと、感覚的にモノを言う人であることはとっくに分かっている。王室の立場しか理解できない彼女にとって、自分に反対する者は、口やかましいヤツぐらいにしか思っていないだろう。
王家は、ルイ14世以来百五十年このかた、住まいとして使っていなかったチュイルリー宮に幽閉される。そこに、オノーレ・ミラボー伯爵が宮廷に援助を申し入れ、国民議会との仲介役を買って出たという。だが、ミラボーは暴動を引き起こす天才だとか。王家にその人格を見抜く力などあろうはずもない。歴史の激動期には、必ずこの手の魔神的な人物が暗躍するもの。ツヴァイクは、彼ほど二股膏薬を演じた者はない、と評している。
しかし、王室を手玉にとった男も、1791年、忽然として死去。その二年後、王と内通していたことが暴露されると、肉体を墓所から引きずり出され、皮剥場へ投げ捨てられたとさ。ミラボーの死によって国民議会との唯一のパイプを失い、宮廷側は完全に沈黙する。

6. フェルセンとは何者か?
スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、マリーの愛人として片付けられることが多い。だが、ツヴァイクはこの人物に重要な役柄を与えている。
フリードリヒ大王と敵対する国々は、フランスとオーストリアの同盟関係に注目している。スウェーデン国もその一つ。フェルセンとスウェーデン王との書簡のやりとりが、いずれスウェーデン国で要職に就くことを予感させる。彼は、ラシュタット会議、すなわち神聖ローマ帝国とフランス革命政府との講話会議で、スウェーデン国代表を務めている。王党派の情報は筒抜けだったのかもしれない。スウェーデン王グスターフ3世は、こう記しているという。
「王一家の運命に寄せる余の関心がいかに大であるとはいえ、しかもなお、ヨーロッパ諸国の勢力均衡という一般的情勢の難点、スウェーデンの特殊利益、及び絶対権の問題の困難さのほうが、はるかに重大だ。いっさいは、フランス王政が回復されるかどうかにかかっているのであり、王座そのものが回復せられ、騎馬学校の怪物(国民議会)が破砕せられるということであるならば、この王座にすわる者がルイ16世であろうと、ルイ17世であろうと、はたまたシャルル10世であろうと、われわれにとってはまったくどうでもいいことだ。」
しかし本書には、マリーの思慮浅い性格を利用して、ブルボン家を操ろうなどという思惑は見えてこない。役目はなんであれ、あくまでもプラトニックな愛を育んだ証拠を強調している。

7. ヴァレンヌ逃亡劇
フェルセンは、王族の逃亡劇で一役買う。最も信頼できる人物とはいえ、国王の脱走を外国人に委ねるのも無思慮な王妃らしい。しかも、一分一秒を争う脱走劇で、一族が一緒に乗れる大型の馬車を準備させたり、身の回りの世話をする侍女や召使を同行させる有り様。お嬢様には、脱走と旅行の区別もつかないらしい。
しかし、ルイ16世は逃亡中、これ以上のフェルセンの同行を望まない。妻の友人と肩を並べて臣下の前に姿を表すことが、はばかられたのか?ルイ16世は、国境付近の軍を預かっていたブイエ将軍が駆けつけることを信じ、パリへ取って返して王位奪還を目論んでいた。だが、ヴァレンヌの人々は、革命の歌とともに行進してくる。ブイエ将軍が到着するも、時既に遅し。
国王一行がシャロンに着くと、市民たちは石の凱旋門で待ち構えていた。歴史の皮肉か!21年前、ガラス張りの馬車に乗って、国民の歓呼を浴びなからオーストリアから輿入れした時に、王妃の名誉のために建てられた凱旋門である。石の装飾にはラテン語で、こう刻まれる。
「この記念碑、我らの愛のごとく永遠につづかんことを」
鉄面皮は民衆の憎悪にさらされ、もはや王でもなく、王妃でもない。マリーは、まだ生きている旨をフェルセンに手紙したという。だが、真に愛情のこめられた書簡は、フェルセンの子孫によって抹殺されているそうな。それでも言葉の欠片から、愛情の躍動を感じ取ることができる。
しかしながら、本当の禍いは、逃亡劇の失敗よりも、ルイ16世の弟プロヴァンス伯爵が時同じくして試みた亡命が、成功したことにあるという。後に、ルイ18世を名乗る人物だ。投獄されたルイ16世とその息子ルイ17世の失脚は、無条件で二段階特進という寸法よ。政治とは、まさに二枚舌の才が求められる世界。兄レオポルトですら妹マリーを釣ろうと...
「兄は妹をあざむき、王は国民をだまし、国民議会は王を裏切り、君主は君主をあざむいて、ただただ自己の問題に有利となるよう、時を稼ぐべく万人たがいにだましあっている。... 誰も火傷はしたくないが、みな火をもてあそび、皇帝も諸王も王族も革命党員も、このたえざる密約と欺瞞によって、一種の猜忌の雰囲気をかもし出し、ついには欲せずして、二千五百万の人々を二十五ヵ年にわたる戦乱の渦中に投ずるにいたる。」

8. タンプル獄とコンシェルジュリー牢獄
ルイ16世が共和制の憲法を承認すれば、一旦身柄は安全となる。だが、急進派は相変わらず王政廃止を目論む。フランス革命が行き詰まりを見せると、オーストリアへ宣戦布告。大昔からのやり口だが、国内の不満が抑えきれなくなると対外戦争にうってでるのが、政治の常套手段。
マリーは王妃の地位を守るために、フランス軍の進軍計画をオーストリア大使に伝える。この浅はかな行為が、売国奴の汚名を着せられる。激怒した民衆は、国王一家が収容されるテュイルリー宮を襲撃。国家反逆罪に問われても仕方がないが、国家や国民の概念ですら認知できなかったと見える。
監獄には古めかしく陰鬱な城塞が選ばれ、いまやルイ16世、マリー、王太子、王女、妹エリザベス女公の五人だけ。ただ、城壁に幽閉されれば、身柄の安全は保障される。
しかし、王家の監督を委ねられた人物エベールこそは、革命党員の中で最も典型的な人物だという。王妃を誹謗してやまない毒舌家に一任したことは、読み飛ばしたくなるほどのフランス革命史の暗澹たる一頁であると...
革命の初期段階では、理想主義が優勢であったのは確かであろう。心ある貴族や市民、あるいは名望家から構成される国民議会は、民衆を解放しようと意図するものの、やがて解放された者は、解放してくれた者に歯向かう。革命の第二期では、急進分子や怨恨からの革命党員が優勢となり、彼らにとって権力は新たな野望の対象となる。やがて卑劣な人物が采配をふるい、野心と狡猾さに自由が支配され、議会は精神的凡庸さによって席巻される。
「フランスのいままでの主君が、歴代諸王の王宮を獄舎と換えたその同じ夕、パリの新しい主人もその居を変える。同じ日の夜、断頭台はコンシェルジュリーの中庭から引き出され、威嚇的にカルーゼル広場へすえられたのである。フランスは知るべきでだ、八月十三日以降フランスを支配するのはもはやルイ16世でなくてテロであることを。」
王家の集団リンチは、民衆にとってある種のお祭りだ。革命は、反革命派を根こそぎ処刑するために最初の生贄を欲した。1793年、ルイ16世処刑。死刑宣告を受けてもなお恐怖も興奮も示さない無感動な性格が、ここにきて王としての威厳を見せるとは...
王太子は靴匠シモンに引き渡され、マリーはいよいよ孤独となる。いまやハプスブルグ家の人質の役割でしかない。革命政府はオーストリアに賠償交渉を持ちかけるが、レオポルト2世の子、皇帝フランツは、叔母を救い出すために宝石一つ出そうとはしない無情漢。そこで、マリーの身柄はコンシェルジュリー牢獄へ移送される。コンシェルジュリーは「死の控室」と呼ばれ、ヨーロッパ中に知れ渡った牢獄だそうな。つまり、オーストリア皇女を殺すぞ!と脅しにかかったわけである。
ところで不思議なのは、これだけ厳重に監視されているにもかかわらず、脱獄させようという計画が、やたらと記録に残っていることである。「カーネーション事件」は、その典型である。後に、アレクサンドル・デュマが潤色をほどこして一大小説に書いたやつで、ある男が独房に真っ赤なカーネーションの花束を差し入れすると、その中に救出の段取りが書かれていたという逸話。この事件の真相を知るのは、ほとんど不可能のようだが、マリーは裁判で自供しているそうな。チュイルリー宮の時代から知っている人物で、その男からカーネーションに潜ませた手紙を受け取ったことや、返事をしたためたことを。そして、その近衛兵の名前は思い出せないと突っぱねたという。
マリーには、看守までも、友に、助手に、召使にしてしまう魅力があるらしい。最も厳しい監獄にありながら、特別なご馳走を用意したり、好きな飲料水を他の地区から持ってきたり、髪を結いましょうと申し出たりと、陰ながら尽力しようとした見張り役も少なくなかったようである。タンプル獄からの一連の試練が、彼女に死を覚悟させ、気高い振る舞いをさせたのであろうか...
「危険というものは一種の硝酸である。可もなく不可もない生ぬるい生活状態では、見分けがたく入りまじっているものが、... 人間の果敢と臆病が、この試験を受けると分離する。」

9. 革命裁判
1793年、フランス革命は危殆に瀕する。最強の砦マインツとヴァランシエンヌが陥落し、イギリス軍が重要な軍港を占拠。パリに次ぐ大都市リヨンには叛乱がおこり、植民地は失われ、パリは飢餓に襲われ、民衆は意気消沈し、共和政府は没落寸前。もはや自殺的な挑戦あるのみ、それは恐怖を吹き込むこと。そして、リヨン大虐殺の蛮行に走る。革命裁判の暴走は、断頭台を活況とさせる。過激政策を非難する者には、裏切り者の名を与え、ことごとく処刑。その矛先は、マリーにも向けられ、最初から処刑ありきの裁判へ。
ところで、古来、マリー・アントワネットの伝記を書く者にとって、大きな謎とされる事があるという。それは、王太子の母に対する不利な証言と、擁護者たちの屈折した証言である。子が生みの母を誣いる陳述をしたことは、歴史にもあまり例を見ない。暴力で脅した様子もなければ、酒を飲ませて意識を朦朧とさせた形跡もない。王太子の態度は、証人席に腰掛けて足をぶらぶらさせるなど、遊戯的な厚かましさが記録されるという。お喋り屋さんで、聞いたことをすぐに口にする癖があったとか。とはいえ、まだ8歳のガキだ!王妃の情熱的な擁護者たちも、ばかに回り道をした説明や、とんでもない曲解に逃れたりしているという。幸か不幸か、母マリーは常に獄中にあったので、王太子の途轍もない陳述をすぐには知らない。死の前々日になって、ようやく告訴状によって屈辱を知るのである。
裁判が始まると、千差万別の罪状が時間的にも論理的にもつながりがなく、雑然と持ちだされる。おまけに馬鹿げた証言ばかり。ある侍女は、王妃がヨーゼフ2世に巨額の金貨を送ったのを聞いたとか... オルレアン公を殺すつもりで常に二挺拳銃を携帯していたとか... 裁判が、物笑いの餌食にするための喜劇を演じるならば、証拠なんぞどうでもいい。しかし、ギロチン刑で処すとなれば、大罪人である証拠がいる。罪があるとすれば、浪費家が国家財政を圧迫させたこと。そして決定的なのは、王位を奪還するために、オーストリア大使にフランス軍の進軍計画を漏らしたこと。
裁判中、マリーはちっとも動じない。最初から死刑と決まった裁判を引き伸ばす必要が、どこにあろう。この世でなすべきことは、二つしか残されていない。毅然とした態度で自己を弁護し、自若として死ぬことだ。ハプスブルグ家の皇女であり、依然としてフランス王妃であることを、国民に誇示するしか道はない。そして、妹エリザベス女公に最後の手紙を宛てる。
「愛する妹よ、いま貴女に最後の手紙をしたためます。いま判決を受けてきたところですが、恥ずべき死ではありません。犯罪人にとってのみ死刑は恥ずべきことであります。」

10. マリーの死後
斬首されると、共和国万歳!の叫びがこだまする。しかし、そんな一時もすぐに忘れられる。恐怖政治では、明日は我が身!実際、墓穴を掘るにも金がかかり過ぎるほど、続々と断頭台に送られていく。ダントンしかり、ロベスピエールまたしかり...
一方、皇女を救おうとしなかったハプスブルグ家は、良心に苛まれる。後に、ナポレオンはこう語ったという。
「フランスの王妃について深く沈黙を守ることは、ハプスブルグ家において固い掟であった。マリー・アントワネットという名前が出ると、彼らは眼を伏せ、迷惑な手痛い問題を避けようとするかのように話題をかえる。この掟は家族全員が守るばかりでなく、国外駐在の使臣たちにもそれとなくいい含められていた。」
さて、マリーの死後も変わらず、最も忠実な人はフェルセンだったという。彼女への思いを妹に書簡しているとか。しかし、遺児の娘はフェルセンに話しかけることも許されず、オーストリア宮廷の滞在も拒否される。ヴァレンヌ脱走劇で、ルイ16世の命に従って、王妃を残して去った6月20日のことを悔いたという。
フェルセンは故国で有力者になる。元帥となり、王の顧問となり、次第に支配者型の人物になっていったとか。彼は、王妃の処刑からか、民衆を悪意ある賤民、卑劣な下民として憎悪したという。民衆もまた彼を憎み返し、フランスに復讐するために、自らスウェーデン王になろうとしていると吹聴される。スウェーデン王太子が死ぬと、フェルセンが毒殺したという噂まで。マリーがそうであったように、フェルセンもまた民衆の餌食とされ、暴力分子に惨殺される。6月20日の運命の日に...

"不思議宇宙のトムキンス" George Gamow, Russell Stannard 著

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懐かしやトムキンス!物理学を専攻した者で、トムキンス冒険物語の存在を知らぬ者はいないだろう。たとえ読んだことがなくても... 定常宇宙説と膨張宇宙説の論争が旺盛な時代、物理学者ジョージ・ガモフは、時空の歪曲や膨張宇宙といった難解な物語を、初心者向けに書き下ろした。近年、この手の科学啓蒙書は当たり前のように書かれ、おいらも学生時代、ブルーバックス教の信者であった。しかし、その先駆者の存在感は衰えるどころか、むしろ輝きを増してやがる。
本書は、ラッセル・スタナードによる新版で、時代に即してオリジナル版からかなり改訂されている。尚、主人公C.G.H.トムキンスは物理学に興味を持つ平凡な銀行員、イニシャルは光速c, 重力g, プランク定数hに由来する。

さて、相対性理論に触れると、最初にぶつかる疑問がこれであろうか。すべての運動が相対的と言っておきながら、光速だけは絶対速度とは、これいかに?やはり神は存在するのか?なぁーに、心配はいらない!光速が不変ならば、時間や空間の方を可変にすればいい。神だって、ご都合主義よ。
人間は、3次元 + 時間という認識空間を生きている。だが、時間次元だけは明らかに異質だ。こいつだけは逆戻りできない。これを説明するために、アインシュタインは時間と空間を区別しない時空という概念を持ちだした。時間と空間は光速に対して数学的に対称性がある、ということにすれば、双方を入れ替えても物理法則が成り立つという寸法よ。そもそも時間が一定などというのは疑わしい。心地よい事は瞬く間に過ぎ去るくせに、忌わしい事はいつまでも居座ってやがる。死に際には走馬灯を見ると言うではないか。時計なんぞで一定に刻まれるとするから、時間依存症で苛む。
人間が何かを認識するには、なんらかの比較の対象を必要とし、その対象を一時的にスタックする機能が求められる。格納された情報は前後関係で結びつけられ、情報を取り出す順番が時の流れを作る。これが記憶のメカニズムだ。人間ってやつは、事象をなんらかの関係で結び付けないと、思考することすらできない。つまり、時間なんてものは、関係によってもたらされる概念であって、認識の産物に過ぎないとでもしておこうか。物事を時系列で秩序立てると、自己存在の瞬間が確認できて、心が落ち着くわけだ。ならば、何も認識しなければ、人間は自然物のままでいられるのか?と問うても、そんなことは知らん。ただ言えることは、質量を持つものはみな、相対性に幽閉された存在だということぐらいであろうか...

まさに、ニュートン力学は質量を持った物体を対象とする。この世界においては、空間と時間は完全に独立した物理量で定義され、すべての運動は時間の関数で記述される。つまり、あらゆる現象は連続性で説明できるという仕掛けだ。対して、量子力学では質量ゼロの素粒子が登場しやがる。光子やら電子やらがそれで、宇宙空間を自由に飛び回ることができる。電子が気の毒なのは、原子核に縛られることである。いや、M性が病みつきになって、自ら自由を放棄したのかもしれん。もともと自由電子と呼ばれたはずだが...
量子の存在は統計的にしか扱えない。不確定性原理は、位置と運動量といった同時に二つの物理量を決定できないという制約を課す。光が絶対速度で決定されるなら、光子の位置ぐらい決定できそうなものだが、そうもいかないらしい。素粒子などと呼んでいるが、本当に粒子なのか?質量もなければ、まるで霊感のような存在。人体が量子で構成されるからには、霊感の強いヤツがいても不思議はあるまい。
また、アインシュタインのあの有名な公式は、エネルギーと質量の等価性を示している。つまり、無から物質を作ることはできないが、エネルギーからは物質を作ることができると言っているのだ。おまけに、エネルギー状態への移行は、プランク定数の定義で離散的にしか行えないことになっている。つまり、宇宙空間のどこでも、何かが突然湧いて出るかもしれないと言っているのだ。物心がつくとは、そんな状態であろうか?実存観念の本質とは、物質よりもエネルギーの方にあるのかもしれん...

1. 同時性の問題
特殊相対性理論は、一様で一定の運動をする系における、時間と空間の関係を論じている。すなわち、等速運動を唱えている。一般相対性理論は、これに重力の作用を加えて抽象度をあげている。すなわち、重力場と加速度運動との等価性を唱えている。重力場とは、空間が曲がっていることの物理的現れであり、その曲率は光線の曲がり具合を観察すればいい。絶対速度が歪めば、時間も歪む。つまり、二点における時間差は、双方の重力ポテンシャルの差で決まることになる。太陽表面上の出来事は、重力ポテンシャルの違いにより、地球表面上よりもゆっくりと進行するだろう。象さんのように体重が大きくて動作が鈍そうに見えても、時間の長さは同じように感じているのかもしれん。
さて、絶対速度が存在するとは、何を意味するだろうか?光速を超えられないとすれば、宇宙現象の同時性なんぞに意味がないということか?少なくとも時間に幽閉された生命体には、そんな気がする。そもそも運動しているかどうかなど、どうでもいいのでは?いくら生に意義を求めてもいずれ無に帰するし、どんなに足掻いても絶対静止には敵わんよ。しかし、生に意義を求めなければ、人生なんて退屈でしょうがない。なるほど、暇つぶしに意義を与えるとは、絶対速度恐るべし!
宇宙年齢が計測できるのも、絶対速度のおかげである。ビッグバン宇宙論が正しければ、絶対速度を物差しとしながら宇宙の果てから届く光を観測すればいい。観測するということは、認識するということ。もし、完全な同時性が成立すれば、宇宙年齡どころか、自分の年齡すら認識できないかもしれない。
しかし、同時性が成立すれば、後悔せずに済みそうな気もする。何事を知るにも、直接経験しない限り、事後報告によってもたらされるのだから。実際、人間社会では既成事実を作った者が勝つ。事実よりも風説流布の方が、はるかに波動エネルギーは巨大だ。光速を絶対速度に崇めれば、それが神となりうるだろうか?いや、いつも一緒だよ!なんて神の前で誓っても当てにはならない。人間社会にとって、絶対的な同時性なんてものは邪魔な存在かもしれん。あるいは、同時性という自由を放棄したからこそ、認識能力というものが成り立つのかもしれん。

2. マクスウェルの魔物
第一種永久機関は、外部からエネルギーを受けることなく、仕事を外部に取り出す機関で、エネルギー保存則に矛盾して実現できないとされる。
一方、第二種永久機関は、何もないところからエネルギーを取り出すのではなく、大地や海や大気といった周囲の熱源からエネルギーを取り出すので、理論的にはイケそうな気もしなくはない。例えば、石油や石炭を燃やす代わりに、水から熱を取り出すといったことが。とはいえ、冷たいものから熱いものへ自然に熱が移動するのも考えにくい。案の定、量子力学は、確率が思いっきり低いというだけで、不可能とまでは言わない。それが、マクスウェルの悪魔ってやつだ。本書は「魔物」と呼んでいるが、物語にはこちらの方がしっくりくる。
個々の分子を観察すると、中にはすばしこいヤツがいる。運動方向を自在に変えられるような。熱力学の第二法則、すなわちエントロピーの法則に逆らうようなヤツが、原子や分子レベルで確率的に存在する可能性がないと言い切れるか?という問題提起である。この魔物にかかれば、瞬間的に熱を移動させ、平坦なところにも温度勾配を作ることだってできるかもしれない。宇宙が138億年も存在してきたなら、そんな現象が一度ぐらいあっても不思議ではあるまい。
なるほど、市場原理は、しばしばエントロピーの呪縛を破って、ブラックホールに吸収される。魔物を見たければ、メフィストフェレスがうようよしてそうな人間社会を観察すればよかろう。そういえば、目の前のウィスキーがいつの間にか無くなっている。突然、魔物が蒸発熱を発したからに違いない。

3. M性な電子たち
「偉大なる建築家ニールス・ボーアが建立(こんりゅう)された美しき原子構造の内部には、さまざまな量子部屋がありましてな、遊び好きの電子たちをそれぞれの部屋に正しく住まわせておくことがわたしの務めというわけです。秩序と規律を保つために、同じ軌道には二つの電子しか飛ぶことを許しておりません。三角関係はトラブルのもとですからな。おたがいに逆のスピンをするもの同士がカップルになっているのがおわかりでしょう。性格が正反対の夫婦のようなものですな。部屋がそうしたカップルで占められてしまえば、第三者の乱入は許されません。これは良くできたルールでして、破られたことはただの一度もありません。電子たちも、これが健全なルールだということはわかってくれているのです。」
良くできたルールかもしれんが、自由を謳歌したい者には甚だ迷惑!一般的に、電子殻にはエネルギー準位の低い方から、K殻, L殻, M殻, ... という居場所が用意されている。ナトリウム原子の価電子となったからには、運命を受け入れるしかない。ナトリウム原子核は、電子を11個抱えており、そこに塩素原子が近づくと、M殻に空きを見つけて穴を埋める。そう、心の隙間を埋めるのだ。電子が不足して原子核がカッカしてくれば、マイナスイオンのひとときを差し上げますわ!って。M性同士がM殻で同居するとは、よくできたものよ。
しかも、パウリの排他原理によって、一つの軌道に同じスピン状態の電子が同居できないときた。M性のくせしやがって、独占欲だけは強い。原子核が負担になる余分な電子を抱えれば、移り気が激しく精神が不安定となる。電子はいつも安定社会への引っ越しを求め、数千個に及ぶ原子が結合したりする。中にはDNAってヤツも居て、昔の思い出に縋りながら必至に忘れまいと、二重螺旋構造というバックアップ機構まで具えてやがる。男性諸君もまた女王様を囲む電子のような存在よ。どうりで、簡単には楕円軌道から逃れられないわけだ。だが、心配はいらない。強烈なオーラを放射する小悪魔が近づけば、簡単にスピンアウトできる。ただ、結婚は恐ろしい!と経験者は愚痴っている。法律という紙切れ一つで、生涯の軌道が運命づけると聞いた。
ところで、電子の寿命は永遠ではないらしい。突然消滅したり。物質とは、役目を終えれば果敢ないものよ。光子にしても光を伝え終えれば消滅する。電子の死は、衝突によって生じるという。問題は衝突の激しさではなく、衝突する相手だ。負電荷を持つ者同士であれば問題ないが、中には正電荷を持つヤツがいる。陽電子ってやつだ。ポジトロンなんてニックネームがあるが、まったくポジティブに見えない。普段は粒子として振る舞いながら、電子と出会った途端に「対消滅」を起こす。無理心中か!同じ電子同士だと思って油断していると、えらい目にあう。合体でもしようものなら身の破滅よ。

4. 素粒子はどこまで素粒子なのか?
物質はこれ以上分割できない基本要素から構成されるという考え方は、古代ギリシアの哲学者デモクリトスまで遡る。atomには、ギリシア語で「分割できないもの」という意味がある。また、物理学では、同じ原子構造を持ちながらアイソトープ(同位体)で区別する。原子核における陽子の数が同じでも、中性子の数が違えば質量も違ってくるので、もっともな見方である。
「中性子だけで置いておくと、たしかに不安定なんじゃがの。原子核内にきっちりと詰め込んで周囲を他の粒子で固めておけば、きゃつらもずいぶん安定するんじゃよ。それもまあ、原子核内の陽子の数にくらべて中性子の数が多すぎなければの話じゃが。もしそうなると、中性子は余分な塗料をマイナス電荷の電子として原子核外に放出して陽子に変わってしまうんじゃ。同様に、陽子の数が多すぎる場合には、陽子は余分な塗料をプラス電荷の電子として放出し、中性子に変わってしまう。こうした調節を、わしらはベータ崩壊と呼んどるんじゃがの。ベータというのはこうした放射性崩壊によって放出される電子につけられた古い呼び名じゃ。」
宇宙は広大なのだから、なにも原子核なんてちっぽけな住まいに、ひしめき合わなくてもいいのに。質量あるものは、満員電車を好むらしい。
さらに、陽子や中性子を構成する物質にクォークが発見されると、アイソスピンという回転の仕方で種別される。本当にスピンしているのかも疑わしいが、物理的にスピンしているような性質を持っているということであろうか。少なくとも、量子状態として見ることはできそうである。この状態を「フレーバー(香り)」と呼び、アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トップ、ボトムの6種類で区別される。なぜ香り(flavor)と言うかは知らんが、気配のようなものであろうか?霊感のような...
ただ、すべてに物質が、クォークからできているわけではない。クォークからできているのは重粒子と中間子で、ハドロンと呼ばれるやつ。ハドロンは強い核力を感じるが、軽粒子と呼ばれるレプトンは感じないという。レプトンもスピンの仕方で種別される。
ところで、スピンのパターンには、驚くべき対称性の法則がある。
「自然界にはSU(3)の対称性が成り立っている」
数学には、対称性を観察するのに、群論という便利な道具がある。中でも角運動量にピッタリなのが、ユニタリってやつだ。数学オンチは、こいつで随分と悩まされてきたのだが...
SU(Special Unitary)群とはユニタリ群の部分群で、(3)とは3回転対称性を表す。つまり、±1/3(120度)、±2/3(240度)、±1(360度)で同じ状態になることを意味する。そして、アップクォーク(u)とダウンクォーク(d)で構成される陽子は(u, u, d)、中性子は(u, d, d)と表記される。スピン状態が離散的であるのは、電子軌道が離散的であるのと同様に、プランクエネルギーの介在を想像させる。もっと言うと、スピン状態の離散性が、量子コンピュータの記憶素子としての可能性を匂わせるわけだ。ただ、状態遷移ではかなりのエネルギーを消費するだろう。量子の世界では、なにかと「ポテンシャル障壁」と呼ばれるエネルギー障壁がつきまとう。
また、人間の対称性への思いは、留まるところを知らない。粒子には必ず対となる反粒子が存在するとされる。質量とスピンを同じとし、電荷を逆転させて存在を相殺させるわけだ。粒子と反粒子が衝突すれば、エネルギー保存則に矛盾なく、丸く収まるという寸法よ。こんな仕掛けで、質量の存在を説明できるのかは知らん。確かに、反粒子だけ消滅すれば、質量が残りそうな気がするが、反粒子の方が残るってことはないのか?いや、あるだろう。人間の認識空間に見当たらないだけで。いずれにせよ、素粒子レベルともなると、スピンの仕方の違いだけで物質の存在を抽象化できてしまう。
さらに、話題が超ひも理論にまで及ぶと、物質の存在は単なる振動でしかないってか。いくら人間の個性や人間社会の多様性を強調したとこで、しょぼい存在よ。人間ってやつは、ヒモという背後霊に憑かれた存在というだけのことかもしれん。社会がヒモになり、組織がヒモになり、家族がヒモになるとなれば、女のヒモになるのを夢見る男性諸君で溢れてやがる...

"人類の星の時間" Stefan Zweig 著

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ほんの一瞬に過ぎ去るからこそ輝いて見える...
毎日が栄光に満たされていれば、退屈病に襲われる。無数の凡庸人で溢れているからこそ、一人の天才が出現する。芸術精神もまた、地道な思考の繰り返しの中から、霊的なものに憑かれる一瞬によって創造される。閃きってやつだ。そして、無限の坦々たる時間が流れ去った後、歴史に刻まれる一瞬が生まれる。平凡の内に一瞬にして宿る天才的資質とは、歴史のみが発明しうる矛盾とでもしておこうか...
時世の勝利者が、歴史の勝利者となるわけではない。どんな星の下に生まれ、どんな運命を背負うかは、やってみなきゃ分からん。だからこそ、終世、活力ある生き方をしたいと願う。情熱を持ち続け、若さを保つ秘訣は、やはりホットな女性との恋ですかねぇ... ゲーテ爺ちゃん!

ツヴァイクの仕事は確固とした形に打ち鍛えられているが、中心にはいつでも炎が燃えている。...  リヒャルト・シュペヒト

「ジョゼフ・フーシェ」や「マリー・アントワネット」の本格的な歴史叙述とは違い、ちと趣向(酒肴)を変えた12の物語。歴史の影に潜むウンチク話とは、いかなるものであろうか。得てして、こうした裏話の方に歴史の本質が隠されているものである。現象を皮相的に捉えるのではなく、心情的現象としていかに解釈するか、これぞ歴史小説の醍醐味であろう。
「歴史は余計な後押しの手を少しも必要とはせず、ただ畏敬をもって叙述する言葉だけを必要とする。」

1. 大罪人の逃亡劇から生まれた太平洋の発見
コロンブスの堂々たる誇張癖は、アメリカ大陸をインドだと思い込み、無尽蔵の金があるとスペイン王に報告させた。そして、デスペラードどもがこぞって黄金郷に群がり、数年間で土着民の人口を根絶に致しめる。荷箱に入って密航したバスコ・ヌニェス・デ・バルボアもまた、そうした一人。スペイン王が派遣した総督が命を失ったのも、彼のせいだという。
しかし、スペインは遠い。断頭台に送られる前に権力の横領を正当化するには、なんらかの功績が必要だ。当初、フランシスコ・ピサロと協力して土着民から略奪するが、未開の地を探検するには原住民を味方にする方が得と見て、小王国コイバの酋長カレタの娘を妻にして同盟する。
そして、パナマ地峡の横断に挑む。兵士190人を派遣し、原住民を運搬人や案内人にし、病人や足手まといは見捨てられるという苛酷な旅。土着民の話によれば、ある山の頂上から二つの大洋、すなわち、大西洋とまだ名の付けられていない太平洋が見下ろせるという。山頂に近づくと、あと一歩というところで、バルボアは行進停止を命令する。太平洋を初めて見るキリスト教徒は、自分でなければならないからだ。さらに、酋長は「南の海」の彼方にある国の名を言った。ビルー!どうやらペルーのことらしい。
一方、スペイン王は、バルボアを処罰するために、ペドロ・ペドラリアス・ダビラを派遣して総督に任命した。だが、バルボアの偉業を知ったスペイン王は、、バルボアを臨時総督に任命し、二人で計るよう命令する。次の目標は、新世界の黄金郷を征服すること、すなわち、誰よりも先駆けてペルーを征服すること。しかし、兵員や物資の不足に悩まされ、今度は幸運に恵まれず、その功績を戦友のピサロに譲る。ピサロは、インカ帝国の征服者として知られる人物。バルボアの失敗は、ダビラの嫉妬の餌食に合い、断頭台へ送られる。
「運命というものは運命の寵児たちに対してさえ、決して過度に寛大であることはない。運命の神々は一人の人間に一つ以上の不滅の行為を恵んでさせることは稀である。」

2. コンスタンティノープル陥落のあっけない真相
オスマントルコの穏健な皇帝ムラード(ムラト2世)に代わって、ずるく精悍な若い王子マホメット(メフメト2世)が帝位に就くと、ビザンチンの人々を恐れさせた。トルコ人によって包囲され、最後の皇帝コンスタンティヌス・ドラガセスの帝位も風前の灯。ドラガセスは何度もイタリアへ援軍を要請するが、古来カトリック教とギリシア正教の遺恨は深い。
とはいえ、西方教会も東方教会も元を辿れば同じキリスト教であり、共通の強敵が出現すれば、ローマ法王の特使とギリシア正教の総主教グレゴリウスが肩を並べて和解のミサを行うという奇跡も起こる。しかしながら、歴史において、理性と和解の瞬間ほど、すぐに過ぎ去るものはない。聖堂の中で共同の祈りが行われている間も外では罵り合う始末。またもや狂信主義者どもによって引き裂かれた。
しかし、包囲戦が始まっても、千年に渡って補強されてきた難攻不落の城壁は、最新の大砲をもってしてもびくともしない。マホメットは、どんなに大金を払っても、新しい攻撃手段を作るとの声明を出す。大砲の鋳造家ウルガス、あるいはオルバスという名のハンガリア人はキリスト教徒で、以前コンスタンティヌス皇帝にも仕えていたという。彼は「弩砲」と呼ばれる新型の大砲をこしらえ、マンモスのような大砲の群れが城壁の前に出現した。だが、歴史を変える決定弾とはなりえない。
この時代のトルコとビザンチンの国境は地理的に分かりやすい。ボスポラス海峡のアジア側の海域がトルコ。深く陸地に入り込み、盲腸みたいな形をした「黄金の角」と呼ばれる湾港が、自然の要害となっていた。マホメットは、ハンニバルやナポレオンに匹敵するほどの空想家だという。湾港に船団を侵入させることが不可能と見るや、船団を山越えさせるという途轍もない計画を実行したとか。ハンニバルやナポレオンが、突然アルプス越えでオーストリア人を脅かしたように。だが、これも歴史を変える決定弾とはなりえない。
さて、城壁をめぐる激烈な攻防戦にあって、およそ起こりえないことが起こるものである。「ケルカポルタ」という城門だけが、なぜか?開いたままだったとか。平和時には歩行者たちの通用門として使われるちっぽけな門が、興奮のるつぼの中うっかり忘れられていたのか?歴史的な戦闘が、こんなにあっさりと城門を突破させるとは、なんと間抜けな話!

3. ヘンデルの復活に見る「メサイア」誕生秘話
1737年、急に倒れたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは四ヶ月もの間、まったく身動きができぬ無力の状態にあったという。話すこともできず、右半身不随となり、医者が諦めるほどの重病だったとか。短気な性格が、急激に精神を病ませたのか?医者が熱い湯に3時間以上入ってはいけないと警告したにもかかわらず、毎日9時間も入って意志力を回復させ周囲を驚愕させる。音楽に対する執念がそうさせたのか...
しかし、せっかく創作意欲を取り戻したものの、時代は彼に敵対する。女王崩御のための上演は中止され、スペインとの戦争が始まると民衆は音楽どころではない。評論家からは冷笑され、借金がかさみ、心は暗澹とし、ますます自己に閉じこもる。
1741年8月21日、そんな絶望の日に小包が届く。「サウル」と「エジプトにおけるイスラエル」の台本を書いた詩人ジンネンスからの手紙を添えて。
「新作の詩をお送りする、音楽のけだかい守護神、音楽の不死鳥が、願わくば彼の貧寒な詩に慈悲を垂れて、その翼に乗せて、永遠界の大空に天(あま)がけり給わんことを...」
お前まで嘲るか!と憤るヘンデル。もう一度、冷静に台本を手にしてみると、最初の言葉に「慰めあれ!」とある。この言葉が、彼の本能を刺激したのか?得体の知れぬ好奇心のようなものが、そうさせたのか?一度、肉体の麻痺から立ち上がらせたヘンデルを、今度は、精神の麻痺から立ち上がらせる。そして、歓呼のフレーズに出会う。「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!(神を頌せよ)」そう、あの名曲だ。三週間自室に閉じこもり、魔術的な素早さで完成させたという。時間の観念をまったく失い、リズムと拍子だけが支配する空間とはいかなるものであろうか...
1742年4月13日、アイルランドの首都ダブリンで講演。この演奏で得た金は、心を開いてくれた感謝とともに、すべて寄付することに決めたという。1759年、重い病にあるヘンデルは74歳。最後の審判を仰ぐ日を、聖金曜日としたいと願う。それは、ちょうど4月13日、メサイアの初演を飾った日。自分が更生されたその日に、世を去りたいというわけか。実際、この無比なる意志力は、死の時期までも支配することに...

4. 一晩だけ宿った才能が生んだ「ラ・マルセイエーズ」
フランスは、急進派の勢いでオーストリア皇帝とプロイセン王に宣戦布告。1792年4月25日、革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届く。市長ディートリヒ男爵は、大広場で宣戦布告文書をフランス語とドイツ語で読み上げた。初めての軍歌「サ・イラ」は、連隊の歩調とともに軍隊的な調子を帯びていき、カフェやクラブでも歌われる。ディートリヒは、乾杯の時に側にいた要塞守備隊のルジェ大尉が、憲法発布時に自由のための歌を作ったことを思い出し、明日進軍するライン軍のために軍歌を作ってくれと頼んだという。ルジェは、正当な理由もなしに貴族っぽいルジェ・ド・リールと名を変えていたとか。そして、翌日生まれたのが「ラ・マルセイエーズ」。凡庸な才能が、一晩にして天才的な霊に憑かれるとは...
この歌が革命の象徴へと育っていくと、逆に作曲家の名は忘れ去られる。ルジェ・ド・リールという名は、誰一人として顧みる者はなく、楽譜にも名が印刷されなかったという。しかも、この作曲家はまったく革命的でなかったとか。パリの民衆が「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら、チュイルリー宮を襲撃して王位を引きずり下ろした時、革命に酷く幻滅。共和制に宣誓するのを拒み、軍人としてジャコバン党に奉仕するよりも、軍籍から去ることを望んだという。彼は、外国の王冠をかぶった暴君たちを憎んだが、それに劣らず、国民議会の新奇な暴君たちと専制者たちを憎んだという。革命の公安委員会にも公然と反感を示し、革命の象徴を作った男が祖国を裏切った罪に問われた。まだしもギロチン刑にされれば、歴史に名を残したかもしれない。やがてフランス国歌となる作曲家は、地味なうちに人生を終えたという...

5. ナポレオンを百日天下とさせたグルシー元帥
歴史は奇妙な気まぐれによって、重大な運命をそれに相応しくない人物に委ねることがある。凡庸人は、高い地位を得たり、大金を得たりすると、ほんの束の間の幸せを味わうことに没頭する。更なる高みに上る機会を掴んでもなお欲望に溺れ、自己を高めようとはしないことが、凡庸たる所以であろうか。
ウォーターロー(ワーテルロー)の決戦の瞬間が、まさにそれだ。西洋史において、この時代ほどイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアの王侯たちが一致団結を見せたのも、珍しいのではあるまいか。北方からはウェリントンが進軍し、それにブリュッヘア元帥が指揮するプロイセン軍が続く。ライン河畔ではシュヴァルツェンベルクが戦備を整え、後方にはロシア軍。ナポレオンはプロイセン軍をや破り、その追撃を命じた。追撃隊を一任されたのはエマニュエル・ド・グルシー元帥、3分の1もの軍隊を任せる。20年間の数々の戦場で戦うが、目覚ましい功績もなく、ゆっくりと元帥まで昇進した人物だという。ナポレオンの天才的直感とは正反対に、自発的な行動に慣れない人物だとか。ナポレオンも、その器を見抜いていたらしいが、なにしろ忠実な人物。独裁的な人物ほど、やたらとイエスマンを好むようである。
しかし、戦争のような混沌とした状況では、応用力と決断力こそが決め手となる。雨の中、泥道をゆっくりと進軍し、敗走するプロイセン軍の足取りは依然つかめない。農家で朝食をとっていると鈍い轟音が。ナポレオンがイギリス軍を大攻撃しているのは明らか。副官は、大急ぎで砲声の方へ向かうべきだと進言する。だが、ひたすら服従で昇進してきた人物は、新たな命令がない限り、自分の義務から外れるわけにはいかない。副官ジェラールは、自分の分隊だけでも援軍に行かせてくれと歎願するが、拒否される。もう一人の副官ヴァンダームも、この判断に憤慨。その間、ウェリントンはフランス軍の4回の攻撃を押し返すものの、かなりのダメージを受ける。総攻撃を命じようとしたその時、森の中から援軍が現れた。どちらの援軍か?言うまでもなく、ブリュッヘア。3分の1の部隊が無意味にうろつきまわっている間に、プロイセン軍はいち早くイギリス軍と合流したのだった。わずか4時間の地点にありながら、いまだのんびりと追撃を続ける。副官たちは敗戦を悟ったのか、死に場所を求めるかのように森をさまよう...

6. 老人の失恋から生まれた芸術詩「マリーエンバートの悲歌」
1823年9月5日、カルルスバードからエーガーの国道をゆっくりと走る一台の四輪馬車がある。中には、ザクセン・ヴァイマル大公国の枢密顧問官フォン・ゲーテと、老僕と秘書ヨーンの三人。それは、沈黙の旅であったという。74歳のゲーテが19歳の娘ウルリーケ・フォン・レヴェツォフに求婚するも、確かな返事がもらえない。ちなみに、1822年2月、ゲーテは何度も意識を失うほどの重病にかかり、死を感じたという。医者たちも手の施しようのない病状だったとか。そりゃ、恋の熱病は誰にも治せんよ。
6月には、マリーエンバートへ行き、深夜まで女性たちと戯れたとか。お爺ちゃんが、マリーエンバートからカルルスバードへ愛する者を追うが、やはり返事はもらえない。心の中を秋風が吹き抜ける帰路で作られたのが、マリーエンバートの悲歌。
「人が苦しみのあまりに無言になるとき、自分で苦しんでいることを言い現わす術を、一人の神が私に授けている。」
昔馴染みのウェルテルにでも目覚めたのだろうか。人生の最後を恋で締めくくることができれば、なんと素晴らしいことだろう。こりゃ負けちゃおれん!と呟いて、さっそく夜の社交場へ消えていく一人の男を、鏡の向こうに見かける...

7. 西部開拓史を先駆けた破産屋
1834年、西部開拓史の始まりを予感させる時代、ヨーハン・アウグスト・ズーターという男が、妻子を置き去りにしてニューヨークへ渡ったという。破産屋、泥棒、手形偽造者の彼は、荷造人、薬種商、歯医者、売薬商人、居酒屋の主人、宿屋の主人などをやり、時流に乗ってミズーリーへ。そして、財産を売り飛ばして、誰も見極めていないカリフォルニアを目指す。
当時、哀れな漁村だったサン・フランシスコを見て、この土地が大農場に適しているばかりか、一つの王国を建てるに相応しいと感じたという。そして、知事と面会し、開拓権を得る。農場建設から、続々と入植者が流れこんできて、運河や製粉場や工場が作られる。やがて、蒸気機関車がアメリカ全土を横断し、イギリスやフランスの最大の銀行に資金を持つ。45歳で成功した彼は、見捨てた妻子を呼び寄せた。
1848年、使用人の大工ジェイムズ・W・マーシャルが土を掘っていると黄金が出てきたと、慌てて駆け込んできた。これでさらに富めるはずが、瞬く間に噂が広まりコールドラッシュ!銃で意志を通すしか知らない連中が大挙して押し寄せる。従業員たちも仕事が手につかず、巨大経営も停止。財は奪われ、またもや破産屋となる。妻子が到着した時、妻は旅の疲労で死に、三人の息子は静かに農業経営に励む。真の西部開拓史は、ズーターよりも、むしろ三人の息子によって受け継がれているのかもしれん。
1850年、カリフォルニアがアメリカ合衆国連合に組み込まれると、法の秩序がもたらされる。ズーターは、失った土地や運河や製粉場などの所有権を主張して倍賞請求する。1855年、裁判はズーターの権利を認め、世界最高の富豪に返り咲く。だが、またもや致命的な打撃を受け、破産屋へ引き戻す。判決が世間に広まると、民衆が暴動を起こし、裁判所を襲ったのだ。農園は焼かれ、財産は略奪され、長男は暴徒たちに強迫されて拳銃自殺、次男は殺害、三男はスイスに帰る旅で溺死。
辛うじて命を救われたズーターは、すべてを失って気が狂う。25年が過ぎ、数十億ドルの権利を請求しようと惨めにワシントンの裁判所の周りをうろついていると、そこに訴訟をそそのかす弁護士やペテン師がつきまとう。事件を派手に演出するために、おかしな将軍の制服を着せられたりと、不幸な男はまるで操り人形。役人たちの嘲笑の的となった彼は、乞食として死んでいったという。
「依然としてサン・フランシスコとその一体の土地は、他人の所有地の上に立っている。これについての権利のことが問題とされたことはまだない。」

8. ドストエフスキーの作風の転換点
夜中に突然眠りから引きずり起こされると、地下の幽閉室にはサーベルの音がガチャガチャ鳴る。馬車にいきなり押し込まれれば、まるで車輪に揺られる墓穴。行き先は処刑場。
中尉が宣告文を読み上げる... 銃殺刑!
コサック兵が目を布で隠そうとすると、見えなくなる前に辺りをむさぼり見る。光を失った瞬間、忘れ去られていた過去が蘇る。鼓動は静かに弱まり、突如として溢れる浄福感。弾丸をこめる音と、太鼓の音が空気を揺さぶり、その一瞬が永遠に感じられる。
その時、叫び声が聞こえた... 処刑中止!
士官が命令書を読み上げる。皇帝は聖なる意志によって恩赦を与えると。死は突然、こわばった手足の関節から立ち去る。これを機に、ドストエフスキーの作風が社会主義から、キリスト教的人道主義へ変化したとされる。
「そしてそのとき彼は、地上のすべての苦悩が、全世界にその悲しみを熱烈に叫びつづけているのを、今初めて聴きとった。ささやかな者らの声、弱い者らの声、むだな献身をした女たちの声、自嘲する娼婦らの声、つねにしいたげられる者らの黒い恨みの声、どんな微笑にも心をうごかされない孤独者らの声、すすり泣いて悲しみなげく子供らの声、そして、こっそり誘惑におちいった者らの無力な悲嘆、悩みをになっているあらゆる人々の声を彼は聞いた。... 死の中に生をさとった人間にとっては、苦悩が喜びに代わり、幸福が苦痛に変わる。」

9. 時間と空間の概念を変えた大西洋横断ケーブル
サイラス・W・フィールドは、技術屋でもなく、電気の知識もなかったという。だからこそ、海底ケーブルという単純な発想が浮かんだのかもしれない。そのために会社を設立するが、民間企業だけでは資金調達も難しく、国家を巻き込んだ大プロジェクトとなるは必定。こうした地道で遠大な事業計画は、ある種の使命じみた執念が必要である。専門家からも馬鹿にされる。なにしろ、水に弱い電気を海の中に通そうというのだから。
途轍もない遠距離の電線を運ぶだけでも、どんな船舶を用意すればいいか想像もつないし、電線を通したからといって性能テストがうまくいくかも分からない。嵐の吹く大西洋上で苛酷な作業を強いられ、リスクも高い。おまけに、電線の寿命も計り知れない。実際、電信記号が不明瞭になって、すぐに音信不通になったという。当初、あれほど称賛された電信は、無能呼ばわれ。フィールドは罪なき罪人として悪意のこもった憤慨の的となる。英雄に崇めた人物を、一夜にして大罪人に仕立てあげるのは、マスコミの常套。そして6年間、海底ケーブルは忘れ去られる。
19世紀の最も大胆な計画は、内戦や政治の激動によって話題をさらわれた。沈黙が破られるのは1865年のこと。先人たちの熱意が物理的障害を乗り越えて、今日のネット社会を支えている。大陸間の移動速度、情報の伝達速度は、飛躍的に進化した。
しかし、世界旅行で現地を気軽に見聞できるようになり、地域情報がリアルタイムで得られるようになれば、知識を高められ、普遍的価値というものに素早く到達できそうな気もするが、実際には遠ざかっている感がある。時間と空間の概念は、数倍、数十倍とムーアの法則に従って広がっているというのに。どんなに人体の周りが進化しようとも、内的時間と精神空間は変えようがないということか...

10. 未完成に終わったトルストイの戯曲「光闇を照らす」
1890年、トルストイは自伝的な戯曲を書き始める。それは、彼が計画した家出の正当化と、妻への弁明であったという。人生の決心を見い出せないまま、意志の放棄ゆえに、この戯曲は完成に至らない。主人公は、まったく途方に暮れたままで、ただ神に乞い求め、自己矛盾による分裂を早く終わらせるよう祈るのみ。すべてを清算し、家出を敢行するのは、精神の浄化を求めてのことか?いや、現実逃避か...
ツヴァイクは、この未完に仕えながら終曲を綴る。主人公は、サリンツェフという二重人格者ではなく、トルストイという実存者。
学生は議論を持ちかける... 革命に参加すべきだと、大義名分を大切にすべきだと、数々の人命が牢獄で滅んでいく様を知っているあなたなら、それを文章に書き続けるあなたなら、と...
トルストイは反論する... 暴力を是認したことはないと、暴力なんぞで悪を世界から根こそぎ排除できるなどと本気で思っているのか?それこそ思い上がりだ、と...
「まことの強さは暴力に対して暴力をもってこたえることをせず、その力は謙虚さと通じて相手を無力ならしめるのだ。」
その一方で、贅沢な生活を見捨て、巡礼となって旅することが、自分の義務であることを告白する。自分の人生を心の底から深く恥じると。この悩みまでも自慢するとしたら、まさに思い上がりであると。
「たといただ一つの生命でも、その生命の死の責任がわたしにあるということになるなら、わたしは自分の良心に対してその弁明をすることができまい。」
80を過ぎれば、死を見ないふりをすることはできない。死を目前にしてこそ、決意すべきことがあるはず。学生の問うた、実行すべきことを実行しない理由、それは魂の臆病さにほかならない。そして、遺言をしたためる... 全財産を全人類に捧げると、切羽詰まった良心から発した言葉を金儲けの道具にしてはならないと...
トルストイの妻ソフィアは世間では悪妻と評されるが、ツヴァイクは、死を前に妻を証人として呼び寄せ、彼女をヒステリックにさせたのは夫に責任があることを感じているかのように演出する。娘アレクサンドラ(サーシャ)をともなって家出を決心。これが最後の巡礼の旅となる。そして、小さな停車場アスターポヴォの駅長の宿舎で息を引き取る...

11. 南極点到達で名声は奪われたものの、真の研究家であり続けたスコット大佐
人類の飽くなき知への渇望は、とどまるところを知らない。ナイル川の源泉、アマゾンの森林、チベットの屋根... ついに人類を極点へ導くが、数十年も企てられてきた氷の館は、死骸が横たわる氷の棺と化す。33年後、ようやく発見された亡骸は、スウェーデン探検家アンドレー。気球で北極を越えようとした男だ。
アメリカでピアリーとクックが北極探検の準備をしていた頃、ヨーロッパでは二艘の船が南極に向けて出発。ノルウェーのアムンゼンとイギリスのスコット。スコットは真面目で義務感の強い人物だという。何が彼を冒険に駆り立てたのか?全財産を犠牲にしてまで。船の名は「テラ・ノヴァ(新しい土地)」。彼は風変わりな準備をしている。ノアの方舟のごとく、いろいろな動物を積み、船そのものが近代的な実験室のように研究器具を備え、一行には、動物学者、地質学者、技術者など様々な専門家を伴う。計画は壮大な冒険であるものの、緻密に計算された科学調査団のようである。
1910年6月1日、イギリスを出航。ニュージランド側のエヴァンス岬附近に越冬の家を作る。ところが、西方を探索した者たちが、アムンゼンの越冬の家を見つけて愕然とする。この家が、地図上で110キロメートル極に近い位置にあることを知ったのだ。科学調査団は、突然、冒険家に変貌。しかも、国の威信をかけた。もし、アムンゼン隊を偶然見つけなかったら、緻密な計画の上で無事帰還することも適ったかもしれない。
愛情をそそいできた動物たちを殺しながら、白い荒野をさまよい、30人の隊列は20人になり、10人になり... ついに決行のために選抜された5人は、スコット、バウアース、オーツ、ウィルソン、エヴァンス。最初の功績という歴史的な手柄とは、よほど魅力があるものと見える。もはや名誉だけが意志を支える。そして、南極点に到達するが、アムンゼンのキャンプの痕跡を見つけ、悲しげにユニオン・ジャックをアムンゼンの勝利の旗と並べて立てた。帰路はさらに苛酷となる。行きは羅針盤によって極点に導かれるが、帰り道は見失ったら終わり。不名誉な帰国に意志も挫け、病に一人倒れれば、足手まといにならぬよう死に突進。それでもなお科学者たちは、観測の義務を怠らない。16キロもの重量の珍奇な鉱石を積みながら...
一方、目的地まで同行する名誉を得られなかった仲間たちは、数週間、一行の帰りを待つ。救援しようにも悪天候に見舞わる。南極の春は遅い。10月になって、英雄たちの遺骸と遺言を見出すために出発。そして、凍死した悲壮な姿を発見する。
スコットは、到達競争という意味では敗れた。しかし、だ。貴重な標本を残したという意味ではどちらに軍配を上げるだろうか?歴史の勝利は、ちょいと視点を変えるだけで違ったものに映る。人類の目的が、叡智を伝承することにあるとしたら。実際、南極の景色が、乾板やフィルムとして残され、スコットの手記も貴重な情報をもたらしたという。
「わたしは自分が探検家として価値があったかどうかを知らない。... しかしわれわれの実行の結末は、勇気の精神と克己力とがわれわれの種族から今なおなくなっていないことを証明するだろう。」

12. レーニンを革命家に導いた封印列車
世界大戦の間、四方面から囲まれた中立国スイス。それだけに推理小説の舞台としては絶好だ。交戦国の外交使節、経済界の要人、ジャーナリスト、政治家たちが入り混じり、スパイの組織網が互いにしのぎを削る。そんな場所に、情報の材料にほとんどならない人物がいる。カフェにも行かず、口数も少ない。隣人ですらロシア人であることを知らない。しかし、毎日規則正しく図書館へ行き、決まった時間にきっちり帰る。多くを読書し、孤独に学ぶ人物が、世界を驚かせる革命をもたらすとは...
1917年、革命が勃発したとのニュースが飛び込むと、亡命者たちはロシアへ帰国できると歓呼する。偽の旅券を使わず、本名を隠すことなく、堂々と。だが、数日後には失望。ちっとも革命ではなく、政府上層部がドイツとの講和を締結させまいとする、ツァーリに対する叛乱であった。主戦派と帝国主義者、そして将軍たちの陰謀であり、市民革命ではなかったのだ。
レーニンは、マルクス主義的な革命を欲し、なんとか帰国できないかと模索する。ドイツはロシアとの和睦を求めており、ドイツの外交ルートを利用すれば、帰国の道が開けるのではないか。しかし、戦争中に敵国に入ることは、国家反逆罪となる。それを覚悟した無名の亡命者は、既に将来のロシア代表者であるかのように条件を伝え、ドイツ政府に好意を示す。条件とは、列車に治外法権が承認されること。ドイツは焦っていた。アメリカが宣戦布告したからだ。
そして、ドイツ政府の援助で封印列車を確保し、スイスからドイツを経由してペテルスブルグに到着。当時、ペトログラードと呼ばれていた町は、祖国癖に憑かれた愛国心に見舞われ、再逮捕されるのではないかという懸念がある。しかし、亡命からの帰国者は、民衆に盛大に歓迎されるのだった...

"昨日の世界(I/II)" Stefan Zweig 著

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歴史とは、客観的に語られてこそ、より輝きを放つもの。だが、ツヴァイクは、あえて自我を主役に据えた歴史小説を綴る。大量殺戮の世紀と化した20世紀の証言者という使命を背負うかのように...
しかしながら、自我を綴ることは危険だ。自ら無へ帰することになりかねない。
「私が物語るのは、私の運命ではなく、ひとつの世代全体の運命である...」
こう記した二年後、亡命先のリオ・デ・ジャネイロで、再婚して間もない夫人と共に命を絶つ。これはツヴァイクが残した最晩年の自伝書であるが、ヨーロッパ文化が残した遺書と言うべきかもしれん...

近い過去にあっては人間悲劇、遠い過去にあっては人間喜劇となるのが、歴史というものか。同じ愚行を繰り返しているだけなのに、時間の観念のみが心持ちを変える。同じ言葉を発しても、同世代の人間にはライバル意識を燃やし、大昔の偉人には素直に耳を傾けることができる。そのくせ死人に口なしの原理に縋って、過去の人たちに子どもじみた議論を持ちかけては欠席裁判を仕掛ける。
講和を唱えようものなら、ヨーロッパでは敗北主義者と罵られ、日本では非国民と罵られた時代。自由論者も平等論者も同じく狂気し、もはや勝利か!破滅か!の選択肢しか与えられない。この物語の影には、不可能な賠償金を課せられ、空前のハイパーインフレに喘いでいた経済を、あっさりと立て直した独裁者の演説に陶酔する大衆がつきまとう。政治家ってやつは、経済政策さえうまくやれば、少々悪い政策を持ち込んでも大衆を黙らすことができると考える。そして、知らず知らずのうちにメフィストフェレスに魂を売るのだ。
「歴史は、同時代人には、彼らの時代を規定している大きなさまざまな動きを、そのほんの始まりのうちに知らせることはしない、というのが、つねに歴史のくつがえしえぬ鉄則である。そこで私も、いつ初めてアドルフ・ヒトラーの名前を聞いたのかをもはや思い出すことはできない。」

ツヴァイクがユダヤ人としてウィーンに生を享けた1881年、神聖ローマ帝国が解体されたとはいえ、依然ハプスブルク家はオーストリア = ハンガリー帝国として強大な勢力を保っていた。芸術の都ウィーンは、まだ世界市民的な風潮が旺盛だったようである。文化だけでなく民族的に、ドイツ人も、チェコ人も、ユダヤ人も、時には愚弄しあうことがあったとはいえ、共存共栄の下で暮らしていたという。
やがて、新たなスピードの時代が訪れる。自動車や航空機などの機械化が進み、電話やラジオが普及すると、憎悪のヒステリーを世界中に感染させていく。その意味では、グローバリズムの波に対抗して愛国心を煽ったり、インターネットの普及によって欺瞞情報を瞬時に拡散させる現代と何が違うというのか。人間社会ってやつは、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強いようである。普遍的な学問よりも金儲けの手段を学ぶ方が手っ取り早いし、子供じみた衝動に駆られ続けるのは、何千年もの昔から変わらない。究極の知性人が、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは必然なのか。彼らには、寒山拾得のごとく社会から距離を置き、あるいは、世間の目に晒してはならないシャングリ・ラのような保護区が必要なのかもしれん。
ツヴァイクもまたそうした知性人たちの例に漏れず、やがて勃発する第一次大戦に絶望し、わずかな望みを託した国際連盟にも絶望し、さらに第二次大戦へ突入するだけでは飽き足らず、ゲットーを目の当たりにして、人間というものに完全に絶望し、その批判的言論が亡命生活を余儀なくされる。
「しかし、私はそれを嘆くまい。故郷なき者こそが、新しい意味において自由であり、何ものにも束縛されない者のみが、もはや何ものをも顧みる必要がない。」

1. ファシズムとステレオタイプ
ツヴァイクが、「マリー・アントワネット」や「ジョゼフ・フーシェ」のような伝記小説を残したのは、フランス革命に始まる民主主義の本性を暴きたかったからかもしれない... と、なんとなくそう思いながら読んでいる。
「ジョゼフ・フーシェ」は、不本意ながらナチズムの国家主義者たちに愛読されたようである。確かに、政治陰謀のバイブルのような小説だ。人間社会には常に集団的な野獣性が潜んでおり、政治戦略はこれをいかに利用するかにかかっている。フロイトは、破壊的な衝動によって理性が簡単に無力化される性質を指摘し、パスカルは、人間を狂うものと定義した。集団性の前では、理性とてファシズム化する。禁煙ファシズム、環境保護ファシズム、動物愛護ファシズム、絆ファシズム...
理性人どもが、なんでもかんでも、けしからん!不謹慎だ!と憤慨すれば、冗談も言えない窮屈な社会となる。笑いの情念は高等な動物にしか持てないとされるが、笑いの質こそが人間社会の成熟度を測る物差しとなろう。
「人間の性質のうちには寛濶に答えるには寛濶をもってし、充溢に答えるには充溢をもってする、というところがある。」
価値観の多様化が進む現代社会にあってもなお、多数派に反対するには勇気がいる。一般市民が魔女狩りのごとく追求し、全体思想を押し付ける風潮があるのは、いつの時代も変わらない。おまけに、有識者どもが率先して吹聴する傾向がある。ファシズム、ナチズム、ボルシェヴィズムといった悪疫は、いずれもナショナリズムが高揚した形で現れた。政治屋どもが正義を掲げれば、報道屋どもはもっと大きな正義を掲げ... 正義の暴走ほどタチの悪いものはない。メディアには公平性と客観性が求められるが、現在のメディアとて、一斉に持ち上げるだけ持ち上げ、叩けるだけ叩き、どちらか一方に傾倒する。いまや、どこの国も民衆の意志は一枚岩ではない。ダブルスタンダードどころかマルチスタンダードだということだ。だが、いつの時代も、国粋主義的な風潮とステレオタイプ的な視点が強調され、傍観と無関心な態度が彼らを暴走させる。そりゃ、ヒステリーな熱狂者と関わりたくはないが、政治ってやつは、性質上こうした連中と結びつきやすい。自国に誇りを持つことと、他国を蹴落とすことでは、まったく意味が違うというのに。民主主義の成熟度は、国粋主義的な傾向の度合いや、ステレオタイプ的な見方の強弱によって測れそうか...
「安定という言葉をずっと前からひとつの幻影として、語彙から消し去ってしまったわれわれならば、あの理想主義に眩惑した世代が、人類の技術的進歩は同じように急速な道徳的向上を無条件にもたらすと信じたその楽天的な幻覚を、冷笑するのもたやすいことである。」

2. 人生大学
「私にとっては、良書は最良の大学のかわりをする、というエマーソンの原理が、確固として妥当し続けて来たのである。人は大学、あるいはギムナジウムにさえも通うことなくして、すぐれた哲学者、歴史家、文献学者、法律学者、そのほかの何にでもなりうる、と私は今日でも確信している。」
生の万象を示してくれる人生の大学を求めて、書物を漁ってまわるのも悪くない。若い頃は、優れた人物から学ぶことも大きいが、同世代の仲間と議論することの方が、より多くを学べたような気がする。本質を学ぶ資質は、政治的な態度に毒された大人よりも、純粋に学びたいと欲する子供の方が優っているのだろう。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。偏見に見舞われれば、自己の正当性を主張するのに必至になる。
ツヴァイクの交友関係は、実に広い。少年時代に出会った天才ホーフマンスタールの衝撃に始まり、ヘルツル、リルケ、ヴェルハーレンとの交友を語り、ロラン、ジイド、ヴァレリー、トーマス・マン、バルトーク、フロイト、ゴーリキーといった知識人との回想を織り交ぜる。彼らは、生き証人としての義務を果たすかのように協力しあう。偉大で悲惨な時代だから、互いに引きつけたのだろうか。平和で凡庸な時代では、真の自由について考えることもあまりない。ちなみに、フロイトを真理の熱狂者と呼び、彼はこう語ったという。
「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはありませんね。」
狂気の社会では、冷静に物事を考える人間を排除し、子供じみた虚栄心や野心が旺盛となり、エリートほど危険な存在となる。教科課程が生徒を平均化させることを意図し、多数派に属することで安住できるように仕向ければ、権威主義が蔓延り、軍部の思い上がりが民衆を先導する。国家主義を育むには、実に都合のいい構図だ。
政治の思惑が、自己実現をいかに廻り道させてきたことか。粗暴に加担しないというだけでは充分ではない。戦争責任は政治指導者にあるが、独裁者一人でやれるものではなく、民衆の後ろ盾が必要だ。集団の不自然さ、すなわち、無関心を装い傍観者であり続けることが、戦争という不自然な現象を招き入れる。虚栄に乱されず、自由で朗らかな人間でありたいものだが、俗世間の泥酔者には、大人になっても似た者同士で集まることぐらいしかできん。困ったものよ...

3. 引き金の繰り返し
1914年の大戦は、フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボで暗殺されたことが引き金となった。だが、この帝位継承者は大衆に人気がなく、愛嬌や人間的魅力に欠けていたとか。対して、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の唯一の子息ルードルフは、感じのいい皇太子だったという。ルードルフはマイエルリンクで銃で死んでいるのを発見されるが、この事件については陰謀説がくすぶる。
しかし政治的には、サラエボ事件の犯人は、ボスニア系セルビア人とされ、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。独墺伊の三国同盟にあったドイツも宣戦布告し、英仏露の三国協商にあったロシアがオーストリアへ宣戦布告すれば、連鎖反応で世界大戦となる。
では、1914年の悲惨を経験しながら、なぜ、1939年にも同じことを繰り返したのか?ツヴァイクの答えは単純だ。1939年には、1914年と同じぐらい子供らしい素朴な信仰を持ちあわせていなかったと。皇帝フランツ・ヨーゼフが84歳にして血の犠牲を欲したことを、誰も疑問に思わなかった。そんなことが、1939年にも起こったというのか...
ヴェルサイユ条約の破綻に幻滅すれば、外交を軽蔑する。ウィルソンの偉大な綱領を信じたところで、はたまたロシア革命に希望を持ったところで、再び地獄に引き戻される。時代は、チェンバレンの妄想的な平和宣言よりも、戦争屋チャーチルを欲した。当初、単なる国境や植民地のための戦争ではなく、イデオロギーの戦争であったはずが、科学の進歩とともに無差別攻撃を容認し、非戦闘員までも犠牲にした。もはや戦争は、勇気と誇りの象徴ではなくなり、憎悪とヒステリーの代名詞となった。シェイクスピアはドイツの舞台から追放され、モーツァルトやワーグナーはイギリスの音楽堂から追放され、道理に適った会話は不可能となり、平和を好む人々までも血の臭いに酔いしれる。結局、二つの大戦は同じ悲劇を繰り返しただけだった。引用されるシェイクスピアの言葉がいつまでも残る...
「こんなに汚れた空は、嵐なしではきれいさっぱりとはならぬわい。」

壊れかけの Raid

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いまだ、ハードディスクがいきなり壊れるという経験がないのは、幸運であろう。この手の呪いは、なんらかの前兆がある。不良セクタが見つかるやら、アクセスのリトライが増えるやら、異音が鳴り始めるやら...
そして今回は、BIOS がエラーを吐く... "AHCI PORT0 Device Error"
Win7(64bit)でも... "ハードディスクの問題が検出されました"

モノは、DELL Studio XPS8100(2010年購入)内蔵 HDD...
  Seagate ST3500418AS(500GB/7,200RPM)
  # Motherboard: 0T568R(SATA)

お陀仏になる前に交換することに...
  Western Digital WD5003AZEX(500GB/7,200RPM)

1. Win7 の復旧で、ちと手間取る...
いきなりインストールで失敗!途中で固まる。たまたまかと思いきや、再度やってもダメ。
あっそうだ!BIOS の S-ATA 設定が、RAIDモードになっていた。Win7 のインストーラは対応していないが、必要なドライバを参照できるようになっている。DELL提供のドライバディスクにある RAIDドライバを、外部のメディアに展開しておいて、インストーラに食わせればいい。いや、最新版をどこからかダウンロードしてきた方がいいだろう。
さて、パーティションは、ブート領域に 100MB を確保する仕様になっている。なるほど、ここにシステムを置いて、起動安定性を確保するという戦略か。壊れたら、とりあえずこの領域を修復すれば起動はできる。
しかし、HDD が破壊される確率は、物理構造に依存することに変わりはない。システム領域よりも、データ領域のバックアップの方が重要であろう。

2. RAID から ATA へ
ところで、RAID にする意味ってあるんだっけ?内蔵HDD が一台しかないというのに。購入時、なぜ RAIDモード?と思ったが、深くは突っ込まなかった。工場出荷状態で、数MB のゴミのようなパーティションを切っているのは、気になっていたが...
ミラーリングだけなら、外付 HDD で十分!ただ、速度重視で内蔵HDDを増設して、RAID 0 で組む手はある。
とはいえ、Surface Pro3 のおかげで SSD に魅せられ、少々静かでパフォーマンスの高い HDD を持ちこんでも、まったく感動できない有り様。SSD で RAID を組むなら元気も出そうか?
てなわけで、BIOS の設定をATAモード(no AHCI)で再構築することにした。

3. ネアンデルタール人のバックアップ思想
ちっぽけな事業所とはいえ、ミラーリング(RAID 1)ぐらいは構築しておきたい、と考えたのが十年以上前。当時、RAIDといえば、サーバといった大掛かりなイメージがあった。そして、大昔のバックアップ思想が残っている。作業領域の差分データをサーバへ ftp して一括管理し、サーバ側で日々の差分をバックアップして、週末に全体を再構築するといった具合。大規模な事業所ならともかく、バックアップテープの発想だ。こんなやり方はとっとと捨てたいところだが、せっかく自動化しているのだからもったいない!という意識が妙に働く。これには、深かぁ~い言い訳がある。面倒くさい上に、当時の思考回路が再現できないときた。
見直せど見直せど、なお我が魂、官僚主義に沈みつつ、じっと手を見る...

"ラファエロの世界"池上英洋 著

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1520年...美術の教科書では、この年をもってルネサンス期の終焉とするそうな。なんのことはない、ラファエロが亡くなった年である。彼を盛期ルネサンスとマニエリスムのどちらに区分するかは微妙であろう。既にバロック様式を体現していたとする意見も耳にする。37歳という早すぎる死にも、係わりがあるかもしれない。芸術家として成熟を極めた年齡とは言い難いのだから。いずれにせよ、芸術様式がある年をもって突然変化するわけもなく、歴史における便宜上の問題でしかあるまい。
さて、盛期ルネサンスの三大巨匠といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。代表作でいえば、レオナルドの「ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)」や「最後の晩餐」、ミケランジェロの「ダヴィデ」とすぐに思い浮かべることができる。
しかし、ラファエロのものとなると、どうであろう。そういえば、ある専門家は、ラファエロ好きなどと発言すると変わり者という目で見られる、と語っていた。三人の中で最も地味な存在という印象もあるが、実は一番好きな画家だ。もっとも美術的な価値は分らないが、動的な物語に惹かれるのである。
あの「アテナイの学堂」には、ネオプラトニズムが存分に顕れている。古代ギリシアの偉人たちが賑やかに勢揃いし、しかも、ルネサンスの著名人たちをモデルにするという洒落が利いている。中央のプラトンのモデルがレオナルドというだけで、その存在感が伺える。階段の下で、のんびりと肘をついているヘラクレイトスのモデルは、ミケランジェロ。右下で幾何学を講義するユークリッドのモデルは、建築家ドナト・ブラマンテ。ラファエロ自身は、右端で遠慮気味に顔を覗かせるアペレスとして描かれる。個人的に見過ごせないのが、階段の中央でだらしなく横たわっている犬のディオゲネス。このモデルは誰であろうか?乞食の代名詞をわざわざ名指しすることもなかろうが...
こうした着想は、古代文化に匹敵するほどの偉大な時代を生きていることへの自負心であろうか。美術オンチの酔いどれですら、いつかはヴァチカンの「ラファエロの間」を訪れてみたいと夢見るのであった...

万能人を多く排出したのも、この時代の特徴であろう。ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、芸術家でありながら建築家でもあった。レオナルドに至っては、科学者、数学者、あるいは発明家とも呼ばれる別格。
ルネサンス時代に古典文化を重ねるということは、多彩な学問の融合が要求されるであろう。そもそも古代ギリシア・ローマ文化は神話的な多神教の世界であり、キリスト教的な一神教の世界とは相反する。そこで、聖書の下で、神話の中に登場する神々の新たな解釈が求められる。おそらく、信仰心を超越した普遍的な抽象レベルにおいて、思想の融合を図るしかあるまい。この時代の芸術家たちが自然科学にも精通していたことは、必然だったのかもしれない。幾何学に精通した様子は、遠近法の作品群が如実に物語っている。信仰的な矛盾を犯しながらも、古典回帰の思想が生まれたのは、よほど宗教の暴走を嘆いた時代ということであろうか...
18世紀になると、産業革命とともに中産階級が台頭し、絶対君主の庇護にあった美術作品は批判の的とされる。ロマン主義の時代には、ラファエロ芸術もアカデミズムの権化として攻撃されたという。芸術作品が、政治思想の象徴として描かれてきたのも事実。ラファエロがルネサンス期の最後を飾ったことも、古典至上主義の代名詞とされた一因であろう。芸術作品に宗教思想のレッテルを貼って、古臭いカノンなどと攻撃を受けたり。偉大な思想は、後世の解釈のされ方によって、ほとんど言いがかりのような批判に曝されることがある。今を生きる人間は、流行の意見に惑わされがちで、純粋な価値が見えないもの。
しかしながら、偉大な芸術は、時代の潮流から切り離されて、純粋に評価させようとする力がある。死後に再評価されるのは、偉大な学芸家の宿命なのかもしれん...

1. アテナイの学堂
階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちが勢揃いする作品で、「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。ただ、人物にばかり目がいっていたが、本書はその構造上の解説を加えてくれる。
聖堂の象徴的なアーチの奥に、二体の巨大な大理石像が配置され、左側がアポロン、右側がミネルヴァ(アテーナー)で、芸術と知識のシンボルが描かれるという。ルネサンス芸術とギリシア知識の融合というわけか。神話の神々は多神教、いわば、異教徒の神だが、これらが教会支配下の中心、つまりは聖堂において集約されるってか。どんな異教であろうがキリスト教の下で一元化できるというのも、ちと無理があるけど。なるほど、パトロンは戦争好きのレッテルを貼られた教皇ユリウス2世か...
ところで、この作品には昔から考えさせられることがある。それは、階段が何を意味しているかということ。最上段では、自著「ティマイオス」を脇に抱えるプラトンと、隣で語り合うアリストテレスも何やら著作を抱え、二人で共に歩きながら、やがて階段を降りるであろうことを想像させる。最上段が最上の哲学の原型であるイデアだとすれば、階段の下へ行くほど現世に近づき、どんな叡智もやがて庶民化していき、下っていく... と解するのは行き過ぎであろうか?階段の下でヘラクレイトスが肘をついているのは、現世で諦めの境地に達したようにも映る。階段下の右側で民衆相手に講義しているユークリッドは、幾何学と現実空間の親和性を物語っているのであろうか。ラファエロ自身をアペレスに重ねて、幾何学のグループに属しているのも興味深い。
犬儒学派ディオゲネスが階段の中央で横たわり、まだ階段の下に足が到達していないのは、この狂えるソクラテスはまだ救いの領域にあるとでもいうのか?あるいは、昔を懐かしんで階段を登ろうとし、疲れきっているのか?はたまた、形而上から形而下への格付けなんてものは、所詮人間が編み出した価値観に過ぎないと蔑んでいるのか?
尚、この作品には、女性数学者ヒュパティアも描かれるが、別の作品「天体の起動」に描かれる天使に祝福される女性もヒュパティアではないかと想像してしまう。映画「アレクサンドリア」でも描かれた彼女は、狂信的なキリスト教徒に八つ裂きにされる運命を辿る。「天体の起動」もまた「署名の間」に描かれたフレスコ画だそうな...

2. 女の達人!?
「美術家列伝」の著者ジョルジョ・ヴァザーリは、ラファエロの早すぎる死の一因を過度の女好きに求めたという。神々しい女性を描いた作品群が、親しみやすい雰囲気を漂わせているのは、実存する女性を描いたためだとか。しかし、派手な女性関係を噂されながらも、特定の女性との交際を裏付ける資料はほとんど残っていないという。証拠を残さないとは、よほどの達人か!
パトロンの枢機卿メディチ・ビッビエーナから、姪マリア・ビッビエーナを紹介されて婚約したのは確かなようである。だが、婚礼に至らぬまま、彼女は1514年に急死したとか。彼女への遠慮からか、あるいは、枢機卿の推挙で聖職者としての重職に就く可能性があっためか、表向きは生涯童貞を宣言したという説もあるそうな。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう。実際、彼は生涯独身を通したという。
この時代の肖像画は、男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、レオナルドの「モナ・リザ」がかなり意識されているようである。
作品「ラ・フォルナリーナ」には、腕輪に「RAPHAEL VRBINAS」と銘記され、ラファエロの「秘めたる花嫁」という伝説が生まれたという。パン屋の娘という意味だが、日本流であれば、ラファエル命!と腕に入墨をやるところであろう。シエナ出身のマルゲリータ・ルーティがモデルとされ、高級娼婦との説もあるらしいが、実在人物かも定かではないらしい。
作品「ヴェールをかぶった婦人(ラ・ヴェラータ)」に描かれる女性もフォルナリーナと同じ人物とする説もあれば、花嫁特有の仕草から、婚約者マリア・ビッビエーナと考えられるむきもあるという。
さらに本書は、ちと興味深い指摘をしている。それは、作品「システィーナの聖母(サン・シストの聖母)」のマリアにも酷似していること。愛する女性を理想化し、聖母として神格化させることは、男の深層心理としてありがちな話である。ましてや、女性の死が早いとなれば、若く美しいままの姿で記憶に留めることであろう...

"ラファエロ"若桑みどり 著

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「ラファエロには、ただ一つの傑作というものはない。彼のどの作品にも、"刹那よ、とどまれ!"ということはできない。彼は水であり、河である。それも、澄んだ河である。まわりのものを誰よりもみごとに映して見せる、鏡のごとき河である。彼が本当に持っていたもの、それは透明さなのだ。それは、自己の色を持たないということを意味している。」
ラファエロは、盛期ルネサンスの三大巨匠の中でも地味な存在、いや、他の二人があまりにも強烈なキャラクターであったと言った方がいい。レオナルドは科学者、哲学者であり、その万能者ぶりは群を抜いている。おまけに、同性愛の容疑をかけられた。ミケランジェロは、神がかりな新プラトン主義者であった。
レオナルドにとって、自然界は既に秩序が失われ、怪奇と謎の得体の知れぬ創造と破壊を繰り返す、魔術的な力の場であったという。より人間と神との対立を敏感に感じ取ったミケランジェロは、ルター派のような神による救済を信じることができず、烈しく苦しみ抜いた生涯を送ったという。
対して、ラファエロは、それほど深く思い悩む人ではなかったようである。その思想は大衆性に根ざしたもので、意図的に宗教的な権威を批判したのか?あるいは、素朴な感情がゆえに崇高な思想を排除したのか?本書は、レオナルドとミケランジェロが改革家ならば、ラファエロは神のごとき剽窃家であったとしている。

芸術家は、革命家になるか、剽窃家になるかのどちらかだ。...ポール・ゴーギャン

しかしながら、バロック期に宗教の大衆化の波が訪れると、むしろラファエロ芸術が権威と結びつく。16世紀半ば、反宗教改革のカトリック教は大衆性に着目し、ミケランジェロを避難してラファエロを持ち上げた。崇高で重々しい歴史を説くよりも、分かりやすく、親しみやすく、面白がらせる方が洗脳しやすい。そして、ロマン主義の時代になると、古き様式の権化とされ、激しい批判に晒される。ジョルジョ・ヴァザーリはこう語ったという。
「私はかく思う。ラファエロはミケランジェロに比肩しようとしたが彼に近づくことはできなかった。そこで彼はこの巨匠の手法を真似ることを止め、別の分野で、カトリック的な名声を得ることにした。たとえ誰であるにせよ、我々の世代の人間が、ミケランジェロの作品のみを研究しようとすれば、我々は彼の極度の完璧さにはけっして至りつくことはできない。... だが、カトリックの教えと、他の分野とをめざせば、自分たちにもこの世に役立つことができよう。」

1. 異色の肖像画
肖像画の技術において、レオナルドの「モナ・リザ」がバイブル的な存在であったことは確かであろう。それが男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、「アーニョロ・ドーニの像」、「一角獣と貴婦人」、「唖の女」、「バルダッサーレ・カスティリオーネの像」などの作品に見て取れる。
しかしながら、「ラファエロとその友人の像」は、やや異色である。晩年によく見られる様式だそうで、古典主義の原理からまったく外れているという。37歳という若さで死に、晩年と呼ぶのも、ちと違和感があるが。
非常に強い明暗と極端な短縮法、おまけに偏った配置は、確かにレオナルド式とは程遠い。画面の大部分を占める武人のポーズは、上半身をひねり、差し出された手が妙に強調されている。光のあたり具合では、後ろで控えているラファエロの肖像が浮き出されるような仕掛け。一瞬、友人が主役かと思いきや、じっくり眺めると、やはり主役はラファエロ自身か。遠近法と光源効果を巧みに組み合わせた手法を魅せつける。

2. 古典主義とキリスト教文化の不完全な統一
レオナルドとミケランジェロは、古典主義とキリスト教文化をルネサンスにおいて見事に統一した。対して、ラファエロには、その統一性において不完全だという酷評がある。
その対象とされる作品が「墓へと運ばれるキリスト」。フィレンツェ時代の最終作品で、まだ未熟だったということか。本書は、その意味を擁護している。この作品は、息子を殺されたアタランタ・バリオーニの依頼によるもので、死者を運ぶ若者と嘆くマグダラのマリアに、母とその子の肖像を描かなければならなかったという。主要人物は、バリオーニ家の人々というわけだ。重厚な歴史画に個人の肖像画を埋め込むという構想が、なんともアンバランスな感じを与える。
しかしながら、神話の世界において、優美な女神の裸体像などは完成度が高い。「三美神」では、互いに背く貞節と甘美を結び、そこに我を配置した三位一体図は、宗教画の域を脱しており、高尚さや崇高さを失いつつも、節約簡素な古典的イメージを醸し出す。背く二つの徳の仲裁に入れば、二倍の徳をともなって、我に返るとでも言いたげな...
「アダムとエヴァ」は、ユリウス2世の依頼で「著名の間」の天井の区画に描かれた作品で、キリストによる贖罪の原因となった人間の祖先の原罪を表しているのだとか。
この手の作品は、芸術性が高いのかもしれないが、裸体の不自然さと、無理なポーズが理解不能。完成度において一貫性を欠いているのは、パトロンの思惑次第というところもありそうか...
一方で、聖母の特徴は、一貫性を保っている感がある。「ひわの聖母」「緑野の聖母」「カニーニの聖家族」「フォリーニョの聖母」などは、連作として眺めると聖母へ昇華していく様子が伺える。

3. 神学的ヒエラルキー
「アテナイの学堂」は、階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちを勢揃いさせる。階段は、形而上から形而下に渡る学問の格付けであろうか... といったことは前記事で触れた。
これと似たような主題に「聖体の講義」という作品がある。「講義」というネーミングはヴァザーリの記述から誤って伝えられ、この構図に相応しくないと指摘している。本来、教会または秘蹟のトリオンフォ(勝利)と題されるべきであると。画面の中心は、輝く聖体盒に入った聖餅で遠近法的中心点になっていて、同時に、天と地、霊と肉との奇蹟的な合体である秘蹟の意味が、遠近消失点と合致しているという。そこに三位一体のシンボルが加わり、縦軸に天と地の人々の半円状の環が取り巻いているという構想だとか。地上の人物がだいたい実在人物の肖像画とされるのも、「アテナイの学堂」と同じ趣向か。ルネサンス期の人物像を、天球に配置して崇めようとでも...
また、「パルナソス」では、9人のムーサイ(詩女神)に囲まれて、丘の頂で竪琴を奏でるアポロンを中心に、古今の詩人たちや神々が並ぶ。左側には盲目のホメロスとかたわらにダンテ、右側にはバルダッサーレ・カスティリオーネとも、ミケランジェロとも言われる人物。9人のムーサイに支配される9つの詩の分類に従って、新旧の詩人が選ばれているという。古代の詩人に、ルネサンス期の人文主義者たちの肖像を置いて、古代文芸の復活をイメージしていると。
とはいえ、「聖体の講義」と「パルナソス」の二つの作品は空間的な精彩を欠いており、「アテナイの学堂」ほど遠近法と神学的ヒエラルキーという構想が結びついたものはあるまい。

4. 遠近法の破綻と崇拝の破綻
「ヘリオドロスの追放」は、16世紀の激情に放り込まれるような作品で、右側に激情が集約され、左側に不安が集約されるという構想。神殿から略奪するヘリオドロスを馬で踏みにじる天の騎士と、恐れおののく女子供たちの表情が、事件の残忍さを物語る。さらに、左端で平然と傍観している人物はユリウス2世か。静と動の意識的な配置が、劇場鑑賞を思わせ、激情の明暗と遠近法が見事に融合する。
「ペテロの救出」にも、明暗の調和による激情の物語がある。中央には、鉄格子の中で眠るペテロと、救出しようとする天使の姿を輝かせる。右側には、天使に導かれて牢を出るペテロと眠りこける兵士たち。左側には、囚人の逃亡を知って駆けつける兵士たちが、月光の下で浮かび上がる。
これとは対照的に、激情とは一変した冷静さで奇蹟を物語っているのが、「ボルセーナのミサ」。1263年にボルセーナで起こった事件を題材に、不信の司祭が手にした聖餅が血を流した奇蹟を描いている。ユリウス2世と従者たちは、奇蹟を予知していたかのような冷静さで、背後で群衆がざわめき、ロウソクがゆらめく。奇蹟の偉大さをユリウス2世の前では当然とし、逆説的に教皇の偉大さを示しているとすれば、却って庶民が期待する激的なものは伝わらない。
さらに、「ボルゴの火事」では、遠近法によって主題が隠された感がある。9世紀半ば、レオ4世の治世に起こった火事を鎮める奇蹟を、時の教皇レオ10世の讃美として描いた作品。中央のはるか遠くに、教皇らしき人物が見えるものの、火事で大騒ぎしている民衆が強調され、もはや主題は奇蹟というより火事そのもの。壺に水を入れて運ぶ人々、裸体で壁をよじ登ろうとする男、壁の上から子供を拾い上げようとする女、老人を背負って逃げ惑う男、両腕を祈るように掲げる女たち... A.M.ブリッツィオは、「ギリシア悲劇の舞台」と解した方がいいと言ったそうな。
ついに、「オスティアの戦い」では、遠近法が崩壊する。空間的構想より主題を強調することで、合理的な空間を形成することはあるだろう。だが、題名からして海戦が主題であるはずなのに、船団は遠くに描かれ、手前で人々がごった返している様子。祈っている人々や司祭やら、負傷者や捕虜やら、床を掃除している男やらが目立ち、もはや何を描きたいのかも伝わらない。遠近法の破綻が精神の破綻にも映るのは、パトロンである教皇の精神を映し出しているのであろうか。なぁーんだ、このブログと同じじゃないか...

"無形化世界の力学と戦略(上/下)"長沼伸一郎 著

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本棚を掘り起こしていると、とんと覚えのないヤツを見つけた。「物理数学の直観的方法」の著者が、人間社会の力学をミリタリーバランスの観点から定量的に語ろうというのである。我が家で数十ページほど立ち読みしてみると、これがなかなか!購入履歴を遡ると、およそ十年前に買ったことになっている。記憶力がないということが、いかに幸せであるか...
そういえば、政治家の資質には、理系出身者が相応しいと考えていた時期があった。厳密には、自然学者と言った方がいい。しかーし、未納三兄弟!などと発言して墓穴を掘った某党首が理学部出身と知るや、そんな考えをあっさりと捨てた。おまけに、その御仁は首相になった挙句、原発事故でせっかく放射能予測システムSPEEDIがありながら情報を開示しなかった。環境汚染を語る前に科学が政治に汚染されているとは、これいかに?
プラトンは政治を哲学者の手に委ねることを理想とした。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。そして、夜の社交場ではセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も捨てがたい...

価値の無形化は、貨幣の発明から始まった。能力は賃金で査定され、信用は利息で精算され、欲望はインフレ率で測られ、希望は株式市場に委ねられ、命ですら貨幣換算される。さらに、電子マネーや暗号通貨の登場により、貨幣自体が曖昧な存在となった。精神の持ち主とは、奇妙なものよ。精神自身の実体を説明できなければ、どこにでも都合よく代替価値を見出すことができるのだから...
人間社会における競争原理は、価値の創出合戦によって繰り広げられる。そう、価値こそがパワーの源泉なのだ。古代、人間の価値は、腕力、脚力、格闘力で測られた。それは、オリュンピア祭典競技の種目に見てとれる。国力では武力が指標とされてきた。やがて、これらのパワーは機動性や柔軟性に呑み込まれていき、腕力は智力に、武力は戦術や戦略にとって代わる。重装歩兵が主力であった時代、アレキサンダー大王は騎兵の機動力に注目してアケメネス帝国を制した。フリードリヒ大王は奇襲をもってオーストリア軍を制した。第二次大戦でドイツの用いた電撃戦は、機甲部隊と航空部隊との連携によって高い機動性を発揮した。
一方、大日本帝国は自ら空母の機動性を証明しながら、大艦巨砲主義に固執した。太平洋戦争の敗因では、索敵の不徹底や暗号神話に陥った硬直性など、情報戦略のお粗末さがよく指摘される。それも一因ではあるが、本質的な問題ではあるまい。近代戦争はそのまま消耗戦と化す。ウィリアム・ペティの政治算術から受け継がれる国力試算は、既に武力から工業力へ移っていた。工業資本の付加価値性と物量こそが、武力の機動性と柔軟性をもたらしたのである。
では、現在はどうであろうか... 戦後、国力の指標は経済力に向けられた。経済が整わないうちは、いくら軍事力を強化しても持続できない。さらに、経済循環を円滑にするために、購買意欲を誘う宣伝力が注目される。現在では、プレゼン力と呼ばれるやつだ。宣伝力が武力として有効であることに最も早く気づいた戦略家は、ヒトラーかもしれない。宣伝相という要のポストを設置し、映画製作やらで見事に正義を装った。
もはや無形化は単なるアナロジーの域を脱し、情報が物質に替わるという文明上の問題を抱えている。静かに語られる真理よりも、大声で誇張し、分かりやすい言葉で反復効果を狙う方が世論を席巻できるとすれば、人間社会はますますロストワールド化していくであろう。とはいえ、悲観論ばかりでもない。ネット社会では、一権力によって情報操作が思うようにならなくなった。それは、ある意味健全かもしれん...

本書は、こうした力関係を、陸軍、空軍、海軍の性質に分類しながら、経済を陸軍力に、メディアを空軍力に、研究機関の知的影響を海軍力に結びつけて考察している。そして、米ソ冷戦構造を無形化された準三次大戦に位置づけ、第一大戦や第二次大戦との類似性を分析している。
注目したいのは、「運動量保存の法則」「最小語数の原理」「パターン再現仮説」の三つの概念を柱にしていること。二つの大戦が軍備競争によって約5年かかったのに対し、冷戦は資本主義と共産主義の経済対立によって50年を要した。一般的に軍事予算は、GDP比のほぼ1割とされる。残りを経済力で換算すれば、経済部門は軍事部門に比べて鈍速だが、その分体重が重く、比率は10倍で等しくなる。
また、マスコミ屋と空爆屋との類似性から「情報制空権」の重要性を物語る。
「ある概念は、それがたった一語で内容を表現できる場合にのみ、一般社会に爆発的に流布する。そしてそれは表現に2語以上を要する複雑な概念を常に駆逐する。」
確かに、機動性や柔軟性においては、軍事力よりも経済力が、経済力よりも情報力の方が優っている。メディアに至っては、むしろ流動性と言った方がいい。速度の影響力は絶大であり、ニュートン力学においても質量と速度の積によってパワーが定義される。現実に、経営戦略では意思決定能力が問われ、資源の集中と敏速な行動こそが成功の鍵を握る。
「経済的世界においても、その運動を本質的に決定している抽象的要素の相対的な関係が同じである限り、対応する軍事的世界において起こったのと全く同じ力学によって必ず支配され、相互の動きは基本的に同じパターンに従う。」
しかしながら、最も重要な要素に「知的制海権」の概念を持ち出している。
「現状を見る限りでは、インターネットの興隆に代表されるように、"様々な垣根を取り払って文明を速くする"テクノロジーによって世界統合に行き着く道が圧倒的に優位にあり、対抗馬にはもはや安楽死以外の選択はあり得ないかのように見える。しかしここで一つ考慮すべきことがあり、それは"伝統的な垣根を残して文明を遅くする"側に人類はどの程度の頭脳を投入してきたのだろうかということである。」
流動性の高さが機動性を発揮するのも事実だが、流動性が高すぎると、自身の中に力学を構築する前に流動体の奴隷と化す。手段にばかり目を奪われ、地に足がつかない戦略が横行するのは、まさにそういう状態であろう。いくら経済力や情報力を強化したところで、真の底力は深遠な道理を踏まえた知的能力に辿り着くはずだ。
ただ神の目には、戦争も経済も、はたまた超新星やブラックホールも、同じ物理現象に映っているのかもしれん。だから野放しにしているのか?戦争にしても、経済にしても、人間社会の手段に過ぎないと。では、どちらを選択するか?それは人類の叡智にかかっているとするしかあるまい...

1. 核兵器と精神力学
機動性や柔軟性を唱えたところで、それは社会に適合する上での相対的な特徴でしかない。いくら優れた特徴を備えていても、時代に受け入れられなければ、変質扱いされる。
核兵器は物理的に絶大な破壊力を持つが、使用するとなると、これほど硬直した融通のきかない兵器はない。核はもはや人間社会における相対的な武器を超越し、絶対的な破壊力の前では戦争の抑止力というより、人類滅亡のリスクとして機能する。この抑止力が、5年の軍事戦争を50年の経済戦争へ転嫁させた。事実上使用できなければ、経済的負担となるだけ。にもかかわらず、核のパワーに憑かれた政治指導者はごまんといる。自己の悪魔を制するには、悪魔に縋るしかないってか...
権力を暴力と置き換えれば、モンテスキュー式の暴力分立の原理がここにある。冷戦時代、核兵器の存在を意識しながら、戦車や戦闘機による小規模の戦闘が水面下で生じてきた。そして、長い時間を経て小さなエネルギーが蓄積し、巨大帝国を自然に崩壊させた。幸いにも人類滅亡の危機は避けられたわけだ。アルキメデスが言った... 我に支点を与えれば、地球を動かして見せよう!... というのは本当かもしれん。
本書は「通常兵器の相対的核兵器化」という考えを持ちだしている。核兵器の代理兵器と言おうか。そして、その延長上に「経済力の相対的軍事力化」という概念を持ち出す。
戦争を国家権力の及ぶ国境線を動かす仕事量とするならば、経済はグローバル化によって国境線を曖昧にする仕事量とすることはできそうである。平和時の交通事故の死者、自殺者、災害死などの社会的リスクは、死者の観点からすると戦争時と原理的には同じかもしれない。
「かつて平和を語っていた者が今や戦争を語り、かつて戦争を語っていた者が平和を語り始めたという立場の皮肉な逆転はこのような理由による。」
また、冷戦構造における西側勝利の最大要因は、半導体技術の登場だとしている。ハイテクが庶民に浸透し、豊かな生活をもたらした。東西の生活水準の格差は、民衆の大量流出を招いた。いまや、半導体業界の動向が、経済動向を判断する上で重要なファクタとなっている。しかし、一般報道では携帯端末といった身近なハイテク商品が話題になるだけ。所詮、半導体は部品よ!開発現場でも半導体技術者は粗末に扱われている... などと自分の立場を愚痴るのもなんだが... 所詮、人間は部品よ!
しかしながら、いくら核兵器を多様な兵器で置き換え、さらに軍事力を経済力に代替して、機動性や柔軟性をもって制圧しようとも、絶対的な自然力には到底敵わない。人間のできることといえば、せいぜいリスクを回避するぐらいなもの。いくらテクノロジーを進化させようとも、人間の頭脳の中で働くソフトウェアはほとんど変化しないし、精神力学はあまり変わらんようだ...

2. 情報制空権と運動量保存則の罠
空軍の威力は絶大であり、味方の犠牲を最小限にできるために、空軍至上主義に陥りやすい。だが、地上制圧が主目的であり、空爆しかできない軍隊では都合が悪かろう。むしろ宗教力の方が影響が強そうだ。戦争状態で地上を制圧する役割が陸軍力だとすれば、非戦争状態では経済力や文化力ということになる。ただし、ここで言う経済力や文化力は、政治的に仕向けられた思惑とは一線を画す。空爆的な威力を発揮するメディアの誇張が事実を伴わなければ、空回りするのも道理。情報化社会が高度化するほど、冷笑や虚無主義へ誘導するというのは本当かもしれん...
ちなみに、トーマス・ジェファーソンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「良い政府が存在するが良い新聞が存在しない世界よりも、良い新聞だけが存在して良い政府が存在しない世界のほうが良い。」
人間には自分の意見と合う者同士で群れる習性があり、報道屋だけに中立の立場を課しても無理というもの。歴史を振り返れば、新聞が戦争を煽ってきた例は実に多い。そして敗戦が濃厚になると、平和主義者に豹変して戦犯探しに明け暮れる。英雄に持ち上げながら、一夜にして国賊扱い。専門家でも意見が分かれるところを、メディアは都合の良い立場しか取り上げない。著名人に罠をしかけ、スキャンダラスな事を言わせて注目を集めようとするのも彼らの常套手段で、勝手に人物像をでっちあげて抹殺にかかる。実際、マスコミ手法にはガスライティング的なものも少なくない。空爆で攻撃するパイロットは海兵隊などと違い、殺す相手を直接見なくて済む。だから、残虐性に疎いのかは知らん。
「ある事業がメディアの支援を受けながら行われる場合、事業完成までに要する時間の 1/10 の時間でメディアはそれを陳腐化させ、精神的な力を奪う。これが運動量法則の罠である。」

3. 知的制海権
伝統的な海軍の任務は、制海権の確保、パワープロジェクション(戦力投射)、プレゼンス、シーレーンの防衛といったところであろうか。総合的な戦略では、海を制して、いかに陸上に戦力を投射するかが問われ、その役割は空母の登場で、より直接的となった。経済的に言えば、企業の研究部門が新技術を開発して市場の膠着状態を一変することができれば、市場に投射できる。
政策で大きな役割を担う研究部門といえば、シンクタンク系である。ただ残念なことに、国家レベルでシンクタンクを機能させるアメリカに対して、日本では政府系シンクタンクが弱点とされる。かつては、総合商社や金融機関といった民間のシンクタンクがその役割を担い、官僚集団がそれらの機能を補ってきた。代替のシンクタンク機関を構築せずに官僚支配を弱めれば、もはや国家の頭脳は麻痺するだろう。そうした構造が官僚支配を助長する結果を招いてきたわけだが...
経済活動は多様化し社会構造も複雑化していく中で、バラバラの行動パターンによって、ゲリラ戦の様相を呈していく。手段が多様化する中で合理性を求めるならば、分進合撃といった戦略が必要であるが、国家レベルの知的戦略がないために、民間の研究部門が危機感を募らせる一方で、公共の研究機関は予算獲得に奔走する始末。
また、天然資源の乏しい我が国にとって、シーレーンの防衛は死活問題となる。それは、そのまま技術のシーレーンと結びつき、教育機関や研究機関が知識の補給線となる。かつては、技術力に直結する理工系が重要視された。現在では、仮想価値を煽ることで経済循環を促すことができる金融の異常発達が、原理的にそれを補っている。だがそれも、砂上の楼閣であることは否めない。MBAの取得に躍起になるような風潮では持続性に欠ける。金儲けに直結する知識ばかりに偏れば、知的柔軟性を失い、やがて知識の大艦巨砲主義に成り下がるであろう。
多様性と柔軟性は相性がよく、兵器と同様、知識も多様性によって相乗効果が期待できる。しかしながら、人間には目先の勢いに惑わされる習性がある。太平洋戦争時代、海軍の外交的見解よりも陸軍の精神論の方が、一般庶民には分かりやすかった。ドイツ陸軍の勢いに惑わされて、アメリカの工業力という潜在的な能力が見えなかった。現在でも、政治的リスクを無視して新興国の勢いに釣られて進出するなどの経済活動が旺盛である。しかも、研究部門を放棄してまで売上至上主義に突っ走った企業も少なくない。バブルの後遺症かは知らんが。バブル景気とは、高度成長時代に蓄積された平和ボケという堕落エネルギーがもたらした結果と見ることもできよう。
本書は、余剰労働をサービス業にばかり転化すれば頭でっかちな経済システムとなり、「万人が万人の召使になる」社会となり、さらに競争が激化すれば「万人が万人の奴隷になる」社会に堕落する、と警鐘を鳴らす。サービス業の概念も随分と多様化しているので、そこに知的部門を見出すこともできようが。
知的資源は目に見えにくいだけに、これを主軸とした国家戦略を練ることは難しく、よほどの計画性を要する。政治ジャーナリズムは、政治家の無力や無能を言い立て、政治不信こそが社会の閉塞状態の根源であると非難するが、それは本質的な問題ではなさそうである。情報制空権や知的制海権を確保しようという国家戦略すら存在しないのだから...
「政治家たちは情報制空権も知的制海権もない状態で、国旗の下の防御拠点に立てこもる以上の選択が最初から与えられていない。それゆえ政治家のどんな交代劇も、せいぜいマジノ線の防衛指揮官に誰がなるかということ以上の意味をもともと持ち得ないことは明らかなのであり、大衆がそれに無関心になるのはむしろ当然であろう。」

4. ハートランドと地政学
伝統的な戦術や戦略における理論において、地理的優位性というものがあり、戦略的要地をいかに制すかが勝敗の鍵となる。地政学の結論を大雑把に言えば、こういうこと。
「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する。」
ハートランドとは、大陸の心臓部という意味で、ハルフォード・マッキンダー著「デモクラシーの理想と現実」の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地帯と呼んだことに始まる。ヨーロッパを含むユーラシア大陸が地上の陸地の大部分を占めることから、これが世界島というわけだ。
ただ世界島の中で、戦略的要地は時代によって変化してきた。例えば、ローマ帝国の海軍力の低下を、閉鎖海戦略にあるとしている。地中海がローマ陸軍に制圧され、閉鎖海となったことで、コップの中の海軍と化し衰退したという。陸軍が強すぎても、海軍が強すぎても、はたまた空軍が強すぎても、うまくいかない。古くからヨーロッパとアジアの主導権争いでバルカン半島が要地とされ、第二次大戦では資源要地をめぐる戦いとなった。つまり、兵力の機動における地理的要地から、強力な武器のエネルギー源となる資源的要地へと移行してきたわけだが、無形化社会では、柔軟性と寛容性を持った知的要地へと移行していくのであろう。
従来の戦略には、「戦略的影響力は距離の2乗に反比例して減衰してゆく」という原則があるという。戦略的要地の概念も、距離の概念も、根本的に見直す必要がありそうだ。文化の中心地という意味ではあまり変わらないかもしれないが、流通経路、情報経路といったものが要地となる。実際、人間の集約力ではメガターミナル構想、物資の集約力ではメガフロート構想、資金の集約力ではメガバンク構想、情報の集約力ではビッグデータ構想、生産の集約力では多国籍企業化といった戦略がある。
日本列島は、太平洋上の航路において地理的条件は良い。だが同時に、中途半端な空港や港湾建設が乱立すれば、ガラパゴス化しやすいという脆さも抱えている。なにも海上封鎖などに頼らなくても、一国をガラパゴス化することは可能なのだ。にもかかわらず、政治屋どもは相変わらず地方へに利益供与に執心し、いまだ領地の幻想に憑かれている。おまけに、情報封鎖がお好きときた。冷戦構造が終結し、大国の影響力が弱まりつつある時代に、寄りかかり外交では危険である。既に準四次大戦が始まっているというのに...
「日本側が認識すべき厳しい現実は次のことである。... 現代世界では情報制空権さえもっていれば、"真実(少なくとも政治レベル)"は作れるのであり、そして中華文明圏の上空において、日本側が情報制空権を握れる見込みはほとんどないということである。」
もはや唯一の戦略は、単なる民主主義のレベルを超え、普遍的な理念を持つことしかあるまい。しかしながら、人間社会には陸軍的な論理に引きずられやすい傾向がある。愛国心ってやつは陶酔しやすいだけに歪みやすい。数千年に渡って変えられなかった意識を無形化世界の力学によって変えることは、突然変異でも起こらない限り難しかろう...

こけた...

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証拠物件1:


昨年は午年ということで、跳ね馬のごとく駆け抜けるつもりであったが、暴れ馬のごとくこけた!バイクの修理代が痛い...
今年は、羊のごとくおとなしくするつもりでいる。おっと!夜の社交場方面から初詣のお誘いが...

暴走主義

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暴走好きな人間をこしらえたのは誰か?やはり神も暴走好きであったか...

人はよく、権利だ!義務だ!責任だ!なんてことを言う。だが、そんなものは都合よく解釈されるだけのこと。無駄、無意味、無価値といったものもそうだ。そして、正義ですら解釈される。この方面で、人類はいまだ普遍性なるものを知らない。
パスカルは言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。良心の妄想ほど正義と相性のいいものはない。良心ってやつは、押し付けがましく、自信満々なだけに厄介となりやすい。歴史を振り返れば、人類愛を唱える修道士ですら侵略者のごとく残虐行為に及んだ。愛の押し売りほど残酷なものはない。神の代弁者... 神の生まれ変わり... といった思想はいまだ健在。神に憑かれた狂気は、悪魔に憑かれるがごとく。
権利の暴走がタカリ屋を増殖させ、義務の暴走が思考を停止させ、責任の暴走が迷信を助長させる。おまけに、情報社会が高度化すると、皮相の見は独り歩きを始め、庶民の集団性が理性の検閲官となり、魔女狩りの類いはますます猛威をふるう。正義漢とは、一過性の熱病のようなものか。決疑論は集団性によって研ぎ澄まされ、有徳者や有識者ですら駁論を見出すことができないばかりか、煽る側に立つ。ますます自意識を膨らませ、どんな残虐行為でも、これは犯罪ではない!と叫ぶことができるのだ。そして、妄想的な成敗が現実のものとなる。
一方で、必殺仕事人は、お金を貰わないと絶対に仕事をしない。どんなに少ない金額でも、依頼者が精一杯工面したという理由付けだけが、正義の暴走を食い止める唯一の動機となるからだ。理性も、知性も、正義も、道徳も、愛情も... 心地よく響く言葉は、すべて暴走する性質を持っている、と心得ておくぐらいでちょうどいい。善意の増殖は、ある閾値を超えると悪意へ変貌する。
では逆に、悪意の増殖は、ある閾値を超えると善意へ向かうだろうか?いや、マクスウェルの悪魔君をもってしても、この方面のエントロピーの法則は絶大だ。逆説的ではあるが、正義という自意識を放棄しなければ、正義を冷静に実践することはできないのかもしれん。ならば、無責任な泥酔者は、世間を笑い飛ばしながら生きていく...

人間ってやつは、心の拠り所となる何かをこしらえないと、不安でしょうがない。神とは、人間が都合よく編み出した偶像であろうか。真理もまた、究極の退屈しのぎのために編み出した妄想であろうか。神の狂信者は神の寛大さに縋って無限の赦しを乞い、真理の探求者は真理の偉大さに縋って無限の知を求める。
しかしながら、不死を求めても永遠の魂は得られず、知識の永続を求めても永劫回帰の道は遥か彼方。人類は、自己存在を証明するための言葉を求めてきた。神の言葉を... 真理の言葉を... そして言葉は知の象徴となった。だが、どんなに言葉を求めても、神も、真理も、一向に見えてこない。生命は定められた道を行くしかなさそうだ。人類は、いまだ自然の意図を解せないでいる。それどころか、自分自身が自然状態であるのかも疑っている有り様。その証拠に、「自然」に対して「人工」という言葉を編み出した。有史以来、人類はせっかく記録という概念を発明しながら、寿命の限界を打ち破れずにいる。
ウィトゲンシュタインは言った... およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない... と。もはや、残された道は沈黙しかないというのか。冥界には、沈黙との自然な戯れがあるとでもいうのか。真理の道とは、沈黙を守ることで犠牲を捧げることなのか。だから、あのナザレの人は無実を承知で黙って血を捧げたのか。
しかしながら、言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を得れば、それをひけらかさずにはいられない。経済社会が消費を煽らなければ成り立たないように、知識社会もまた情報を煽らなければ成り立たない。知性ある者が知識を自慢するだろうか?理性ある者が道徳観や倫理観を自慢するだろうか?
そして、鏡の向こうでは、お喋り好きな酔いどれが長ったらしい文章を書き続け、夜の社交場でウンチクを垂れてやがる。パスカルが言うように、やはり人間とは狂うもの、いや、自己陶酔するものらしい... いや、君に酔ってんだよ!

1. 覗き穴のモラル
着替えに集中しているホットな女性に声をかけるのは、礼儀に反する。せっかく湯につかってくつろいでいるのに、声をかけるとは言語道断!紳士のおいらができることと言えば、壁穴から温かく見守ってあげることぐらいさ...

2. 理性ってなんだ?
良心と相性のいいものに理性というものがあると聞く。我が家の国語辞典によると... 物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力... とある。道理ってなんだ?... 物事の筋道... とある。筋道ってなんだ?... 物の道理、条理... とある。まるで堂々巡り!国語辞典ですらまともに説明できないものを、一介の酔いどれごときがどうして知り得よう。
数千年に渡って、偉大な哲学者たちは中庸の原理を唱えてきた。万物のバランスこそが宇宙の真理であると。それは、陽と陰、善と悪、美と醜など、あらゆる対比から生じる相対性認識論と言うべきものである。精神を歪ませれば、あらゆる病を引き起こす原因となる。いや、歪んだ心で眺めれば、病気はむしろ健康に見えるか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、まさにそれだ。なんと幸せなんだろう。人間とは、幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるものらしい。カントは、理性批判の中で普遍的な道徳法則のようなものを語った。道徳ですら、理性ですら、暴走する危険性があることを匂わせて。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん。
有徳者どもに理性があるか?と問えば、馬鹿にするな!と言わんばかりに怒鳴る。ならば、いつも憤慨しているのはなぜか?理性の力をもってしても、心を平静に保てないというのか?仮に理性を実践し、義務を果たしているというのなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい...

3. 知性のコーナーを攻める!
教育が専門化によって没落するという意見を耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることであろう。つまり、哲学的観点が欠けていること。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。
人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。知識が豊富でも精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれたアル中ハイマーには知性なんぞ永遠に無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
知性は、健全な懐疑主義と自己啓発された個人主義に支えられている。ならば、精神をちょっと破綻させ、ちょっと狂っているぐらいでちょうどいい。それを自覚できれば、なおいい。ちょっと馬鹿なぐらいでちょうどいい。ちょっと自信がないぐらいでちょうどいい。ちょっと幸せを意識するぐらいでちょうどいい。そして、コーナーの限界を攻めるには、ちょっとアンダーステアぐらいでちょうどいい。
ちなみに、夜の社交場では、ちょいワルぐらいでちょうどいいと助言を頂いたが、清楚で通っているおいらには無理な相談よ!

4. デモクラシーの象徴ども
フランス革命が提示した、自由、平等、博愛という三大原理は、いずれも単独で大暴走する性格を持っている。それは、既に恐怖政治で実証済みだ。三位一体の調和が崩れた時、自由主義が弱肉強食的な資本主義を煽り、平等主義が搾取的な共産主義を敢行し、博愛主義が魔女狩り的な盲目主義を崇める。
愛が暴走する代表的な情念に、愛国心ってやつがある。愛国心の弱点は、自国に誇りに思うことと、他国を蔑んで優位に立つことを混同すること、そして、誰もが狂信的な愛国者へ変貌する恐れがあることだ。国家を支える理想主義には、既に予知された災厄が潜んでいる。経済政策さえうまくやれば、少々無謀でリスクの高い外交政策にも世論は目を瞑る。
民主主義の弱点は、誰もが厄介事に眼を背けることと、責任の所在が明確でないことに加え、集団性がこれらの性質を助長することだ。個人では理性的に振る舞うことができても、集団化すると悪魔化する。しかも、それに気づかない。集団ってやつが人をこうも浅ましくさせるものであろうか。人はみな、少しずつズルい!エリート集団が厄介なのは、責任や義務を巧みに逃れ、権威だけを増幅させることだ。かつて強者が弱者を叩く時代があった。今は弱者がより弱者を叩く。社会システムが抽象化すれば、世論は鈍感になるのか。
どんなに美しい理念も、他との調和を失った途端に暴走をはじめる。善も、悪も、理性でさえ、知性でさえ。そして、暴走してみて初めて、自分自身の愚かさを知る...

暴走老人症

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文豪ゲーテは、七十を過ぎて二十歳前の娘に求婚した。not 酒豪も負けちゃおれん!
一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。ホットな女性の数だけ愛があるとすれば、惚れっぽい独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう...

さて、歳を重ねると丸くなると言うが、それは本当だろうか。心配症を募らせ、せっかちになり、頑固になり、嫌味の一つも口にしないと気が済まない。説教することでストレスを発散させているのだ。おまけに、足が臭くなり、口が臭くなり、酒の場で醜態を演じながら、肉体も精神も腐っていくのを感じる。
信じられない速さで去っていく... 時とは、そういうものらしい。だからこそ、自然で風狂な言葉を欲するのであろうか。死に近づけば、詫び、寂びってやつが見えてくるのかは知らん。だが、そうした美意識にでも縋らなければ生きることも難しくなる。沈黙の美徳を忘れ、相手を黙らせてまで議論に割って入り、批判論、いや愚痴論を喋らずにはいられない。これも、ある種の依存症か。
もはや、デジタル依存症などと若者たちに説教を垂れている場合ではない。実際、スマホを自宅に忘れ、オンライン認証ができないと騒ぐオヤジがいる。

経験を積んだからといって理性的になるわけではない。経験したからといって理解したことにはならない。生まれたばかりの幼児は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人はどうであろう。
プラトンは、森羅万象の原型であるイデアなるものを唱えた。魂にも原型のような状態があり、そこから善の根源的な意識が芽生えると。しかし、知識を得れば、そのすべてを脂ぎった欲望に注ぎ込み、もやは知識のない頃の自分を思い出すこともできない。人の言葉は耳に入らず、思いやりや友情などという言葉に照れくささを感じ、正義や道徳という言葉ですら虫唾が走る。子供が素朴な哲学者とすれば、大人は脂ぎった屁理屈屋というわけだ。寛大な者を僻み、人々に愛される者を妬み、知識ある者を羨み... 魂は嫉妬の塊に成り果てる。おまけに寿命が延びれば、生への執着は衰えるどころかますます旺盛となり、命が一番大切だと叫びながら、他人の命を押しのけてまで助かろうとする。そして、どう生きるかではなく、長く生きることが目的と化す。ますます自己保存に執着し、未練を永遠に断ち切れそうにない。
その一方で、余命宣告を受けた者が、超人的な能力を発揮することがある。死に近づくことによってしか、生を問う機会が訪れないというのか。平均寿命が延びれば、新たな世代層が生まれ、社会の構成員が変わり、幼年、少年、青年、壮年、老年の概念も変わっていく。だが、いつの時代も、古き時代を鼻で笑い、新しき時代に過剰な期待をかけることに変わりはない。新技術や最先端という言葉に目を奪われ、進化や進歩という言葉までも迷信化する。そんな時代にあっても数千年前の哲学が輝きを失わないとすれば、人類は慢性的に老人症にかかっているのかもしれん...

受け入れる度量のない子供に道徳観や倫理観を期待しても、人間が人間でなくなることを期待するようなものである。とはいえ、大人だって具体的に指示しなければ、行動できないではないか。大人だって大きな子供でしかない。
孔子曰く... 十五で学問を志し、三十で独立精神を持ち、四十であれこれと迷わず、五十で天命をわきまえ、六十で人の言葉を素直に聞き入れ、七十で思うままに振る舞って、それで道を外れないようになる...
しかし現実は、十歳でお菓子に、二十歳になると快楽に、三十になると野心に、四十になると愛人に、五十になると利欲に憑かれる。そして、迷信、偏見、誤謬へ導き、自分を賢いと信じ、人を見下すような権威主義に陥り、人権はとるに足らないものとなる。都合の悪い問いかけは、脂ぎった魂が常識とやらで片付けてくれるという寸法よ。
腐敗は、生あるものの本質か。自己に疑問が持てなくなったら、腐っていると見るぐらいでちょうどいい。大人から教わることは、たいてい本を読めば済む。だが、子供から教わることは、理屈では説明できないことが多い。R-18 指定すべきは、理性や知性の方かもしれん。酒の味を知らぬ者が、プラトンの「饗宴」を読んだところで得られるものはあるまい...

1. ささやかな煩悩
一霊四魂という思想があると聞く。勇、親、愛、智によって構成される魂が、一つの霊によって統括されるという思想である。いずれの魂も孤立すれば、邪気となる資質を具えている。邪気が悪魔の手に落ちれば、たちまち邪悪な鬼と化す。血塗られた歴史の陰には、いつも邪鬼が潜んでいた。アダムとイブが禁断の果実を食して以来、人間は神の意を解すことができなくなり、お釈迦様ですら菩提樹の下で心を惑わせた。イエスは敬虔な使徒に裏切られ、シーザーは誠実な盟友にあやめられ、芸術を愛した皇帝ネロを暴政に狂わせ、ボルジア家を強欲の代名詞とし、建築家を夢見た内気なヒトラーをば悪魔へ変貌させた。人の心には、恐ろしき邪鬼の棲家がある。歳を重ねれば、心の病を克服することができるだろうか?
仏教では、克服すべき最も根源的な三つの煩悩を三毒と呼ぶそうな。貪、瞋、癡が、それである。一つの欲望を満たせば、すぐに次の欲望に走る。他人が持っているものが良く見え、それを欲する。カネが欲しい、愛人が欲しい、時間が欲しい、快楽が、才能が、知性が、理性が... まったく懲りない性分よ。すべての欲望を放棄できれば、精神は自由になれるであろうに...
しかしながら、精神は欲望によって成長する。欲望を捨てたいというのも、これまた欲望!精神とは、欲望に幽閉された存在というだけのことかもしれん。
一方で、芸術家の目覚めは精神を悟るに、いくら狂っても足りない。四魂の邪鬼を存分に解放させてもなお、猛烈な狂気の調和を目論んでやがる。ただ、能力が欠けていても夢を描くことはできる。偉大な夢を実現できたら、どんなに幸せであろう。せめて過ちを夢に閉じ込められたら、どんなに楽になれるであろう。そして、狂人の悲痛な叫びを聞くがいい... おいらのささやかな望みは、ハーレムに収監されたいだけなのだ!

2. 頭脳年齡と知性年齡
若い頃は、優れた人物の言葉に率直に耳を傾け、同世代の仲間と議論することで、より多くを学ぶことができる。だが、大人になると防衛意識や縄張り意識のようなものが働き、似た者同士で集まろうとする。寛容性では子供の方が優れていそうだ。友情とは、人を利用するために育むものではあるまいに...
本質を学ぼうとする資質も、政治的な思惑に毒された大人よりも、純粋に学びたいと願う子供の方が優っていそうだ。やはり大人になるほど狡猾になるものらしい。
しかしながら、大人や子供の指標は年齡では計れない。仮想社会の奇妙な人間関係が、妙に社会的な意識を成熟させたり、大人顔負けの戦略的思考を実践する者までいる。大人たちがネット社会から子供を守ろうと手引を思案している間に、子供たちは遥かに有用な行動をしている。むしろ大人たちの方が、子供の持ちかける議論に感情的になり、子供じみた犯罪を繰り返しているではないか。
長老という威厳も過去のものか。寿命が延びれば、親より先に逝くケースも増え、世代の概念までも曖昧にさせる。頭脳年齡や記憶年齡というのは、確かにある。肉体が衰えれば、人体の機能組織が衰えるのも道理だ。知識を得ようとする意欲もまた年齡に関係しそうなものだが、死ぬ瞬間までその意欲を持続させる者がいる。持続力とは、天才の特質であろうか。知性年齡や理性年齡なるものは、時間とは別の次元にありそうだ...

3. 遠近法と老眼法
情報の溢れる社会では、あまりにも身近なために、つい見過ごしてしまうことがある。情報収集の難しい時代は、瞬時の変化を探知する微分的視点が必要であったが、今日では、積分的思考の方が有効であろう。世間から少し距離を置くことも大切にしたい。意欲さえあれば、情報は自然に得られる時代、くだらない意欲さえ放棄できれば、くだらない情報は自然に遮断されるであろう...
分かりやすい情報は目の前を通り過ぎて行きやすい。そこに疑問を感じなければ、思考する機会も訪れない。その点、難解な書は思考の材料にうってつけだ。だからといって、理解できると期待してはいけない。目は文章を追うものの、頭は別のことを考え、幽体離脱のような気分にさせる。絵画を鑑賞するようにページを眺め、数十ページ単位で後戻りするのもしばしば。少し目を離し、遠近法のような立体的な観点を要請してくる。そういえば最近、近くが見えにくい... 老眼って言うな!

4. 地球の老化とともに
毎日、顔を合わしていれば、十年経っても変化した様子が見当たらないというのに、十年ぶりに友人に会うと、歳をとったなぁ、という印象を与える。そして、毎日、自分自身を鏡に映し、明日はまだ大丈夫!と自分に言い聞かせる。そして、保証のない安心を買い、不摂生を繰り返す羽目に...
地球環境も似たようなものであろうか。平凡な日常が、環境の変化に気づかせない。百年前の人が現在にタイムスリップしたら、空気の香りや山の景色に驚愕し、町の汚染に幻滅するかもしれない。温暖化と寒冷化の繰り返しは、生物の生存分布に大きな影響を与える。今後、十年から二十年ほどのスパンで世界的な食料危機が訪れると言われている。ある研究報告によると、植物が光合成によって生産する有機物の総量、いわゆる純一次生産が、地球上でほぼ一定だとか。つまり、地球上の植物で養うことのできる生命の総量が決まっているということだ。
もし、その量が限界に近づいているとすれば、酸素を必要とする動物たちを激減させて、二酸化炭素を吸収する植物の社会からやり直さなければなるまい。それが、氷河期の意義であろうか?やがて氷河期を迎え、人類がまた生き延びられるかは知らん。ただ、偉大な地球の歴史に照らせば、エネルギー消費量の高い生物は、その数を思いっきり増やしてきたツケを払わされることになろう...

理性の検閲官ども

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なぜ、人は群れるのか...
人との付き合いに飽きれば、自然との戯れを欲し、いつも何かと接していないと落ち着かない。それゆえに、自我を肥大化せずにはいられないのか。知識や美徳を求めるのも、詫や寂を欲するのも、その類いであろうか。人はみな、寂しさに耐えながら生きている。ただ、それだけのことかもしれん...

人間には、心地良いものに群れる習性がある。虫が灯りに引き寄せられるように。都合の良い解釈で集まり、似たもの同士の相乗効果によって感情論を増幅させる。個人で見せる豊富な寛容さや冷静さは、集団の中ではまったくの無力。人間社会では、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強そうだ。堂々とした悪徳と陰湿な正義が同居し、加害者が正義を装って被害者の側に回ることもあれば、真の被害者が退場させられることだってある。売り言葉に買い言葉... 何気ない一言に怒号が群れ、理性の検閲官を自認する者が、ますます横暴に振る舞う。たとえ小さな善意の集まりであっても、しばしば大きな悪意へ変貌し、正義ですら社会的制裁だけでは飽き足らず、ストレス解消の道具とされる。
人の集まるところに欲望が群がる。善意によって集められた支援金は、多額なだけに質ちが悪い。一人で良い目にあうと、それを誰かに伝えたくてしょうがないものらしい。善意の性分は、押し売り根性と相性がいい。
人には、集団からはみ出すことを嫌う性向がある。派閥を作っては、自ら思考することを放棄し、一人の長に意思決定を委ねる。正直者は堕落と官僚主義に押し流され、集団的な堕落は、不和から生じるのと同じくらい同意からも生じる。戦争とは、集団性の産物でしかあるまい。
おまけに、プレゼン力やアピール術が物を言うと真理は多数決に流され、魔女狩りの類いは過去にもまして牙を剥く。情報が氾濫する社会では、情報のS/N比を低下させ、弁論術はソフィストの時代よりもいっそう盛況となる。露出狂と暇人が共謀してゴミ投稿を煽り、ネット資源を浪費し続ける。
こりゃ負けちゃおれん!そして、自己の馬鹿を曝け出し、自己の馬鹿を舐めるように愛しながら書く。そう、ジャンク長文で応酬だ!

1. 個人と集団の差異
人体は原子の集まりによって形成され、そこには一つの魂が宿る。人間社会は個人の集まりによって形成され、ここにもまた集団的な意思が生じる。個人と集団の違いは、原子には意思なるものがないが、個人にはあるということぐらいであろうか。純粋なものが集まれば秩序が生じ、意思あるものが集まれば秩序を乱すというのか?だから、政治家どもは思考しない国民を求めているのか?なるほど、思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
固い結束はファシズムと相性がいい。自意識を高めた輩が群れると、正義や義務までも凶暴化する。一昔前、B29に竹槍訓練で対抗しても仕方がないと呟けば袋叩きに合い、講和論を唱えようものなら非国民と呼ばれた。そして今、東京オリンピックの開催に苦言をツィートすると非国民と罵られる。福島原発のあの有り様を見て、なにが復興オリンピックなのか?泥酔者にはとんと分からん。
近年、国粋主義や全体主義から離れて、違った形でファシズムが横行する。禁煙ファシズム、エコファシズム、友愛ファシズム、絆ファシズム、原発ファシズム、脱原発ファシズム... 集団が束になって流行めいたものを追いかけるという意味では、一種のファッション感覚。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ...とは、まさにこれだ。高度な情報社会には、戦時中にもまして検閲官どもが溢れている。人間の意思ってやつは、大勢の語り手に圧倒されると、狂気するものらしい。では、誰も悪くないというのか?いや、誰もが少しずつ悪いのだろう...

2. 笑い禁止令
笑いを感じる能力は、音楽を感じる能力と似ている。音楽センスに長けた者が美しいメロディーを感じることができても、目の前にある芸術にまったく気づかない人もいる。そこに確実に存在するものは、音波という物理現象のみ。それを感知する能力は、極めて主観的で、どこか狂っている。論理をもってしても、理性をもってしても、説明できない。だから面白い。真の芸術は、わざわざ権威を示す必要がない。理解者のみが自然に堪能できればいいのだから。それは、聖書を理解できる者が、その権威を示す必要がないのと同じであろう。笑いもまた高度な芸術の領域にあるのだろう。笑いの能力は高等な動物の証とされる。それゆえに検閲の対象は、まずもってこの方面へ向けられる。
しかしながら、理性が暴走すると、冗談も言えない息苦しい社会となる。エイプリルフール禁止運動まである。確かにネット社会には、行き過ぎたイタズラの類いが風説流布となって猛威をふるう。目を覆いたくなるようなものまで。これに対抗して、理性の検閲官はちょっとした冗談でさえ許さず、ソーシャルメディアという裁判に引き出し、集団リンチにかける。リンチに参加するつもりがなくても、無責任にコメントしたり、気軽に賛同するだけで参加させられる。責任ある立場の者が問題を曖昧にする分、明確な意見を言う者がバッシングされる。謝罪はもはや形式だけ、真摯、誠実、反省... こうした言葉をますます安っぽくさせる。凡庸を自覚できなければ、その他大勢にも完璧を求めるというのか。まるで言霊信仰!情報社会が高度化すると、情報の自由化が進み、知識や価値観に多様性をもたらしそうなものだが、逆に同じ解釈をする人々が集まって二極化する。
しかしながら、多様性は寛容性と相性がよく、笑いのセンスほど多様性に富んだものはない。笑いのレベルで社会の成熟度を計ることができよう。冗談も通じない社会となれば、言葉が貧弱になり精神もまた貧弱になる。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、それらが共存するためには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。笑いを禁止しなければ理性が保てないとすれば、理性もまたどこか狂っている...

3. バラエティー化と引き算の法則
マスコミの正義ほど違和感を覚えるものはない。悲劇を演出しながら、人格まで事細かく報じ、被害者を晒し者にする。被害者の写真のドアップが、加害者よりも、はるかに放映時間が長いとはこれいかに?マスコミは、人に勝手なキャラクターを植え付け、メディアという舞台で演じさせる。マスコミ嫌いには悪役のレッテルを貼り、媚びを売る者には善人役を与えるのだ。したがって、論理的に語れる者よりも、感情的に巧みな者の方が、好人物の役柄が得られることになる。スポーツ中継では、アスリートですら勝手にキャラクター付けされ、純粋に楽しめない。場内音声のみという選択肢しかないか。題材とは無関係のタレントを出演させ、スポーツや政治など、あらゆる分野にバラエティーを混入し、双方の世界を台無しにする。視聴率主義が、なんでも足し算させようとするのだろうか?
政界にも、足し算の法則に目を奪われ、政党の合併や選挙協力によって支持層を増やそうとする目論見が横行する。まったく性質の合わない政党が結びつけば、却って逃げていく支持者がいる、という思考は働かないらしい。無節操な混ぜあわせは、引き算の法則が働くであろうに...

4. 良識派ども
自称良識派は実名主義を掲げ、理性的な議論を求めるために極論を持ち出す。だがそれは、価値観の押し付けという側面がある。実際、正義感旺盛のネット民によって、実名はオモチャにされ、脅迫、誹謗の類いに曝される。法に基づかない私的制裁が、社会的制裁に変貌するのに大して手間はかからない。これは、実名うんぬんより、集団性の法則として承知しておくべきであろう。自由主義の暴走は、迫害にも自由を与える。
市民運動にだって利権が絡み、真の意味での民主主義運動を見分けることは難しい。中には、純粋な動機で参加している人々もいるが、その運動に利権を絡めた政治屋が暗躍することも多々ある。尚、ここで言う政治屋とは、政治家だけではない。あらゆる集団には謀略好きな輩が必ずいるということだ...

メタ化社会か、メタメタ化社会か

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主体を観察しようとすれば、客体の眼を要請し、互いに立場を交換しあうことになる。客観だけでは心許無い、ましてや主観だけでは危険だ。主体が魂となれば尚更。そこで、主体が主体を導くような仕掛けを欲する。こいつは、既に自己矛盾に陥ってやがる。魂の持ち主は、永遠に己を知ろうとし、また永遠に己を知り得ないということか...

あらゆる学問分野で、それ自体を研究対象とするための「メタ(meta)」という用語を見かける。メタ認知、メタ言語、メタマテリアル、メタ数学などなど。この用語には、高次の... 超... などの意味があるが、客観性や抽象化といった意味も含まれる。自己を見つめようとすれば、自分自身を超越した能力を自我に求め、自分自身が第三者になりきろうとする。この、なりきった第三者ってヤツが厄介なことが多い。人間の欲望は衰えを知らない。知性や理性を高めれば、さらに高次の理想像を求めるは必定。そして、神にでもなろうというのか。エリートたちが上から目線となるのも至極当然。ならば、知性を高めても、理性を高めても、それだけでは危険ということになる。では、他に何を求めればいいというのか。
メタ精神に惹かれるのは、現実逃避への願望でもある。哲学することが心地良いのは、現実世界が真理からあまりにも乖離しているからであろう。それ故に、自己の及ばない次元を夢想できる。そして魂だけが、風狂の言葉を求めて放浪の旅へ出かけていくという寸法よ。幽体離脱した後には、ぺんぺん草も生えやしない。メタ精神ってやつは、自ら精神をメタメタにしていくものらしい...

ところで、メタ哲学と言うべきものに「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、超理念的な... といった思想観念を持ち上げる。対して、形あるもの、時間や空間などの物理量で測れるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神現象でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而よりも上にあると、どうして言えよう。哲学が自問の原理に支えられている以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自己にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお心が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となる。ときには、人間の掟に背き、自己に構築された原則を破り、あるいは、自分の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。ヘタすると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となり、肉体が自我に弄ばれるという寸法よ。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対しても残虐行為に及ぶ。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。惰性的な幸せを求めるだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は常になんらかの泥酔状態にあるだけに、自己陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。そう、強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでええんでないかい...

1. 騒がしい社会
主体が語り始めると、特権的な権利ばかりを主張し、そこに集団性が結びつくと、排他原理が働く。騒がしい社会では、自己の言葉ですら聞こえてこない。そして、理性者を自認する者の言葉がもてはやされる。もはや社会と距離を置き、自問の能力を取り戻さなければならない。だが、精神の限界に挑んだ者は、狂人扱いされ、社会から抹殺される。狂気を知らずして、どうして常識を知り得よう。
人間にとって、当たり前と思えることが、いかに心の拠り所となりうるか。なんの疑問もなく受け入れられることが、いかに幸せであるか。精神の存在自体が不確かなものなのだから、それも致し方あるまい。ある大科学者は、「常識とは18歳までに身につけた偏見の塊」と言ったとか言わなかったとか。ソクラテス風に言えば、無知を自覚できない者は永遠に無知であり続ける。つまり、人は誰もが無知だということだ。ならば知恵を身につけ、悪人になるしかないではないか。善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや... とはこの道か。そして、理性が暴走し、正義が暴走し、自己愛を強固にしながら一層手に負えない存在となっていく。
現代の天才は、古代の天才ほど神がかっている必要はない。現代の芸術家は、ルネサンス期の芸術家ほど偉大である必要はない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有徳者も有識者も昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。知性の凡庸化、理性の凡庸化とは、人間社会に何をもたらそうとしているのだろうか...

2. 相互理解
世間には、なんでも対話で片付くという楽観論がくすぶる。だが、互いに冷静さを欠く状況では、却って感情論を助長するだけ。仮想社会で、強いつながりよりも弱いつながりを求めるのは、それなりに合理性がある。関係が近すぎるから、互いの存在を意識し過ぎる。社会で優位に立とうとすれば、互いに弱みを握ろうとする。これすべて自己防衛本能の裏返しだ。相手が心地良い存在であり続ければ問題ないが、人間関係にそんな理想像は描けない。少しでも機嫌を損なうと、それが溜まりに溜まり、やがて罵り合い、傷口に塩を塗るような発言を繰り返す羽目に。
関係とは、間合いをはかること。互いに意識しないこと、互いに距離を置くことが効用となる場合が多々ある。神の前で誓った二人ですら、法の調停を求める。個人には意思があるだけに、個人からも、社会からも影響される。そして、人間嫌いにもなれば、社会嫌いにもなり、挙句の果てに自己嫌悪に陥る。SNSを増殖させる社会では、SNS嫌いも増殖させる。相互関係で距離をはかることも、メタ思考としておこうか...

3. メタ言語
プログラミング言語には、自己ホスティングという概念がある。言語系自体が解析処理まで記述できる能力を持つということだ。古来、自然言語にもそうした試みがある。母国語の研究は、ひたすらそれ自体の言語で記述されてきた。客観的な観点を与えるために、外国語で記述すればいいというものではない。言語体系そのものが、精神を投影するという自己矛盾を孕んだ存在なのだから。すなわち、言語を語るとは、自分を語ることであり、ひいては人間を語ることになる。そして、人類の普遍性なるものを探求すれば、自然言語がどこまでメタ言語になりうるか?これが問われるであろう。
しかしながら、母国語に対しては、どうしても愛着と贔屓目で見がちだ。外国語との比較によって、母国語の特徴をより鮮明に映し出すことはできるだろう。いずれにせよ、万能な言語はこの世に存在しない。もし存在するとすれば、人間は精神の正体を知ったことになる。いや、ひょっとすると既に知っているのかもしれん。だから、躊躇なくメタメタ化社会へ邁進できるのかは知らんよ...

肥大化する諜報化社会

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おいらは、SNS が嫌いだ!

諜報システムは、それ自体が肥大化したモンスターとなった。2002年頃であろうか、DARPA(国防高等研究計画局)のTIA(全情報認知)プログラムが物議を醸した。このプログラムは国民と議会の反発を買い、頓挫したかに見えたが、NSAとAT&Tの関与が暴露され、当時の大統領ブッシュも認めた。次に大統領となったオバマは、通信業者による盗聴を強く批判した。そして2013年、スノーデン氏の暴露で騒ぎおる。今更なにを!
政府の教訓ってやつは、次はもっとうまくやる!ってことか...

プライバシーポリシーでは、心地良いフレーズが踊る。
"we may share your personal information..."
share を use と置き換えるとゾッとする。we ってのも怪しい。政府や企業、テロリストまでも含まれるということだ。国民のため!などという決まり文句ほど胡散臭いものはあるまい。自分も、家族も、政治団体も、みんな国民だということだ。
通信業者は、平然とこんなことを宣言する。
「当社は、利用目的の達成のために、利用者から個人情報をご提供いただくことがあります。」
サポートサービスでは、自宅にサービスマンが伺わなくても、遠隔操作でパソコンの設定をやってあげます!というのも見かける。なんと無防備な!
アンケートを求める団体を見かければ、時代遅れと思う反面、まだしも健全かもしれない。ちなみに、日本人がアンケートで平気に名前や住所を書き込む姿を見て、なんと無防備な!とある外人さんがつぶやいていた。
SNS を取り巻く世界には、個人情報の分析から利益を上げるビジネスモデルによって這い上がってきた企業が群がる。犯罪者は自己顕示欲が強い傾向にあり、過激な発言を追跡するだけで犯罪性との関連性を特定できるだろう。だが、冗談であることが一目瞭然であっても、コンピュータはお構いなし。みんなで盛り上がって飲もうぜ!を仲間内の言葉で、アルコールエネルギーを爆発させようぜ!なんてつぶやこうものなら、犯罪者リストに登録される。実際、ツィートによって爆弾魔と間違えられ、入国拒否を受けた人がいる。子供とプロレスごっこをしている父親の姿を、母親が面白半分でネットに投稿すると、ドメスティックバイオレンスで告発された事例もある。
いまや匿名の意味も薄れた。削除されたはずのデータにしても、本当に削除されたという保証はどこにもない。匿名の発言は誠実さに欠け、実名を出せば秩序を取り戻せるなどと主張する有識者どもは、そんなことを本当に信じているのか。普通の人は隠し事など持つはずがない!などと発言する有徳者どもは、マスコミ天国でも唱えているのか。きっとそういう聖人は、自宅の映像をネットに公開されても、目くじらを立てたりはしないだろう。

意欲さえあれば、情報は自然に得られる時代、くだらない意欲さえ持ち合わせなければ、くだらない情報は自然に遮断されるであろう。加熱する情報社会では、世間から距離を置くことが実践的な解となることが多い。そして、無気力とニヒリズムが旺盛となる。
いまやビッグデータは、漏洩経路を辿ることもできず、独り歩きを始めた。人類の叡智を共有する!とは、なんと美しい理念であろう。クラウド化すればすべて持たなくて済む、いや、持った気になれる。半導体の進化によって、本格的なウェアラブル時代が到来しつつあり、肉体にもビルトインされる。身体の一部となれば、落としたり、失くしたりする心配もない。めでたしめでたし!
そして、すべての位置情報が明るみになり、立ち寄った店も一目瞭然。営業マンもサボれない。自動車はネットでつながり、どこから遠隔操作されて事故を誘発されたか分からない。キャンペーン商品や贈り物など、どこにGPS発信器が仕込まれているか分からない。それでもなお最先端を生きている気分になれれば、めでたしめでたし!
SNS でつながっているだけで、友人になった気分になれる。政府も、有名人も、みんなお友達!めでたしめでたし!
あまりにもリアリティな映像が、自己補正能力を麻痺させ、乗り物酔いにさせる。逆に、慣れない現実社会に引き戻されれば、それだけで世間に酔う。そして、なんとなく夜の社交場に通うのも、脳に半導体チップが埋め込まれているからに違いない... やっと説明ができた。めでたしめでたし!

もしも、泥酔した反社会分子が「おもてなし論」を語ったら...

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もしものコーナー... だめだこりゃ!

文化とは、どこの国でも押し付けがましいところがある。特に日本文化は、型や様式に嵌める傾向が強い。ある外人さんが、こんな指摘をしてくれた。欧米式は働きかける文化で、日本式は恵む文化であると。恵むというよりは、与えると言った方がいいだろう。西洋レストランでは、メニューに書き出して選択肢を与えるよう配慮され、懐石料理では、出されたものをそのまま楽しめるよう配慮される。能動的な意志と受動的な意志の違いは、意外と大きい。サービスを受ける側にとって、選択の自由が束縛されるとすれば、息苦しくも感じよう。おもてなし!は、能動的な文化に慣れ親しんだ人々にとっては、余計なおせっかいになりかねない。幸せの押し売りの類いか。
一方で、郷に入っては郷に従え、と言うように、まずは相手の出方をじっくりと見聞する態度は、積極的に文化を受け入れるという見方もできる。自由に対する意識の違いとでも言おうか。
そもそも、お客人をもてなす風土のない地域が、どこにあろう。あまり日本固有の文化だと強調すれば、自惚れが酷いと思われるのがオチだ。

たまーに、外国人お断り!という旅館を見かける。外国語が喋れる従業員が一人もいなくて対応できず、迷惑をかけるという善意からの発言であるが、異民族で交流するのが当たり前の国では、差別意識が強い国と勘違いされる。
お客さんを迎えるために、完璧な対応や準備が必要だという考え方は、プロ意識として確かにある。だが、あまりにも閉鎖的な態度は、交流以前に摩擦を招くだろう。もてなす側がすべてを抱え込むか、あるいは、お客が自発的に溶け込むかの違いもある。わざわざ遠くから日本文化を嗜みに来た連中が、欧米式のおもてなしを期待するはずもあるまい。

こうした感覚は、言語に対する態度にも見て取れる。外国語を話す時、あまりにも文法を気にし、完璧に喋ろうとするために、日本人は完全主義者か?と指摘されることがある。いや、そんなことはない。面倒なことは、ついイエスと答えてしまう。
ただ、いい加減な事でも自信満々に喋ってくれば、萎縮してしまいがち。それは相手が日本人であっても同じ。外人さんが皆そういうタイプというわけではないし、意思表示やコミュニケーションの苦手な人もいる。ダーティハリーがお喋りじゃ、様にならんよ。
とはいえ、わざわざ極東の異文化を求めるほどのツワモノたちが機関銃のように喋ってくれば、圧倒されるのも仕方あるまい。もともと日本の慣習では、傲慢な態度は好まれないし、自信満々な態度に照れくささも感じる。だが、控え目に見せながらも、心の底では反対の意志を燃やしているところがある。プレゼンテーションやアピールが苦手と指摘されるのも、そうした慣習からであろう。
しかし、だ。客に有無も言わさず、隙を見せないという意味では、おもてなし!こそ、完全主義の象徴かもしれん。達人ともなれば、お客人に自由を与えていると思い込ませながら、選択肢を完全に支配し、おもてなしの奴隷とさせる。
ちなみに、行付けのバーに行けば、オーダーもしていないのに、これを飲んでみてください!と、極上の酒が出される。おかげで、おいらはオーダーの仕方がすっかり分からなくなってしまった。これも、M性の定めなのさ!

もしも、負け組のアル中ハイマーが「負け惜しみ論」を語ったら...

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もしものコーナー... だめだこりゃ!

自称「時代の敗北者」、人間以下、いや未満の人生... そして、人間が苦手になる。苦手というからには、人間の何かを恐れている。優位性を求めるとは、ある種の自慰行為であろうか。人類は、いまだ絶対的な価値を知らない。つまり、相対的な価値判断しかできないということだ。自己満足に浸るために、他よりも優位な要素をあら探しをしてまで求める。幸せの正体も知らない。だから無限に幸せを願う。真の豊かさを知らない。だから底なしに銭を欲する。
世間には、勝ち組やら、負け組やらで区別したがる連中で溢れている。勝ち組とは、ある基準に照らして、自分よりも下等の立場を無理やり作り出す自慰行為の類いであろうか。負け組に属すことを素直に認められる余裕のある者は、ごく少数派であろう。そもそも負け方を知らぬ者が、勝ち方を知るはずもない。もし失敗したことがないと主張する者がいれば、失敗の定義がどこか間違っているか、失敗を認識することすらできないのだろう。惰性的な平和、惰性的な幸せに縋って生きていれば、それほど失敗を感じなくて済む。真の勝者は、敗者を知るが故に敗者をいたわる余裕がある。あるいは、勝者と敗者の概念すら持ち合わせないのかもしれん。
同情は快い。悩む人の立場に自分を置き、しかも、自分は苦しんでいないことを確認できるのだから。羨望は辛い。幸福な人を見ることは、自分の不幸を確認することだから。すべては人と人との相対的な関係から生じる情念に支配されている。ならば、真の幸福は孤独の中にあるということはないだろうか。とはいえ、孤独を真に味わえるのは、人間関係を謳歌した者かもしれん。恋愛や友情を飽きるほど体験した者かもしれん。人間関係を謳歌できる者もまた、孤独を知らなければできまい。結局、同時に知ることになるとすれば、やはり孤独もまた人間関係の中にありそうだ...

苦しむ人を憐れむことができるのは、苦しい目に遭った経験があるか、苦しい目に遭うことを恐れているからであろう。そして、現実に苦しんでいる人は自分を憐れむだけである。軽蔑している人の幸福を軽んじるのは、いわば人間の本性。古来、奴隷は虐待され、貧乏人はますます貧乏へ、弱者はますます弱々しく生きることを強要されてきた。どんなに平等を崇めたところで、目に見えない階級制度が生じる。これも、相対的な情念に支配される社会の宿命か。
政治屋ってやつは相手を罵ることしか知らない、まったくネガティブキャンペーンのお好きな連中だ。おまけに、メディアがその選挙運動を後押しする。政治の世界で、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演じることは稀である。歴史を振り返れば、思想観念がはるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物が決定的な仕事をしてきた。政治使命は、理性と責任から生じるのではなく、疑念や不徳によって動かされてきた。すべては、いかがわしい性格と不十分な悟性によって運営されている。権力者が無慈悲でいられるのは、一般人になるつもりがないからに違いない。金持ちが貧乏人に苛酷なのは、貧乏になるつもりがないからに違いない。エリートが庶民を馬鹿にするのは、庶民になるつもりがないからに違いない。
人が死んだり苦しんだりするのを毎日見て生きている医師は、そうした運命に鈍感になっていくのかは知らん。法律の網をくぐりながら生きている政治家は、悪徳が見えなくなっていくのかは知らん。道徳を強制しながら生きている教育者は、理性がなんたるかが見えなくなっていくのかは知らん。そして、嫉妬心や虚栄心という自分の狂気沙汰を治す術を、負け組の酔いどれにはとんと分からん...

高度な情報社会がグローバリズムを急速に拡大させ、情報や知識が思うまま手に入るようになった。ならば、人間は知性を進化させ、精神を成熟させそうなものだが、実際は、情報格差、知識格差、所得格差、世代間格差など様々な認識格差を生じさせ、いっそう勝者と敗者の意識を区別する。能動的に生きる者はより能動的に、受動的に生きる者はそれなりに... 機会均等という一見美しい理念も、格差社会の餌食と化す。できる者は静かに実行し、できない者は能書きを垂れるしかない。そして、おいらはジャンク長文を書き続ける。
グローバル競争を、弱肉強食と同一視する者も少なくない。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真意だと思う。
ネット社会には、国際感覚に旺盛な集団がある一方で、国粋主義に邁進する集団がある。自己存在を意識せざるを得ない社会では、似たもの同士で集まり、卑屈がより卑屈にさせ、優越がより優越にさせ、集団の持つ性癖をより際立たせる。今日の勝者が、明日には敗者になる時代、どこの国でも国民意識の二極化が進み、世論は激しく右往左往している。
だが、おいらは、中庸の原理を唱えない偉大な哲学者を知らない...

"言語研究とフンボルト"泉井久之助 著

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ここに、フンボルト人間論という視点から言語学を語ってくれる書がある。それは、カントの批判哲学に触発されたドイツ精神史の一物語、といったところであろうか...
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、「一つの言語」という名辞を初めて使った人だそうな。この用語には、全人類の普遍言語を模索するという壮大な構想が伺える。言語が精神の投影だとすれば、言語の発達は精神の成熟度の指標となろう。本書で語られる言語哲学には、思想のための言語と実践のための言語の双方を凌駕すること、及び、様々な言語環境に身を置くことで自己育成を図ることを主眼とし、精神の発達を第一義的とする考えがあるようだ。そして、「内的言語形式(die innere Sprachform)」という用語を持ち出す。
「言語は常に人間の主観性の模写であろうとし、思惟は音形にはいって、はじめて客観的に認識されうるものとなる。主観と思惟は、言語において客観化されようと待っている。人間は、その思惟において生き生きと明瞭に認識するところは、これを言語に出さずにはいられない。しかし言語に表現する時には、同時に思惟において概念を判明にする契機がなくてはならぬ。フンボルトのいう表現とはこの判明化の意味である。」

言語は主観によってもたらされ、主観は客観に恋い焦がれ、記述によって客観化されようと望んでやがる。数学という言語には客観性と単純化という神が宿り、プログラミング言語には利便性と分かりやすさという神が宿る。だが、これらの神の正体は、いずれも直観による人間の思惑であって、直観もまた極めて主観に近い領域にある。
では、自然言語には、どんな神が宿るであろうか。言語の法則には法律と似た事情があり、国語学者は言葉の乱れに憤慨してやまない。それでもなお、詩人は孤高の道を行き、優れた文学作品は国語辞典を超越した表現力を発揮する。なるほど、芸術には自由精神という神が宿るようである。
人類が精神の正体を知らぬ今、言語に変化の余地を残さねば、精神を存分に記述することはできまい。言語の体系を語るのに、どんな合理的な記法を持ってしても、思弁的にならざるを得ない。ソシュールの記号論にしても、チョムスキーの深層構造にしても、なるほどと思わせるものの、それですべてが解決できるとは思えない。人間社会の多様性を相手取ることは極めて手強く、いまだ言語学は無限の坑道にある。したがって、言語には自由と柔軟性の神が宿るとしておこうか...
「態度と方法は、われわれにおいて自由である。何の主義、何の態度、何の学説によらなくてはならない... ということはない。過去でもそうであったし、将来もそうであるにちがいない。われわれは進んでみずからの手を敢えて縛る必要はない。対象は言語自体であって、その学説ではない。」

この時代、万能な天才を多く輩出したルネサンス時代から啓蒙時代を経て、まだその思想的余韻が残る。何事も本質を見極めようとすれば、学問の垣根に囚われることなく、自然に学際的となるであろう。
当時、フンボルトは様々な学問に精通した異色の政治家として知られ、学問では弟アレクサンダー・フォン・フンボルトの方が自然学者として知られていたようである。ナポレオン戦争後のヨーロッパ再編の時代、フンボルトはプロイセン第二位の全権大使として活躍。政界を隠退し、本格的に言語学者の道を歩むことになったのは、根っからの真理の探求者であったからであろうか。早朝から深夜まで制約がなければ、精神を存分に解放できる。真理の探求者にとって、これほど喜ばしい環境はない。現役から隠退した途端に生き方が分からなくなるとしたら、それは生きてきたのか、生かされてきたのか。そもそも人間は、死ぬまで人間を隠退することはできない。どんなに自発的に生きていると信じていても、人間は何かに依存せずには生きられない。精神活動が記憶と知識に頼るしかないとすれば、既に言語によって支配されている。確かに、言語を超越した精神活動は存在しうる。だが、それを記述できなければ、後世に残すことはできず、もはや永劫回帰は望めまい。ソクラテスがあえて記述を残さなかったのは、言語の限界を悟っていたからであろうか?フンボルトの言語研究の立場は、この言葉で言い尽くされている。
「人間は言語によってはじめて人間である。しかし、その言語を考案するには、すでにまず、人間でなくてはなるまい。」

1. 政治家フンボルト
ナポレオンの圧政から解放されると、全ヨーロッパでナショナリズムが目覚めていく。啓蒙主義の伝統は国家啓蒙主義へと微妙に変化し、やがて訪れる国家民族主義への変貌を予感させる。フンボルトもまた反フランス的な愛国者だったそうな。彼の全権としての立場は、こういうものだったという。
「国家を損なうのは戦争ばかりではない。防衛の手段を奪われて敵の餌食になるなら、平和こそ却って国家を頽廃に導くではないか...」
政治と学問の両刀使いの新しいタイプの政治家は、論理は鋭く弁が立ち、外国からも警戒される。オーストリア宰相メッテルニヒを筆頭に。とかく才ある者は身内からも疎んじられるもので、プロイセン宰相ハルデンベルクからも疎まれる。タレーランは詭弁主義の権化と罵ったものの、その才能は認めていたようである。
フンボルトの構想は、南はオーストリアを北はプロイセンを盟主とし、全ドイツの愛国主義的な大同団結を図ろうというもの、そして、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝を復活させ、進歩的な立憲君主国家を構築しようというものだったようである。イギリスの自由選挙制度を批判し、ルソーの社会契約論を斥け、モンテスキューの三権分立をもプロイセンの伝統に合わないとし、その上で、国民に道徳的な義務を植え付けようと。道徳や理性という美しい理念の強制によって団結を図ることほど、国粋主義と結びつきやすいのも確かだ。緩やかに結ぼうとするメッテルニヒと、頑強に結ぼうとするフンボルトの対立は、憲法案において鮮明になる。だが、ドイツ憲法は充分に機能していなかったようで、後にビスマルクがまとめた国は小ドイツであって、オーストリアは加わっていない。
政治思想とは、哲学的な理念を押し立てることから出発するものであろうが、理念だけでは政治的に無力となる。1819年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、宰相にハルデンベルクとフンボルトのどちらを選択するかを迫られた時、ハンデンベルクを選んだ。そして、政界を去る。

2. 自己育成と国家機能限界論
人類は、宗教の限界を経験し、国家の限界を経験してきた。自由精神は、どんなに優れた思想をもってしても、どんなに強力な武力をもってしても、強制などで鎮圧できるものではない。だが、有識者どもは、けしからん!と憤慨しながら、罰則の強化によって鎮圧するよう求める。相対的な価値観しか持てない人間にとって、自分の道徳観に自信を持つということは、他人の道徳観を蔑むことになろう。人間には、自分の理解できないものを認めようとはしない性癖がある。だから、第三者の目を要請する。精神を外界に晒すことは、けして自己を失おうとするものではなく、むしろ自己の素材を内的に検証することである。言語とは、そのための役割を果たすものであって、コミュニケーションやプレゼンテーションの手段であるばかりではあるまい。比較言語学とは、なにも言語や文化の優越性を掲げるものではないはずだ。
しかしながら、言語学が政治と結びつき、やがて民族優越主義の時代を迎えることに。フンボルトにもエリート主義的な態度が見られるものの、環境の多様性を自己育成の必要条件としている。ジャワ島のカヴァ語といったマライ・ポリネシア諸言語の広範な比較研究では、現地調査の執念を伝統とし、レヴィ=ストロースなどの民族学者に受け継がれているものと思われる。そして、自己育成に「国家機能限界論」を結びつけている。
「単なる力にもその働く場としての一つの対象が要る。単なる形式... 純粋な思想... にも、自らの刻印を印しつつ自らを永続せしむべき地盤として素材がいる。同様に人間にとっても自己以外に一つの世界がなくてはならない。自己の活動と認識の圏を拡大しようとする人間の努力は、このゆえにこそ起こりうるのである。しかしこの世界から得、もしくは世界において自己の外に実現しうるものは、実は人間にとって真の問題ではない。問題はもっぱら自己を内的に改善し高貴にするにある。あるいは少なくとも内的な不安の鎮静にある。純粋に、その窮極の目的性において見れば、要するに人間の思惟は、自己を自己に対して完全な理解の対象たらしめんとする精神の試みであり、人間の行為は自己内において自由であり独立であろうとする意志の一つの試みであり、その外的な営為の全体は一般に、自己において懈怠にあらざらんとする一つの努力に外ならない。そして思惟と行為の二つの実現は、ただ第三者、すなわち非人間的なるもの、すなわち世界の表象とその加工によって可能なのであるから、人間ができるだけ世界の多くを把握し、能う限り緊密にこれと結ぼうとするのも、また自然の勢といわなくてはならない。」

3. 言語研究と言語哲学
啓蒙思想から受け継がれる科学的な洞察が、構造主義的な観点を育んできた。19世紀初頭、印欧比較言語学が成立して、フンボルトのインド・ヨーロッパ語族の研究が花開く。
フンボルトの科学的分析は、物象性、外対性、特に音形性で成果を上げたという。人間の口の形はだいたい決まっていて、発する周波数が限定的だから、音声学は物理学である程度説明がつく。
しかし、意味論においてはどうだろうか?それこそ客観性や形式性からは程遠い。フンボルトの意図は、科学的な見地よりも精神分析に重きを置いている。比較言語学が機能するのは、比較対象が相互に類似点を持っている場合においてだが、人類の扱う言語はどんなものでも類似点を見つけることができると信じていたようである。言語を客観的に解明するということは、まさに人間精神を解明するに等しく、主観に支配された精神をどうやって記述するか、という途方も無い問題を抱えている。フンボルトがア・プリオリ的な直観主義者であったことは、必然なのかもしれない。
本書は、似たような思想路線の言語学者に、ノーム・チョムスキーを紹介してくれる。チョムスキーはフンボルトと等しく、またヒュームの説くところとも似ているという。ただ、チョムスキーの用語に「深層構造」という階層的な方法論があるが、本書は論理的な根拠は見いだせないとしている。ロマーン・ヤーコブソンの音形論も論理実証的な考察に基づく理論として知られるが、これまた一般言語論には至らないとしている。ソシュールはデカルト的な清掃工作を言語学の方法論に試みた人と言われるらしいが、一応成功するものの、彼もまた経験的な言語学者として一般性の域に達していないとしている。
こうした理論は数学的過ぎるということであろうが、そもそも自然言語を完全な法則や理論に当てはめることなどできるのだろうか?今日では、むしろコンピュータ科学の分野で役立ってきたと言えよう。プログラミング言語における構文解析や字句解析、あるいは、通信設計における語彙の作成と配列、検索技術などで実用性が高い。どんな言語を用いるにしても、例外的な扱いが生じる。数学ですら不完全性定理に見舞われているではないか。どんな学問であれ、一般性と普遍性は混同されがちである。三角形の内角の和が二直角に等しいということは、ユークリッド幾何学における一般性であって、宇宙における普遍性ではない。言語研究と言語哲学の違いとは、こうした一般性と普遍性の探求の違いに表れているのかもしれない。
直観は偉大であるが、人間の言語能力を生得的であると信じるがあまりに、思考を硬直させる恐れがある。そこで、哲学者クヮインという人物を紹介してくれる。どこかで聞いた名だが、クワイン・マクラスキー法の???どうやらそうらしい。カルノー図と同様の目的で使われるブール関数を簡略化する方法で、コンピュータ工学を学んだ人なら聞いたことがあるはず。クヮインは物理学にも精通し、経験的な見方も取り入れて、無限性においてはチョムスキーよりも分があるという。言語研究の流れは、科学的な立場から受け継がれる面が強いようである。
では、こうした傾向に対して、フンボルトの言語哲学はどうあり続けたのであろうか?はたして彼は、言語の本質を掴み得たのであろうか?それも疑わしい。既に数千年の歴史が、それは不可能という結論を出しているのかもしれん。フンボルトは、一般文法なるものを嫌ったという。多くの言語から浮かび上がった論理的操作、すなわち結果論に過ぎないとして。
「私は無限に富んでいる、何となれば地上に私が有効に摂取し得ないものは一つとしてないから。しかもまた無限に貧しい、何となら到達し得べからざるものへの憧憬が常に私を満たしているからである。かつて私は宗教的だったことはない。しかも篤信の人と全く異なるところがない。何となれば私は所有し把握し得べからざる無限なるものに常に心を惹かれ、最も好んで畢竟、永遠なる一つの理念において生活しているからである。」

4. 言語の分類
「言語は本質的に総合である。そして一つの連続体である。」
文章は順序正しく直線的に書かれる。しかし、文豪の手にかかれば、立体的な像を見せてくれる。ページ順に行儀よく並ぶ文字の大群が一斉に押し寄せると、頭の中で再マッピングされ、記憶と精神の空間において有機体のような存在となる。それは、文法論だけでは説明できない精神現象だ。文法には、一般的に規定される外面的なものと、暗黙のうちに自我に形成される内面的なものがある。フンボルトが問うたのは、内的現象の方であろうか。
「若干の固定したクラスに言語を分類しようとするのは悲しむべき思想である。それはまた言語の生きた個性を抹殺するものだ。」
しかしながら、本書に示される四つの種別も、若干の固定したクラスに映る。言語を構造的に分類する場合、「孤立語」「膠着語」「屈折語」、そして、フンボルトが土着言語の研究から唱えた「抱合語」の四つに種別する見方があるという。
屈折語は、原則として意義部と形態部(文法部)とを切り離せないという。意義と文法的役割が、同時にしかも有形的に与えられる特徴があると。主語として立ち、格、数、性において形容詞の形を決定し、数において動詞と一致し、文全体の可能性を決定している。しかも、文における個々の語の独立性は、このために却って明瞭である。単位においても全体構造は予想される。こうした特徴から、総合的に最も完全で最も自由であるとしている。
膠着語は、意義部と形態部の総合が充分でないという。単に接合があるのみで、屈折語のような融着はないと。
抱合語は、原則として文形の全体が固定し、総合の作用には全体を予想する単位と、単位を予想する全体の自由な交流による軽快で冷静な活動がないという。
フンボルトは、これら四つのタイプで、屈折語こそが最も完成度が高いとしたようである。そして、最高位から屈折語、膠着語、抱合語、孤立語の順に評し、サンスクリットとシナ語は屈折と孤立において両極をなすとしている。
ただ、このようなランク付けは独断的な印象も与える。フンボルトがインド・ヨーロッパ語族主義と言われる所以であろうか。西欧中心主義の旺盛な時代ではある。実際、哲学するのに最も適した言語はドイツ語とする哲学者は少なくない。英語は現象の言語で、ドイツ語は理念の言語である、といった具合に。文学作品を、英語で読むのとドイツ語で読むのとでは、ニュアンスも大きく違うだろう。現代の傾向では、屈折語的な特徴が失われ、孤立語的、膠着語的な性格が強まり、特に英語において顕著なようである。源氏物語のような古典を読む場合でも、古典語と現代語では印象が随分違う。言語で精神を完全に記述できないとすれば、文学や哲学の作品では、言葉の裏を読むという技術が求められる。作者の意図を汲み取るには、読者の側からも登っていくしかあるまい。
しかし、情報が溢れる社会ともなれば、分かりやすく簡易的な文章に群がり、文章を隅々まで読むよりもインデックスの検索に注力する、といった皮相的な傾向を強める。

5. シラーやゲーテとの親交
フンボルトが主観主義であったのは、カントの影響というより、カント研究に没頭したシラーの影響のようである。その理想は、カントの批判精神に、プラトンやアリストテレスに発する美的精神を融合して、人間論を完成させようというもの。フンボルトはある論文を発表した時、こう言ったとか、言わなかったとか...
「内容はカントのごとくであって、カントのようではなかった。だからカントはよく解らない!」
カントを知り尽くしたという自負があるからこそ、あえてこう言ったのかは知らん。
また、古典の翻訳作業では、ゲーテに手助けを乞うているそうな。ゲーテの詩「ヘルマン・ウント・ドロテーア」は、ホメロスと同じようにダクテュロスの六脚韻を踏んでいるという。ゲーテとは、古代哲学を尊重する観点から意気投合したようである。哲学の究極目的は、人間そのものである。あらゆる美学は人間性に起因し、それゆえに美と道徳も一致することができる。芸術は、趣味を超越した自己育成をもたらすであろう。客観性は、人間性を排除しようとする試みであり、主観性を崇める理由がここにある。それは、客観性を排除しようとするのではなく、相補関係にあろうとすること。ゲーテは、こう語ったという。
「主観のなかにあるすべては客観のなかにある。しかもなおそれだけでは納まらない、何かまだあまりがある。客観のなかにあるすべては主観のなかにある、しかもなお何かあまりがある。」

6. 近代言語学事情
「少なくともその主流を占める近代の実証的な言語学は... 言語という心理的、社会的、または人間的な現象は、どのようにしてこれを最も合目的的に記述し理解すべきか... を、問題としている。言語は何であるか... あるいは、言語的総合はどうして可能であるか... のような思弁は、それぞれ哲学の分野に依託して、一応はかえりみるところがないと、いってもよい。言語学の問題の据え方においては、言語の存在と作用の客観的な現実性は、自明のことだとしているのである。」
言語学には歴史性の他に共時性という見方があり、さらに、比較言語学や音声学といった見方も現れ、そこに心理学が結びついてきた。そして、社会学や人類学の領域まで踏み込み、方言や言語の分布という観点から言語地理学という分野も開拓されてきた。このような様々な合理的な分析は、西洋を中心に行われてきたが、極めて思弁的であることも否めない。
本書は、言語学の勃興、凋落が特に激しくなったのは、第二次大戦以降だと指摘している。あらゆる分野に科学技術が導入され、新言語理論は主にアメリカで起こる。数理・計量言語学である。こうした数学的な理論が、充分に言語の用法とは合致せず、一般言語理論として発展するには至らなかったという。さらに、モリス・スウォデシュという人が言語年代論を唱えてから、外象的な面に囚われるようになったと指摘している。
しかしそれは、言語学だけの問題ではあるまい。社会全体、ひいては精神に関わるすべての学問が抱える問題であろう。大昔から弁論術や修辞学がもてはやされ、現代ですらプレゼンテーション技術が象徴するように、そこそこ理があって、見栄えの良いものに目が奪われがちだ。メディアが発達するほど、群れの本性を目立たせるだけのことかもしれん。ステレオタイプ的な見方や流言蜚語の類いなど、概して人間は噂話がお好きよ!

"言語と精神" Noam Chomsky 著

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泉井久之助著「言語研究とフンボルト」によると、ノーム・チョムスキーはフンボルトの路線にあり、またヒュームの説くところに似ていると紹介される。それは、カントの批判哲学に継承される直観主義的な学者だということである。
幼児には、生まれつき言語を習得する能力が具わっている。生まれたばかりの餓鬼には、純粋な共通観念のようなものが見えるのだろうか?もし、この世に普遍言語なるものが存在するとしたら、プラトンが唱えたイデア的な存在、すなわち精神の原型をとどめた者にしか見えないのかもしれん。
しかしながら、一旦知識を獲得すると、知識のなかった頃の自分を思い出すことは難しい。高名な学者たちですら、科学的な見識を重んじるあまり、計量や数値化に因われているではないか。言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を知れば、それをひけらかさずにはいられない。人間精神ってやつは、知識が蓄積されるほど生得性から遠ざかり、何事も理屈で説明できないと落ち着かないものらしい。なるほど、言語の習得とは、自己に言い訳するための屁理屈論であったか...

能書きはさておき、言語機能を一つの有機体として捉える考察は興味深い。一般的に言語能力と呼ばれるものは、自明な精神現象とは言い切れず、仮説の域を脱していないように映る。あるいは、暗黙に前提されるぐらいなものであろうか。
本書は、ア・プリオリな習得能力をもって「生成文法」なるものが育まれるとし、さらに第二言語の学習戦略にまで議論が及ぶ。そして、行動科学は、実際に生じる行動パターンに目を奪われ、心的現象から遠ざかりつつあると指摘している。なにも構造言語学や分類学といった科学的な見識を否定しているわけではなく、一定の成果を認めつつも距離を置いているようだ。
確かに、近代言語学が経験主義的であることは否めない。そうなると、二段階の考察が必要になりそうだ。つまり、言語が生得的に発達する段階と、知的に発展する段階である。本書においても、科学的な分析を取り入れながら「深層構造」「表層構造」の二つの層に着目し、双方を繋げるための直観的な操作に「変形生成文法」という用語を持ち出す。粗削りな見方をすれば、深層構造で意味解釈を与え、表層構造で文法形式を与えるという役割分担になろうが、そう単純ではない。ソシュールは、記号を構成する要素に意味的なものと表象的なものを区別しておきながら、その不分離性を唱えた。身体と魂のごとく、けして切り離せないモナドのような存在と言わんばかりに。
しかしながら、自己精神の中で合理的な文法形成と心理的な意味解釈の融合を図っても、主観は客観を鬱陶しく思い、客観は主観を罵ってやがる。言語の研究から、教示的なことは何一つ言えそうにないではないか。精神を相手取る理論では、様々な変種が生じるのも道理というものか。チョムスキーやフンボルト、あるいはソシュールやヤーコブソンの理論が一枚岩ではありえないし、様々な批判的立場が共存するのは健全であろう。それは人類が、いまだ主観と客観の双方を凌駕できないでいる証であろう...

ところで、言語ってやつは、生活習慣に最も密接に関わるくせに、その正体は見えない。言語とは、やはり空虚な存在なのか?そんなことは問わずとも、薄々気づいている。愛の言葉によって...
精神に関する学問が困難を極めるのは、あまりにも身近にあるからであろう。人間ってやつは、外的な問題に対してはすぐに難癖をつけるくせに、自己の問題となると沈黙しやがる。自分の事を知っているという自負が、もはや疑問すら持てないでいるのか?
ウィトゲンシュタイン曰く、「事物の最も重要な面は、単純さと身近さゆえに覆い隠される。」
もしかしたら、人間は自分が人間であることも、人間がなんであるかも、知らないのかもしれない。デカルトは、物理現象の説明原理に精神の存在を要請して「哲学原理」を書した。ニュートンは、説明の根拠に完全な原理を求めて「自然哲学の数学的原理」を書した。ニュートンもまたデカルトに対抗して、精神までも含めた原理を数学で説明しようと目論んだのであろうか?精神の原理を説明するのは、やはり芸術家の方が優っていそうだ。芸術家が新たな境地を求め続けるのは、人間であり続ける日常に退屈しているからであろうか?ヴィクトル・シクロフスキーという言語学者は、こう語ったという。
「海辺に住んでいる人々は波のささやきに慣れてしまって、それが彼らの耳に入らない。同じ経緯で、われわれには自分たちの発する語が決してと言ってよい程に耳に入らない、... われわれは互いに見合うが、お互いがもはや目に入らない。われわれの世界では知覚は萎え凋んでしまって、残っているものは単なる認知作用である。」

1. コンピュータ神話
1950年代初期、言語学に著しい凋落が生じたという。ヒルベルト問題が提示されたのが1900年、すべての物理現象は数学で解決できると意気込んだ科学者に、ノイマン型コンピュータという強力な武器が加わった時代である。精神という最も神秘的な現象までも、科学で説明できる日はそう遠くないと信じられた。今日ですら、機械翻訳や自動要約といったツールを、鵜呑みにする人を見かける。多言語間で単語と単語を一対一に対応づけ、数学的に定式化したアルゴリズムを崇める人も少なくない。
確かに、通信工学における数学理論は、語彙の作成と配列、あるいは検索技術などで実用性を高めてきた。オートマトン理論を神経学と結びつけたり、音声学をスペクトル解析と結びつけたり、といった技術は一定の成果を挙げている。構造主義的な発想から、刺激(stimulus)と反応(response)を入出力信号と結びつけて、S-Rの心理学を通信モデルとして実装することは、有限領域においてある程度は可能である。生理学的なメカニズムから条件反射の連想を定式化できるか?という問題は、低水準の知覚においては可能であろう。熱い!やら、痛い!やら。
しかし、理性や意志といった精神の根源的な性質となると、どうであろう?言語の本質は、まさにこの領域にある。そこには、無限の単語、無限に組み合わせた文章があるだけでなく、次々と生成される新語もあれば、社会から自然消滅していく死語まである。メモリ空間上のインスタンスのように、使い終わった知識をきちんと消去しないと、社会はゴミで溢れる。言語の体系は生活習慣や環境条件、あるいは自然淘汰などとも結びつき、量子論的進化論という観点も必要であろう。自然言語の研究とは、人間自身の探求であるが故に、その道は永遠であり、挫折感も大きい。ならば、言語の表面的な現象を追いかけるよりも、まずは精神の正体を知ろ!ってか?まさか、チョムスキーはそこまでは言うまい...

2. 深層構造と表層構造
言語を習得すれば、意味と音声の関連付けを身に付けることになる。だが、深層から意味や解釈と結びつき、表層から音声や形式と結びつくといった単純な関係ではなく、表層から意味と結びつくところもあれば、深層から音声と結びつくところもある。とはいえ、深層構造と表層構造との関連づけに何らかの規則性がない限り、人間社会に文法のような現象は生じないだろう。その初期段階における関連づけが、「生成文法」ということになる。
さて、二つの層の関連付けの規則を「文法変形」と呼ぶそうな。「変形生成文法」という用語はこれに由来するという。
本書の事例では、NP(名詞句)やVP(動詞句)を分離しながら、構文木構造が示される。プログラミング言語における構文解析や字句解析と原理的には同じである。人間精神にもコンパイラという神が住んでいるとすれば、苦労はない。深層構造から表層と意味を分離し、主語と述語の関係や動詞と目的語の関係などから基底構造を見せつけられると、確率的ではあるが規則性なるものを感じる。言葉の用法には個人差も大きいが、それぞれ口癖といった形式もある。それがすべてではないにせよ、ある程度の定式化は可能であろう。文法の役割は、ここにあるのだろうけど。
しかしながら、人間の認識能力とは奇妙なもので、言葉が直線的に配列されるにもかかわらず、精神空間には立体的な像を映す。単語が順序正しく整列していても、認識段階では勝手に順序を入れ替えたり、並列に眺めたりしている。絵画でも眺めるように。このような精神現象を構文的な観点から、どう説明できるというのか?幾何学的言語投影論でも唱えない限り、説明できそうな気がしない。もし、言語を精神空間にマッピングできる法則が見いだせるとすれば、それが普遍文法ということになろう。とはいえ、精神空間は何次元なのか、そもそもユークリッド空間にあるのかも知らん。空間の歪は精神状態によっても変化するだろうし、少なくとも泥酔状態の次元はぶっ飛んでやがる。泥酔状態をオートマトン理論でモデリングできれば、数学は真に偉大となろう。深層構造と表層構造の組合せは、無限空間に君臨してやがる。そして、フンボルトのこの言葉ほど本質をついたものはあるまい。
「有限の手段を無限に用いる。」

3. ポール・ロワイヤル文法について
言語学には、哲学的文法と構造言語学の二つの伝統があるという。哲学的文法の代表に、ポール・ロワイヤル文法について言及される。この文法形式が、フランス語で書かれたことは有意義であったという。だが、ラテン語に翻訳されたことが物議をかもしたとか。当時のデカルト主義者たちは、ラテン語を人工的に歪んだ有害な言語と見做していたそうな。問題となったのは、正当な文法からはみ出した慣用という現象を、いかに合理的に説明できるかである。
ところで、自国語の文法的な特徴を真面目に考える時は、外国語との対比においてであろうか。そもそも喋る時に文法なんて意識しない。そんな言い方はしないなどと言うことはできても、文法的な根拠を示せるわけでもない。
とはいえ、感覚に働きかけて、言語の知識を生み出すなんらかのメカニズムはあるはず。基底にある深層は言語形式の抽象的な組織を具え、精神に現存する。そこになんらかの表象信号が生じると、無意識に表層が形成され、内的器官によって知覚される。言語能力とは、深層構造と表層構造を生理的に連結する機能とでもしておこうか。哲学的文法の真の意図は、文章を解釈する技術を提供するよりも、心理学的理論を展開することにあったようである。

4. 一般性と普遍性
チョムスキーは、レヴィ=ストロースの原始的心性の分析を称賛する。レヴィ=ストロースは、意識的に構造言語学、とりわけプラハ学派のトゥルベツコイとヤーコブソンを取り入れているという。そして、音素分析と同類の手順を社会や文化の下部体系に適用することはできないとしている。無限の多様性を強調しているところにも、フンボルトの継承を感じる。
所詮、生得的な能力を取り戻すことは、脂ぎった欲望を知ってしまった泥酔者には無理な話よ!できることと言えば、多様性に寛容になるよう努力するぐらい。おまけに、自己の言語体系の中で直観を意識することもできず、口の動くままに身を委ねるのみ。心にもないことを口に出すのは、潜在意識がそうさせるのか?語彙の集合から勝手に優先順位が付けられるのか?回帰的に思考を繰り返した結果として言葉を発しているのだろうけど、その意識すらない。脳の中で生じる神経系を辿ることなど不可能だ。それこそ霊媒師にでも依頼するか。
精神空間が主観性に支配されているとしたら、地上の誰にでも理解できる共通言語には、かなり制限を与えることになろう。そうなると、言語は単純化し、本来の特徴である自由度を失うのではないか。だから、世界規模でメディアが発達すると、言葉の揚げ足を取り合い、単純な言葉で罵り合うのか?共通や共有の意識ばかりを崇めれば、言葉は分かりやすい方向に傾倒し、言葉の裏を読むことや、暗喩や比喩といった技巧が廃れるのではないか?
その一方で、芸術心と戯れる人たちによって言語技術は高められる。となると、言語の用法は二極化して、普遍言語から遠ざかっていくのか?実際、グローバル化の時代に、意識格差、情報格差、教育格差、所得格差... などの二極化現象が生じている。能動的な生き方をするか、受動的な生き方をするかの違いが、そうさせるのかは知らん。
それはさておき、言語にとって相性がいいのは、経済的合理性と精神的合理性のどちらであろうか?少なくとも普遍性とは、一般性とまったく異質なもののようである。尚、多数決の原理は普遍性よりも一般性の方を好むようである。

5. 第二言語の学習戦略
第一言語を学ぶ時は精神状態は極めて純粋にあるが、第二言語を学ぶ時は少し事情が違う。それは、余計な知識が邪魔をするということだ。文法を真面目に勉強すると言語の習得が遅れるとも聞く。言語をビジネスや金儲けの手段と考えれば、脂ぎった欲望が精神を支配し、もはや純粋な欲求が見失われるのだろうか?まだしも趣味や興味といった動機の方が、純粋な欲求に近い。第一言語と第二言語の習得レベルを同列に位置づけられる能力が、多言語話者とさせるのだろう。本当に普遍言語や生成文法なるものがあるとすれば、普遍的な欲求というものもあるのかもしれない。
チョムスキーは、知覚表象が第一次構成物で、文法はあくまでも第二次構成物としている。文法ってやつは、ある程度の習得があって、初めて機能するものかもしれない。ただ、基本的な文法が幼児によって形成されるという事実から、目を背けるわけにもいくまい。
「人間の精神はなにかの種類の真の理論を想い描くことに生まれながらの順応性をもっている。... 人間はもし自己の要求に順応した精神という賜物をもっていなかったならば、いかなる知識も獲得できなかったことであろう。」
さて、実践的な言語学習法では、限りなく第一言語の習得状態に近い精神状態を保つことになりそうだ。まずは、幼児的な視点で基本的なフレーズを真似て、それを繰り返す。そこそこ知識が蓄積されると、本当の意味で言語の発達を試みる。大まかにはこの二段階を踏むことになろう。ただ、最初の段階でも、そこそこの応用力が身につくだろうから、段階の移行過程は連続的で、自然な流れになるのだろう。学習の仕方もまた無限にありそうだ。どんな知識を獲得するにも、方法論は人の数だけあるぐらいに思った方がいい。
いずれにせよ、言語とは学ばされるものでもなければ、教えられるものでもなく、自発的な欲求に身を委ねるしかあるまい。したがって、アル中ハイマーは純粋な欲求に身を委ねて、外人パブへと消えていくのであった...

"死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話" Elisabeth Kübler-Ross 著

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古来、死は忌み嫌われてきた。これからも、ずっとそうだろう。死と対峙する心構えについては、偉大な哲学者たちが様々な処方箋を提示してきた。ソクラテスは魂の不死を唱え、キリストは死を霊魂の肉体からの解放とし、神に近づくための昇天とした。あるいは、絶望的な限界を生きることで真の自己実現を目指し、生と死、希望と悲惨を一体化するという考え方もあれば、死を無意味な偶発的事故として徹底的に無視するという考え方もある。
いずれにせよ、死の不安をいかに克服するかを問うことに変わりはない。人類はいまだ、死の意義どころか、その正体すら知らないでいる。おそらく、生の意義もよく知らないのであろう。俗世間では、命が最も大切だ!と声を揃えてやがる。数日後、数ヶ月後、確実に死が訪れる末期患者に対してもなお、この言葉で力づけられるとすれば、それは真理かもしれんが...

命とは、なんであろう。近代医療は、肉体という物理的な存在に対しては大幅な進化を遂げた。延命措置を駆使すれば、機械的に生かすことはある程度可能となり、薬漬けで無理やり生かされるケースも少なくない。死は生命体にとって最も身近な現象であり続け、これを避けることはできない。にもかかわらず、精神的な対処法となると、これを遠ざける。寿命が延びれば死は非現実世界へ追いやられ、メディアの無神経な死の扱いが同情を誘う皮相的な演出を呼び、死をますます冷めて見せる。人類の死に直面する能力は、低下しつつあるのだろうか...
その一方で、末期患者たちは、毎日の医師の回診や、定期的に薬を持ってくる看護師を、ただうつろに待ち受ける。お座なりに精神安定剤を処方し、さっさと追い払おうとしているに違いない... と心のどこかで呟きながら。彼らは、真の会話に飢えている。それは言葉なんぞではない。傍に居るだけで無限の安らぎを覚えるような、人間としての威厳を保つことができるような、そんな何かを求めている。ましてや婉曲法など無力だ。コミュニケーションの本質は、言葉よりも、むしろ沈黙の方にあるのかもしれん...

精神科医エリザベス・キューブラー・ロス、彼女は二百人以上もの末期患者にインタビューし、その接し方についての一つの学習モデルを提示してくれる。それは、死に向かう五段階の精神遷移を承知することである。第一段階「否認と隔離」、第二段階「怒り」、第三段階「取引」、第四段階「抑鬱」、第五段階「受容」...
これらの反応は、順序どおりに起こるとは限らないし、併発させることだってある。ただ、すべての段階に常に並行してつきまとうのが、希望ってやつだ。同じ人物でも精神段階によって求めるものが違う。生きることだけが希望ではないってことだ。現実に、死にたいと願う人たちがいる。それは、いいことがあるなら生きていたいという願望の裏返しでもある。もっと悲惨な仕打ちは、数十年、あるいは生涯、闘病生活を強いられ、生き地獄を生きる患者であろうか。
健康な人ですら生き甲斐を見つけることは難しい。実際、ほとんどの人が惰性的な安定や惰性的な幸せに縋って生きている。生き甲斐とは、死を迎えるための準備段階を生きるということであろうか。神経学者オリバー・サックスは、医師と患者は互いに対等で協力関係にあり、医師が患者を治してあげるといった類いのものではないと語った。キューブラー・ロスにも同じ視点を感じる。これは、受容の境地に達し得た人たちに、教師になってくれ!と頼んだ記録である...

「危険から護られるよう祈るのではなく、恐れることなく、直面しよう。苦しみの納まることを願うのではなく、それを克服する心をこそ願おう。人生の職場で同盟軍を求めるのではなく、われわれ自身の力をこそ求めよう。救われることを心配しながら求めるのではなく、自由を勝ち取る忍耐をば望もう。自分の成功のためのみに慈悲を当てにする卑怯者ではなく、わたしの失敗のなかにあなたの手の握りを発見する勇者でありますよう。」
ラビンドラナート・タゴール「果実採取」より...

1. インタビューの反応
人間ってやつは、優しい反面、残酷だ。インタビューを申し込めば、抵抗にもあう。だが意外なことに、猛烈に拒絶するのは医師や看護師たちの方で、自分の重大疾患を語りたがらない患者は少ないという。
「自分自身否認を必要としている医師は、否認を患者に見いだす。対決をためらわない医師は、彼らの患者もまた対決をためらわないことを見いだす。否認の必要度は、医師自身の否認の必要度と正比例する。だがこれはまだ問題の半面でしかない。」
十分苦しみました!そろそろこの辺で... と口にする者もいれば、いつも奇蹟を信じ、これが奇蹟です!もう怖ろしささえなくなった... と口にする者もいる。戦場のタコツボには無神論者はいないとよくいわれる、これは真理です... と語る者。そして、人工呼吸器なしでは生きられない筋萎縮性側索硬化症の患者は、意思能力が完全に麻痺し、ベットに横たわったまま感情を告げることもできない。だが、多くを話しかけるうちに微妙な反応に気づき、その眼は言葉以上に雄弁であったという。さらに、こんな題目を突きつけられると、もう言葉にならない。
「知恵の発達が遅れている子どもと幼女と、病気の老人二人を抱えて白血病で死んだC夫人の悩み」
人間にとって、死に直面することよりも孤独に直面することの方がはるかに問題なのかもしれない。人間は無に対して異常に拒否反応を示し、無駄、無意味、無価値といったものを忌み嫌う。死を無と重ね、無に帰することを極端に恐れる。それは、自己存在を否定する道だ。だからこそ、死にも意義を求めずにはいられない。
ようやく死を覚悟し、運命を受け入れる境地に達した者に、延命は却って残酷を強いることになる。タブーの言葉を避けようなどという配慮は、虚しさを強調するようなものか。そんなことは、少し余裕のある者の特権なのかもしれない。もはや彼らは、自分を曝け出さずには生きられない。それでもなお心が平静でいられるならば、理性の力は偉大となろう。
キューブラー・ロスは、末期患者たちと対話するには、まず死からの恐怖を取り除かなければならないと語る。告知に際しては、感情移入されているという情緒が大切であると。それは、戦友であることを明確に意思表示することだと。そして、彼女の患者のほとんどが、平和と威厳のうちに死んでいったという。人間らしく生きる権利を主張するならば、人間らしく死ぬ権利を主張してもいい...

2. 死に向かう五段階... 否認、怒り、取引、抑鬱、受容
誰でも最初は、目の前の不幸を信じたがらないものであろう。そして、現実逃避に走る。病どころか、自分の醜悪や愚行ですら認めようとしないではないか。自分が社会の役に立ち、組織の役に立ち、家族の役に立つと信じきっており、それが認められなければ、怒りを露わにする。ふと怒りが去っていくと、せめて苦痛や激痛を和らげてください!と祈り、神と取引しようとする。
やがて訪れる抑鬱には、「反応抑鬱」「準備抑鬱」の二種類があるという。二つとも性質が正反対なだけに、まったく違う接し方が求められると。思いやりのある人ならば、抑鬱の原因を探り出し、それにともなう非現実的な罪責感や羞恥心を幾分でも和らげることは、それほど難しいことではあるまい。自然な振る舞いが、反応抑鬱に対抗する態度となる。
しかし、準備抑鬱の方はどうであろう。世界との決別を覚悟するための悲嘆、これは本人が乗り切るしかない。周りができることといえば、物事をそう暗く絶望的に考えないように配慮することぐらいであろうが、却って仇となりかねない。空元気を吹き込んだところで、お前さんに俺の気持ちは分からんよ... となる。患者に対する無知と理解不足が、過度の干渉となり、鬱を助長させる。準備抑鬱は、冷静な心持ちで自己分析ができるだけに手強い。
「不可避の死を回避したいと闘えば闘うほど、死を否認しようとすればするほど、この不安と威厳とに満ちた受容の最後の段階に到達するのがむずかしくなる。」
これらの精神状態を乗り切って、いよいよ受容の準備が整う。しかしながら、この境地に達するための最も妨げとなる存在が、患者の家族という場合が往々にしてある。ある患者は、こう口にする。
「すでに死ぬ心構えが出来ているのに生きるために闘うことを強制されるのは悲しい...」
患者だけを救おうとしても救われない。死に向かう五段階は、家族も医師も看護する者も一緒に共有しなければならない。この共有こそが最も難しい問題なのであろう...
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